72.光に選んでくれたあなたへ
こんなふうに、アストンの言葉を待つことがあるなんて、少し前の自分には、きっと想像もつかなかった。
目の前の灯りは静かに揺れているだけなのに、胸の奥では言葉を待つ心臓が、とん、とん、と高鳴っている。
市場のざわめきは遠く、ここだけ世界が切り取られたように静かだった。木に散りばめられた硝子飾りが、灯火の光を受けて静かに輝く。そのたびに、アストンの横顔の影が、少しずつ形を変えていた。
灯火の眩しさも、夜の寒さも、今は感覚から遠い。ただアストンの声が落ちてくる瞬間だけが怖く、愛おしかった。
「もうじき、一年が終わるだろう。……一年前は、今の自分の姿は、想像もついていなかった」
――一年前。あの頃のアストンはいつも、少し遠かった。それは、単に素っ気なかったということではない。言葉を探しては途中で失くしてしまうようなぎこちなさが、ずっとその背に張り付いていた。
笑う顔だって。やっとちゃんと見られたのは、雪の名残が消えて、春が深まった祭りの日のことだった。
「親父が死んだと思ってからは……俺は、周りに生かしてもらっていたから、生きていた。だが――」
ふ、と灯火が揺れた。風が木の枝を鳴らし、星飾りが微かに触れ合って、小さな音を立てる。
「本当は、両親が夜空にいるのなら、自分もそのそばに行きたいと思ったこともある」
言葉が胸の奥に落ちた瞬間、息を吸うのを忘れた。
あの頃、どこかで感じていた危うさが、輪郭を持って立ち上がる。消えてしまいそうな儚さを思い出した途端、胸の奥がぎゅっと掴まれた。
アストンのひとりで抱えてきたものの重さが、今になって胸に迫る。蹲っていたであろう長い時間を思うと、胸の奥が縮む。どうしようもなく、何もできなかった自分の手が悔しくなるほど、その痛みは切なかった。
ふと、アストンの顔が上がる。
そうしてこちらを捉えた瞳は――木漏れ日の色で、微笑んでいた。
「そんなときに、ティアと出逢えた」
告げるその後ろで、木にかかる硝子の星が、風に揺れて煌めく。
心臓がひとつ打つたび、体がほんの少し、前へ引き寄せられるような気がした。
「不安や痛みを抱えながらも、それでも諦めずに歩こうとしていたその姿に、俺はずっと、手を引いてもらってきた」
アストンの声が、胸の内側へ静かに染みこんでくる。
自分はただ必死で、情けなくて、格好悪いところだらけだと思っていたのに。それでも見ていてくれたのだと思えば、胸の奥が熱く震え、白い息が零れた。
「一緒に過ごすうちに、俺はようやく、自分で道を見つけて歩こうと思えた。ただ息を続けているだけではなくて――もう一度、確かに生きようと、思えるようになった」
――自分の方こそ、何度も何度も、救われてきた。
そう言葉を返したいのに、喉が詰まって声にならない。
灯火が揺れるたび、アストンの横顔は静かに輪郭を変えていた。一年前よりも、やわらかくなった表情。前に進もうとするその顔が、たまらなく格好良く見えた。
アストンは、覚えているだろうか、と宙を見遣った。
「春の初めに、店の電球を灯してくれたことがあっただろう。……北極星を抱いて手を振ってくれたことを、俺は今でも覚えている」
胸が強く、締め付けられた。
春先の風がよみがえる。仕事のほかは、きっと二年前から手付かずのものが沢山あって——アストンに歩む元気の、なかった頃。何か些細なことでも力になりたくて、替えの電球をせがんだ。
手助けになれたという感触は、あのときはなかったけれど。灯した星の光はアストンの胸にちゃんと届いていたのだと、鼻先がつんと痛んだ。
記憶の中の明かりと、目の前の灯火が重なっていく。
アストンは、眩しそうに目を細めている。その瞳が、遠いいつかの光景ではなく――こちらを見詰めているのだと気づいた瞬間、心臓が強く跳ねた。
「ティアは俺にとってずっと、道標になる光だった。……出逢ってくれて、ありがとう」
胸の奥を掴まれる。深く、心のやわらかな場所に言葉が触れ、呼吸がうまくできない。
灯火が揺れたのか、自分の視界が揺れたのか、もうわからなかった。
「私も、私だって……一緒にいてくれて、ありがとう」
瞳からあふれた熱のせいで、目の前が滲む。言葉が胸の熱さを抱えて膨らみ、喉に詰まる。
「アストンは、私がひとりで走れてたみたいに言ってくれたけど……ずっと、いつも、アストンは私の背中を押してくれてたんだよ」
これでいいんだ、進んで大丈夫だ、と。見守ってくれてたから、自分はどこへでも行けたのだ。
それにね、と言葉が零れる。本当は、何よりも一番に胸に迫ったのは――前に進む足取りに、自信がついたことではない。
「アストンのおかげで、私、自分を――今だけじゃなくて、昔の自分も、好きになれたんだよ」
砂浜で過去の足跡に小さな光を見つけ出し、教えてくれた日を、忘れたことはない。あの日だけではない。不器用な言葉で、やさしい眼差しでずっと、この身の中にあった光を拾い上げてくれていた。
遥か遠くで輝く星に憧れて、近付きたいと手を伸ばしていた。どれほどの距離を駆ければ行きつけるのか、果たして自分はなれるのか――わからずとも目指し続けていたその原動力は、ただ一つだった。
今の自分ではない何かに、なりたい。
今だって、もっと先へという気持ちに変わりはない。けれど――もう、ちゃんと、自分を愛せる。駄目なところも嫌なところもあるけれど、それでも、私は私が好きなのだと言える。この自分自身と一緒に前へ進みたいのだと言える。
胸の奥には、静かであたたかな灯が灯っていた。
先ほどまで胸を満たしていた光は、夜にそっと包み込んでくれる毛布のような、ぬくもりへと落ち着いていく。
風が通り抜ける。遠くの屋台から、鍋の蓋が鳴る軽い音と、人の笑い声が重なって届いた。どこかの店先から流れ出た湯気が薄く広がり、灯火の橙がやさしく溶け込んでいく。
胸いっぱいに広がっていた煌めきが、体温を持った温もりへと形を変え、足元の石畳にまでじわりと染み込んでいくようだった。
――幸せだな、と思った。
ただここに立っているだけなのに。たったそれだけのことが、どうしてこんなに満たされて感じられるのだろう。
ふと、隣でアストンが視線を外した。灯火の連なる先――少し離れた屋台の明かりの群れを、ほんの一瞬だけ見つめる。横顔に落ちた影が、かすかに沈んだように見えた気がした。
けれどそれは、次の瞬間にはやわらいで、いつもの穏やかな表情に戻っていく。
「ティア。一つだけ、聞いてもいいだろうか」
静かに声が落ちる。優しいのに、どこか胸の奥に触れてくる響きだった。
「ティアは、この街が好きか。……ずっと、ここにいたいと思うか?」
うん、と迷わず笑顔で頷いた。
「賑やかで、優しくて、大好き。お仕事も……まだたくさん失敗するけど、楽しいんだ。ここにずっといたい」
答えてから不意に、どうしてそんなことを聞くのだろうかと思った。どこへも去らないで、ずっとこの街にこれからも一緒にいる意志があるのなら――何か、あるのだろうか。
先走る鼓動が勝手に駆け始める。アストンは、そうか、と少し笑っただけで、続きを話すことはない。
「どうして……?」
期待のように跳ねる鼓動を宥めて、そっと顔を窺う。アストンは屋台の賑わいを見詰めるように、目を細めた。
「いや。俺もこの街が好きだ。……だから、好きになってくれて、嬉しい」
そうだ、アストンだけではなくて、この街のたくさんの人に、色々な場所で触れてもらえて、今の自分がいる。それを思い返すとマーケットの灯りがひときわ輝いて見え、足取りが軽くなった。
帰り際にふと、今日全部は話さない、と最初に言っていたことを思い出した。何を言わなかったのかと聞いてみれば、アストンは少しの間、口を噤んだ。
「この先のことだ」
短く答えてから、隣を歩くこちらを見遣る。そうして、ふわりと微笑んだ。
「悪い話かもしれないと思ったから、今日は、やめておく」
どこか大人びた表情にどきどきと鼓動が跳ねる。だからどこか夢心地のような気分のまま、うん、と笑い返した。
歩くたび、ポシェットの端で夫婦星の飾りが、右へ左へと揺れて触れ合う。その音は小さいのに、不思議と胸の奥まで届く気がした。
まるで、この街でこれからも続いていく日々を、そっと確かめるような音。
――来年も、きっと楽しいことがたくさんある。そう思えば自然と笑みがこぼれて、足取りが軽くなる。
「また、一緒に屋台に行こうね」
告げて、隣を見上げる。
「楽しんでくれてよかった。俺も、今日来てよかった」
そう返してくれたアストンの眼差しは、遠い夜空の星を見上げていた。
灯火の群れが遠ざかる。冬の夜気は冷たいのに、胸の中はどこまでもあたたかかった。
星飾りは、またひとつ優しく触れ合う。
まるで――これからも並んでいられるのだと、確かめるみたいに。




