68.白紙の便箋
雪は、夜のうちに降ったらしかった。
目を覚まして窓を開けると、通りの石畳がうっすらと白くなっている。踏みしめられた跡はまだ少なく、屋根の縁や軒先の飾りに、雪がそのまま残っていた。通りの木々にかけられた星誕祭の星飾りにも、綿をかぶせたように白が乗っている。
歩きに行きたい、と思ったのは、顔を洗うよりも先だった。
けれど休日の朝は、なかなかそうもいかない。朝餉の片付けをして、暖炉の灰を片づけて、洗濯物を外に干すかどうかを迷って――結局、軒下に回す。そんなことをしているうちに、胸の奥でそわそわしていた気持ちは、少しずつ膨らんでいった。
片付けが一段落したところで、ようやくケープを肩にかける。財布だけをポケットに入れて、戸口を出た。
午前の空気は冷たいけれど、刺すほどではない。雪はまだ解けきっておらず、陽の光を浴びてきらきらと輝いていた。人の足跡が多い通りを避けて、あえて脇道へ入る。踏みしめるたび、きゅ、と小さな音がして、胸の奥まで澄んでいく気がした。
飾りの星に積もった雪を見上げたり、屋根から落ちそうで落ちない白を眺めたり。そうして歩くうちに、溶け残った方へ、溶け残った方へと、自然と足が向いていく。
気が付けば、文具屋のある通りに差しかかっていた。
思わず、立ち止まる。
そういえば、便箋も残りが少なかった。最後に買ったのはいつだっただろう。カトリーナに出す手紙用に選んだ、あの苺柄の束も、もう数枚しかない。
財布の重みを確かめてから、店先を見やる。まだ朝の光が低く、硝子越しの店内は静かだったけれど、扉にはopenの札が掛かっている。
行こうかな、と迷うより先に、足が動いた。
雪を踏まないように軒下を選んで歩き、文具屋の扉の前に立つ。中では、きっと今日もカトリーナが作業をしているのだろう。
そんなことを思いながら、取っ手に手を掛けた。扉を押すと、鈴が軽く鳴る。紙とインクの匂いが、ひんやりした空気に溶け込んだ。
店内に入ると、奥の作業台で帳面を広げていたカトリーナが、ペン先を止めて顔を上げた。インク瓶の蓋を閉めかけた手が途中で止まり、次の瞬間、ぱっと表情がほどける。
「あ、ティア!」
つられて、こちらも頬がゆるんだ。いるとは思っていたけれど、やっぱり、顔を見られると嬉しい。
「おはよう、カトリーナ」
「おはよう。珍しいね、積もってるのにお買い物?」
そう言いながらも、もうペンは置かれていて、身を乗り出すようにこちらを見ている。その様子がなんだかおかしくて、胸の奥があたたかくなった。
「うん。つい歩きたくなっちゃって」
「わかるわかる、朝の雪ってきれいだよね」
棚の向こうからでも伝わってくるその共感に、ほっと息がゆるむ。カトリーナは帳面を閉じて、改めてこちらに向き直ってくれた。
「今日は何か買いに?」
新しい便箋を買おうかなって、と答えると、カトリーナは一度目を瞬かせた。それから、少しゆるむ口元を隠すような仕草をする。
「もしかして、私宛ての?」
「うん」
「じゃあ、見ない方がいいね。楽しみが増えるから」
冗談めかしたその言い方に、思わずこちらも笑ってしまう。棚の方へ目を向け、どれにしようかと考え始めた、そのときだった。
「ねえ、ティア」
呼び止める声が、少しだけ低くなる。気が付けばカトリーナは作業台から身を離して、こちらへ近づいてきていた。
実はね、と声を落として、耳打ちをするような仕草になる。
「一昨日、初めて……工房に連れて行ってもらったの」
そう言ったとき、カトリーナの視線が、ほんの一瞬だけ揺れた。
照れたように伏せられて、またすぐにこちらへ戻ってくる。その小さな間に、言葉にしきれない気持ちが滲んでいるように見えた。
「工房って、取引先の?」
「うん。うちと付き合いのあるところ。まだ見学だけだけど……」
声を落として続けながら、指先でエプロンの端をつまむ。無意識の仕草だったのだろう。布を軽く引き寄せてから、照れ隠しのように笑った。
「帳面の話じゃなくてね。ちゃんと、現場を見せてもらえたの。紙の上じゃないところを」
その言い方が、少しだけ誇らしそうだった。
あの日――どうせ嫁に行くからって、と泣きながら吐き出していた声が、ふと胸をよぎる。
「この前、あんなに言い合いになったのにね」
カトリーナは肩をすくめて、でもすぐに、言葉を選ぶように続けた。
「……ほんの少しだけ。認めてもらえたのかもしれないな、って思って」
胸の中に、今日の陽光のような明るさがさした心地がした。
ベンチに座っていた背中。沈黙を埋めた水路の音。あのときは、ただ話を聞くことしかできなかったけれど――こうして前に進んでいる姿を、今こうして見られていることが、素直に嬉しかった。
「よかったね」
平凡な言葉しか出てこなかったけれど、それでも、気持ちはきちんと乗っていたと思う。
「うん……うん」
一拍おいてから、カトリーナは頷く。それから、もう一度だけ、少し照れたように笑った。
便箋を選び直そうと眺めた棚には、色も手触りもさまざまな紙が並んでいた。
白に近いもの、淡い色のもの、縁にだけ細い模様が入ったもの。雪の日らしく、どれも少しだけ静かに見えた。そうして一枚、二枚と指先でめくりながら、ふと――頭の中に、緑のエプロンの背中がよぎる。
最近、あまり話せていないな、と思った。
会えばちゃんと笑ってくれるし、声も変わらない。けれど前みたいに、なんでもない話を重ねる時間が、少しだけ遠のいている気がする。
――手紙を、出してみようか。
思い付きは、ほんの一瞬だった。深く考えたわけではない。ただ手に取った便箋を眺めながらそう浮かべれば、悪くないように思えた。
けれど次の瞬間、ふと指先が止まる。
男の人宛てに、かわいい紙というのはどうなのだろうか。自分がいつも使っている、やわらかい色合いの便箋。花や小さな模様が入ったもの。かわいすぎるだろうか、もっと落ち着いたものの方がいいのだろうか。男の人が好きそうなもの、というのがそもそもよくわからない。
いつの間にか眉が寄っていたことに気が付く。けれど眉間を揉んでも、紙の束を持ったままの足は、その場で動けなくなってしまった。
「ね、カトリーナ」
ぽつりと声を出してから、少しだけ間を置く。カトリーナはまだ帳面のそばにいる。作業の手を止めた気配はあるけれど、こちらを急かす様子はなかった。
「カトリーナの分は自分で選ぶんだけど、ちょっと、相談してもいい?」
そう前置きしてから、便箋に視線を落とす。あの、と言いかけて、ほんの少しだけ息を吸い直した。
「男の人に……手紙を出すときって、いつも、カトリーナに出してるみたいな便箋でもいいのかな」
何気ない声を装えただろうか。
便箋の角を、思わず指できゅっと押さえる。雪の白さが店の奥の窓から反射して、紙の縁を淡く照らしていた。
「内容によるけど、どんな相手?」
帳簿から顔を上げて、カトリーナが首を傾げた。
「お仕事先?」
便箋を手に取ったまま、一瞬、言葉に詰まった。仕事と言われて思い浮かぶのは、仕入れの依頼だとか、新しい取引先への挨拶だとか、目的のはっきりしたものだ。けれど今書こうとしているのは、そういうものではない。
「えっと、個人的なお手紙というか、雑談みたいな……同じくらいの歳の人で……」
視線が宙を彷徨う。カトリーナは、うん、と小さく相槌を打ったあと、首を傾げた。
「ラブレターってこと?」
心臓が、きゅと音を立てた気がした。
違う、とすぐに言うつもりだったのに、言葉が喉の奥で止まってしまう。否定しきれない沈黙が、ほんの一拍落ちた。その間をどう取ったのか、先にぱっと手を振ったのはカトリーナだった。
「あっごめん、男の子の友達だっているよね」
謝らせてしまった、と浮かべば、胸の奥が掻き混ぜられるような気持ちになった。それに、正しく選んでもらうなら、正しく伝えた方がいい。そう分かっているのに、喉に詰まった言葉は上手く出てこない。息を吸い、吐き出すとともに、振り切るように声を絞り出した。
「私は、好きなんだけど……」
便箋の縁を掴む手に力がこもる。口にしてから、かっと頬が熱くなった。鼓動が大きく鳴り、息が詰まる。
返ってきたのは、そうなんだ、と意外なほど穏やかな声だった。
「何してる人? 商人さん?」
「革製品を作ってる人で……魔獣の革で……」
口にしてから、この辺りに魔獣の革製品屋は一軒しかないことに気が付いて、また頬が熱くなった。
カトリーナは、革、と復唱をする。かと思えば、急に身を乗り出した。
「じゃあ、手帳カバーとかも作ってる?」
「えっ……どうかな、見たことないかも」
「そっか、残念。つい、作ってたらうちに紹介して欲しいなって思っちゃった。職人さんならそこまで紙にこだわらないから大丈夫かなー。商人さんだと、ほんとに細かい人もいるんだよね」
言いながら、指先が棚を滑っていく。
「同じくらいの歳ってことは、二十歳くらい?」
棚へ視線を移しながら、質問が続けられる。少し緊張をしながら頷けば、手は棚の端で止まった。
「それなら、あんまりかわいいと子供っぽく見えちゃうかもね。最初は、これくらいの方が安心する人多いよ」
言いながら引き出したのは、やわらかなクリーム色の便箋だった。模様らしい模様はなく、紙の端にごく細い線で枠が入っているだけの一枚。
「こっちもいいかな。飾りが少ないぶん内容と文字で勝負って感じになるけど、その方が誠実そうで好きって人が多いみたい」
続いて紙を取り出していく。次に並べられたのは、同じ色味で、角にだけ控えめな装飾が施されたもの。その二つを見比べながら、そっと息を吸った。何を聞かれるだろうかと渦を巻いていた不安と緊張が、少しずつほどけていく。
「無難ってだけだから、気心が知れてるならもっと自由なのでもいいと思うよ。おしゃれな人ならこういう色枠のもいいし、珍しいものが好きなひとならこういうのもいいし。商工会のジョルジョさんって知ってる? 市場通りの方の金物屋のおじさん」
「うん」
「この便箋、あの人の紹介なんだよ。好きそうでしょ」
笑って見せられたのは、異国情緒のあふれる便箋。南方から仕入れたと言って得意げに見せる様子が目に浮かんで、思わず笑ってしまった。
その笑う息のまま、気付かれないように、ふっと小さく吐く。
――もしかすると、どんな相手なのか、どこが好きなのかと、恋の話に転がしていくだろうかという、不安のようなものがあった。もちろんそうして、今の落ち着かない気持ちを聞いてくれても、それはそれで有り難いことだったかもしれない。
けれどカトリーナはただ、手紙の送り先というところだけを拾ってくれている。その距離感が、今の自分には、ありがたかった。
――夕方近く。そろそろ部屋のカーテンを閉めようかと窓辺に寄ると、昼間の雪はもうだいぶ解けていた。濡れた石畳が夕陽を受け、鈍く光っている。暮れなずむ空はまだ黄金色に明るく、だから、カーテンはまだ引かないことにした。そうして、卓の端に置かれた小さな紙袋に目をやる。
朝に買ったものの、用事を片付けるうちに手つかずになっていた、文具屋の袋だった。
灯りを近くに引き寄せ、紙袋を開く。中から出てきたのは、やわらかなクリーム色の便箋と、封筒。指で触れると、昼間よりも少しだけ紙の温度が冷えているように感じられた。
さて、と小さく息を吸う。便箋を一枚取り出し、卓の上に置いた。
――何を書こう。
そうしてペンの先をインク瓶に浸してみたものの、先端は宙で止まったままだった。
元気ですか。そう書けば、一番無難だろう。けれど、それだけでは足りない気がする。
会いたいです。それは、胸の奥に確かにある言葉だったけれど、紙の上に落とす勇気はない。
では、何気ない雑談はどうだろう。雪が降ったね、とか、外でこんなものを見た、とか。けれどそれを書いてしまうと、今のこの気持ちが、まるで別の形に薄められてしまうような気がした。違う、と心のどこかが言う。今伝えたいのは、そんな軽いことではないのに。
質問を書く、という選択肢も浮かぶ。最近どうしているのか、とか。忙しいですか、とか。けれど問いを投げれば、返事を待つことになる。待つ、という行為は、どこかで相手を急かしてしまう気がした。
――アストンは、今、考えてくれている。
それを知っているからこそ、こちらから何かを差し出すのは、少しだけ早いような気がした。待つのが正しいのか、書くのが正しいのか、その境目がわからない。
ペンを置く。便箋の白さが、急に心細く見えた。
文具屋ではあんなに自然に、書こう、思えたのに。いざ一人になってみると、何を書きたかったのかがうまく思い出せない。伝えたいことがあるはずなのだ。けれどその輪郭だけが胸の中に残って、言葉にならない。
不安とも待ち遠しさとも、完全には重ならない。ただ会えていない時間が、確かに心の中に積もっている。
便箋をそっと揃え、元の紙袋に戻す。そうして、袋の口を折り返した。
今日は、やめておこう。
そう決めたはずなのに、卓から離れるとき、視線が何度も袋に戻った。書かないことが正しいのかどうか、その答えすら今はまだわからない。ためらう手元に、黄金色の陽光が線を描いていることにふと気が付いた。
――寂しい、のだろうか。
いつだったかアストンと辞書を開いて遊んだ日。寂しい、という言葉を、彼はこう定義していた。
――温もりを探し求めても、手の先に誰も触れない感じ。
そうだとすれば、寂しくはない。隣の部屋からは、今日の宿泊客の喋る声が漏れ聞こえている。もうじき一階に降りればマルタがいて、一緒に夕餉の準備をする。前よりも一緒に料理をする時間が増えたのは、嬉しくすらある。
だとすればこの、締め付けられるような感情は何なのだろう。
白い便箋は、何も答えてはくれない。
記す言葉の見付からないまま、見慣れた、愛しい色だった――そうして今は見るたびに少し苦しくなる夕焼けを、カーテンの奥へと隠した。




