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70.止まれ、手

 店内に差し込む夕陽の光は、いつの間にか薄れて消えていた。

 磨き残しのないことを最後に確かめ、ベルトを軽く巻く。顔を上げれば、時計は閉店時刻の近くを指していた。

「父さん。ダンデさんのベルト、終わった。籠に入れておくな」

「ああ、こっちももう終わる。表、先に片付けてくれるか」

 机の上の革屑を軽く掃き、道具を元の場所へ収めてゆく。立ち上がれば窓の外には、街灯の火が灯り始めていた。今朝から積もったままの雪がその明かりを受け、道の端に白く浮かび上がっている。

 夕刻の気配。昨夜、口をついて出た言葉が蘇る。――恋しい。

 想いに輪郭を与えた分だけ、胸の中で、存在がより確かになってしまったような心地がした。締め付けられるような苦しさがあり続ける。それでも、目を背けて見過ごすのではなく、この感情とは向き合って過ごしていかなければならない。

 ひとまずは目の前のことを片付けようと、扉を押した。寒風が鼻先に触れ、つんと痛む。涙すら滲みそうになりながら、足元の黒板に手を伸ばしたとき――視界の端に、見慣れた靴が入る。

 顔を上げる。

 店の角、壁にもたれ、風から身を隠すように立つ姿があった。

「――ティア、」

 ケープの中に身を縮めていたその顔が、ぱっと上がる。こちらを向いた頬は、澄み切った寒さのせいで赤らんでいた。

 どうしたのか。待っていたのか。用事があったのならば、店に入って声をかけてくれれば。

 適当な言葉を探す間にも、一歩、足が動く。雪の踏みしめられる音は、どちらの足元からも立っていた。

 手袋に包まれた手が、ケープの胸元を触る。握るような、掴み損ねたような仕草をして――夕暮れの色を湛えた瞳は、そっとこちらを見上げた。

「用事……なんにもないけど、来ちゃった」


 ――奔流。焼き切れるほどの熱が、胸の奥から込み上げていた。

 言葉にならない想いが指先へ溢れ、身体を突き動かす。手のひらに触れたのは、ケープのざらつきだった。華奢な肩が、腕の中へ収まりかける。

 ――止せ、と、理性がその手を叩き落とした。

「っ、」

 息を詰める。掴んだ両肩をそのまま、自身から引き剝がす。何をしようとした。抱き締めかけた? 顔を見られず俯けば、逃げ損ねた長い髪の一筋が、エプロンの胸元に引っ掛かっていた。

 駄目だ、違う、何をしているのか――順序がおかしい。自身に罵倒と叱咤を浴びせる中で、一つの光明に辿り着く。順序。そうだ、物事には順序というものがある。

「アストン……?」

 少し首をかしげる、その髪の先を、丁寧にエプロンから外す。小さく息を吸えば、冷えた空気が、激情を静めてくれる心地がした。

 鼓動が常よりも早い。けれど、だから、言えるだろうと思った。

「今から、時間はあるだろうか。前に、一緒に星誕祭前のマーケットに行こうと言っていたから……良ければだが、」

 親睦会の夜から、随分と経ってしまった。その間に自分は、心の中に散っていた想いを拾い上げ、選り分け、一つ一つに言葉を与えてきた。それを束ねて渡すならばきっと、萎れないうちの方が良い。

「いいの? 行く!」

 ティアの顔がぱっと輝く。そのことにまず安堵をしてから、踵を返した。

「じゃあ、少し待っていてくれ。上着を取ってくる。話もあるんだ」

 そう言って扉に掛けた手を、えっ、という声が止める。振り返れば、不安そうに見上げる瞳があった。

「それっていい話? 悪い話……?」

 一瞬、考える。想いを告げること、一緒に来てくれないかと提案することは、よいことなのだろうか。

「悪くは、ないと思うが……」

「なんだ、よかった」

 ほっとした顔を見せて、楽しみ、と笑う。それはマーケットのことであるのか、話のことであるのかはわからなかった。


 店頭を手早く片付け、外套を取りに戻れば、父親はまだ奥で作業を続けていた。

「少し出てくる。夕飯は適当にしておいてくれ」

 声をかけると、相槌だけが返ってくる。視線はこちらを追わず、まるで、敢えて興味のない素振りをしているかのようだった。

 表の話し声が聞こえていただろうか、とよぎる。羞恥を連れて来ようとするその気付きを、思考の外へ追いやり、二階へと急いだ。


 外へ戻ると、いつの間にか夜の気配が街路を満たし始めていた。

 歩き出す二人の足元で、残雪がやわらかく鳴る。街灯の火は一つ、また一つと灯り、やがて連なって、通り全体を淡い金の帯で縫い留める。その光に照らされて、家々の軒先に吊るされた星飾りが、ゆるやかな風に揺れながらきらめいていた。

 遠くで笑い声が弾ける。

 どこかの店先で開かれた扉から、肉の焼ける匂いと温かな湯気が外へ流れ出て、夜気の冷たさをなだめるように溶けていく。

「わ、もうこんなに人が出てるんだね」

 ティアが横で、小さく弾むように息を呑む。その瞳は、灯りの粒を拾って一層明るく見えた。

 道を進むほどに人通りは増え、手袋の指先を繋いだ子供たちの列や、荷車を押す青年たちの姿が視界を横切る。誰もが少しずつ浮き足立っていて、そのざわめきごと胸の奥を温めてくるようだった。

「ティアは、本当に祭りが好きなんだな」

 自然と口をついて出た言葉に、彼女は少し首を傾げる。

「えっ、そう?」

 自分の足取りの軽さに、今、ようやく気が付いたかのような顔だった。

「……私ね、この街が好きだから」

 言いながら、ティアは前を向く。光の中に浮かぶ星飾りを見上げ、道の先を見渡し――花のほころぶように、笑った。

「この街の人たちと一緒に楽しめるのが、嬉しいんだと思う。ここに来られてよかったなって、最近、よく思うの」


 胸の奥に、何か冷たいものが一筋、差し込まれた心地がした。

 その言葉は、何を責めるものでも、重荷でもない。ただ事実としての幸福を口にしただけなのだとわかっている。けれども、それでも確かに、心の奥が締め上げられた。

「だからね、花暦祭も、」

 足元の雪を踏む音が、また少し軽やかになる。振り返ったティアは、嬉しさを隠そうともしない声で続けた。

「来年の方が、きっと今年よりもっと楽しめると思うんだ。春になるの、楽しみ」

 その声は本当に無邪気で、ただ未来を心待ちにしている音だった。


 だからこそ――胸の奥で沈んでいくものを、どう扱えばいいのかわからなくなる。

 自分が誘おうとしている未来は、その期待を、別の形へ曲げる提案になるのではないか。そう浮かんだ瞬間、雪の白さに照り返された光が、やけに遠く感じられた。


 ――なあ、アストン。

 濁流に押し流されるより前だ。酔った父が一度だけ、零したことがあった。母の生前はといえば、こういったときに語られるのはいつだって、両親の馴れ初め話だった。身分の違う男女の劇的な出会いと、愛し合う二人の逃避行。その語り口はまるで、自分たちを物語の主人公とヒロインに見立てたかのようで、決まって最後は大団円であった。

 けれどあの日。そうだ、母の何度目かの命日だった。

 お前が生まれてくれて本当に良かった、そう前置いた上で、父は涙とともに零したのだった。

 ――でもな、俺が連れ出さなければ、クラリスは病になんて侵されないで……あたたかい屋敷で、今も生きていたのかもしれない。

 その言葉に沈む後悔の深さを、自分が本当の意味で解ることは、きっとないのだろう。


 蘇った記憶に、息が詰まる。無理に吐き出せば白く零れ、躊躇は風にさらわれ紛れていった。


 誰かと共にあることを願うということは、同時に、相手の行く末の形にまで触れることになる。

 ならば自分は、ティアを、無理に連れ出すことになるまいか。

 足元から這い上がりかける不安を振りほどき、また一歩、歩みを進める。

 ――いや。ティアならば、嫌であればきっと、断ってくれるはずだ。

 それは推測であるのか、そうであって欲しい、という願望であるのかは、定かではなかった。

 裾に纏わりつく影を引き摺り、胸元に弱く爪を立てる。これは不穏な動悸ではなく、二人で市へ遊びに行けるから高鳴っているのだと、自身に言い聞かせた。


「わあ、すごい! お店、たくさん並んでるね!」

 通りの向こう、淡い灯火が幾つも連なり、夜の空気の中で橙の粒となって揺れている。

 屋台の布幕が小さくはためき、その端で吊されたランタンが風に応じて微かに鳴いた。ティアはそれを見て、幼子のように素直に目を輝かせる。その指先が、小さな頃から知っていた道を示すかのように、自然と前へ伸びた。

「見て見て、星の飾り、いっぱい吊ってる! あ、スープのお店も!」

 駆け出すわけでもなく、必死に背伸びをするわけでもない。ただ歩幅が少し弾む。それだけで、彼女の心が灯りの方へ傾いているのが分かった。

 街灯の光が、頬の丸みに柔らかな陰影を落とす。吐いた息は白く溶け、すぐに橙色の灯の中へ消えていく。ティアの瞳は、火の粒を映して夜空のように煌めいている。この瞬間だけ、世界のどこよりも温かな場所が、この通りの中心にあるように見えた。


 ――ああ、と、息を吐く。胸の奥が、小さく軋む音がした。

 目を離せないほどの、眩い光。輝きながら、彼女自身の行く先までもを照らそうとしている。その瞳を見ているだけでいつも、救われたような心地になった。胸の奥がほどけていった。

 しかし一方で、そこへ手を伸ばすことが良いことであるのか、判別がつかなかった。触れれば、星の光の形を、この手で変えてしまうのではないか。

 それでも――そうであったとしても、伸ばしたいと祈ってしまう自分がいる。春の頃の自分であれば手を退いていたであろうが、望むこと自体は罪でないのだと教えてもらったのだ。その願いだけが、胸の奥で未だ、静かに疼いた。


「……ティア」

 呼びかけのつもりであったのに、声にはならず、喉で止まった。

 それでもティアは軽やかに振り返り、笑う。灯りの橙が、瞳の奥でまた弾けた。


 提示した道を選ぶか否かを、ティアは決めてくれるだろうか。


 待ちきれないのだろう。華奢な背は三歩先を行く。

 そうして視界の中央で、今までもずっとそうであったように、燦然と輝いていた。


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