69.I miss you.
マフラーを編んでみようかと、ようやく思い切った。
カトリーナが編んでいるのが面白そうに見えたし、何より、ケープだけでは首元が寒いのだ。去年までは旅の荷物になるからと我慢をしていて、その名残で、物もあまり増やさないようにしていたけれど――今は、クローゼットに少しずつ増えたものを見ると、胸の中があたたかくなる。
仕立て屋でもらった、リボンの紙袋。長雨の時期に買った、新しい傘。試作品だからと貰ってしまった、ビーズ飾りの沢山ついた靴。
それらを取り出して眺めるたび、もうここ以外のどこにも行かなくていいのだと語りかけられているようで、目の奥が熱くなるようだった。
だから、マルタと一緒に毛糸を選びに行って、マフラーの編み方を教えてもらった。まだ針は進んでいないけれど、うまく編めないのを口実に、暖炉のそばで一緒にいられる時間は嬉しい。
夕飯の準備だってそうだ。
最初は、一日診療所で働いてきたのだからと遠慮してくれていたけれど――気がつけば、あれこれと頼ってくれるようになってくれたことが、これもまた嬉しかった。
だから、足りないものは、ないはずなのだ。
「ティアちゃん、おかえり。悪いけど、手洗ったら皿出してくれるかい」
「はい! すぐ行きます」
鞄を置いて、代わりにエプロンをかける。小皿を棚から出して――一瞬、指先が止まった。蓋のある、四角の器。アストンのところへいつも、持って行っていたものだった。
最近どうしているのか、わからない。けれどアストンだってきっと、満たされた日々を送っているだろう。
だからこの話は、これでおしまい。
扉を閉め、並べた小皿へ蒸し野菜を次々に入れていく。もうじき雪の降りだしそうな外とは逆に、あたたかな湯気がふわりと手元へ立った。
「マルタさん、もう出していっていい?」
「頼むよ」
盆に一、二、三、四と乗せて、テーブルに配り歩いていく。まだ夕餉には早い時間帯だから、いつもならまだ客はあまり来ないはずだった。何かあるのかと思えば、顔に出てしまっていたのだろうか。
「オーク亭の奥さん、風邪引いちゃったんだって」
「裏の? じゃあ、そこの宿泊のお客さんが」
「そうそう。あそこの旦那、酒のつまみしか作れないからね。うちも今日は満室だから、席、少し詰めてもらわないと」
それなら今のうちにと飛び出して、二階から椅子を運んでくる。力仕事なら得意であるし、助かるよ、とお礼を言われればくすぐったい。そうしているうちにどんどんと人が増えてきて、慌てて玉ねぎの皮を剥いた。
「三つで足りる?」
「ああ、切ったらそこの肉に足してくれるかい。はいはいお待ち、スープを持って行くよ」
大忙しだ。剥いている間にも客の呼ぶ声が重なって、急いで追加の皿を持って行く。
「姉ちゃん、ビール二つ!」
「はい、すぐに!」
なみなみと注いで片手に二杯、もう片手に煮物の乗った盆。皿をテーブルに並べれば、うまそう、と声が上がった。大好きなマルタの料理を褒められたようで、つい口元がほころんでしまう。
色々な種類の皿に料理。自分が来る前は一人で食堂を回していたのだろうかと考えると、不思議な心地がした。
――捌ききれない分は、客を断っていたのだろうか。きっとそうだろう。
だとすれば今日、これだけの客を受け入れているというのは、自分の手伝いをあてにしてくれているということなのだろうか。そう思うと、どこか重い心が少し、軽くなる。
そのときだった。
入口の扉が、キイ、と音を立てる。
「すみません、今はちょっと――」
いっぱいで、と続けようとして、顔を上げる。
視界に入ったのは、幾度となく思い描いていた背と、濃紺の外套だった。
「あ……」
言葉が、そこで止まる。
「今日は、満席だったか」
アストンだった。
肩に薄く乗った雪が、食堂のあたたかさでほどけ、水滴になって消えていく。それを見詰めるにつれて、隙間風の零れていた心の扉が、確かにぴったりと閉められていくような心地がした。
嬉しい。眩しい。アストンが来てくれるだけで。ただ、そこに立ってくれているだけで、胸がいっぱいになる。
けれどそんな自分が少し、嫌だとも思う。
「どうしたの? 珍しい」
「親父が友人と飲みに行ったから、俺も外で食べようかと思って……」
外で、と言ったときに、散々食べ慣れている味であろうここに来るのがアストンらしい。彼にとっても、ここは安心する味なのだろうか。
「ごめんね、今日、お客さんいっぱいなの」
「ああ、いや、いいんだ。最近顔を見ていなかったから、どうしているかと思っただけで……」
――会いに、来てくれた。
胸が締め付けられる。会いたい。会いたかった。自分も。けれど寂しがるのは変だろうと、心のどこかで罪悪感が手を掴む。
あたたかな居場所があり、満たしてもらっている。それなのに足りないと感じて、あれもこれもと欲しがるのはマルタにも失礼だろう。ちゃんと、満足をしていなくてはならない。
そう思うと、自然と言葉が口をついて出た。
何を確かめたかったのかわからない。ただ、わがままな子供のような手を、自分で叱りたかっただけかもしれなかった。
「変なの。……もう、寂しくないでしょ?」
自分は、寂しくないはずなのだ。
「ティアちゃーん、皿持って行って!」
「はーい!」
奥から飛んだ声に、大きな返事を返す。ごめんね、とアストンに断り、踵を返そうとした。
「ティア、俺は――」
声に袖を引かれる。振り返れば、まっすぐにこちらを見詰める瞳と目が合った。
けれど、言葉の先は喉に詰まったかのように、唇がかすかに開きかけては閉じる。何か言おうとしているようにも、考えているようにも見えて、そのどちらともつかない沈黙が一瞬落ちた。
奥で呼ばれているのに、と頭では思う。けれど足は止まり、盆を持つ指先だけが、わずかに力を緩めていた。
「俺は、もう寂しくはないが、」
一度、言葉を区切るように、息を吸う音がした。
「恋しいと思う。……ティアが」
食堂のざわめきが遠のく。
意味を掴むより先に、胸の奥が強く跳ねた。
返す言葉も思考もすぐには形にならず、ただ、目の前にいるアストンの輪郭だけが、世界の中で形を持ってそこにあった。
呼吸を忘れた喉が詰まる。そのまま、一瞬、時が止まったように感じた。
――ガシャン、とカップの触れあう音が立つ。
乾杯の声とともに、笑い声が背後で上がった。
「……あ」
アストンが、はっとしたように視線を逸らす。一歩、距離が戻った。
「すまない。忙しいところに」
言い訳のようにそう告げて、外套の襟に手をかける。また来る、と短く言うと、そのまま振り返らずに扉を開いた。濃紺の外套が、夜の空気に紛れていく。
「ティアちゃーん!」
呼ばれて、反射的に返事をする。
「はい!」
盆を持ち直し、皿を運びに行く。足は勝手に動いて、手も止まらない。
けれど、頭のどこかは、ずっと置き去りのままだった。
――恋しい。
ずっと心の中にあった、胸を引き絞られるような感覚。それに貼っていた、寂しい、というラベルを剥がす。
恋しい。これはアストンが恋しいんだ、と、正しい名前を指でなぞった。
顔を上げれば、木べらで鍋を混ぜるマルタの姿がある。湯気の向こうで手を止めずにいながらも、客と笑い合っている。
胸の奥に、先ほどとは違う温度のものがあった。ここに戻れば声をかけてくれる人がいて、手を動かせば頼りにしてもらえる場所がある。――それを、寂しいとは呼ばないのだろう。
それでも。
それとは別に、ただひとりの顔が浮かぶことがある。
声を聞きたいと思ってしまうことがある。
それは、足りないからではない。奪われているからでもない。
ただ、恋しい、という感情なのだと、ようやく思えた。
「降ってきたね。明日は積もるかな」
カーテンを捲り、マルタは言う。夜道を帰って行った背が浮かび、つられるように、言葉が思い出された。
――恋しいと思う。ティアが。
――自分を? 同じように、欲してくれている?
頬が熱く、思考がまとまらない。自分の中の「恋しい」と、アストンの「恋しい」の定義は、ひょっとすると違うのだろうか。
行ったり来たりをくり返す思考に決着をつけたくて、夕餉の手伝いが終われば、「恋しい」の意味を辞書でひいてみようと思った。
けれどようやく部屋に上がったところで――辞書はアストンに貸したきりであったことを思い出した。だから結局、答えは、わからずじまいだった。




