67.忙しいから寂しくないよ
市場でアストンの父と会った後、すぐにクローゼットの中の少ない荷物をすべて改めた。修理が必要な革製品がないかを、確かめるために。
けれどどれもこれも、擦れも破れもない。魔獣の革は元々丈夫であるし、アストンの作ってくれたものは特に丹念に手入れをしているせいだ。おかげで恥ずかしいことに、とうとう——
「マルタさん、革の修理の要りそうなものってない……?」
洗濯をしているところへ尋ねに行き、大笑いをされてしまった。
「理由なんてつけないで行ったらどうだい。会いたいだけだって言やいいじゃないか」
「そっ、違うの、違わないけど……そうなんだけど……」
頬が熱くて、干してあるシーツにそのままくるまってしまいたかった。
けれどおかげで、糸の一本飛び出た鞄を手に入れたのだ。これで堂々と会いに行ける、と喜び勇んで飛び出し、そうして店の扉の前で気が付く。
今日は休日だった。
目の前の扉には、closedの札がぶら下がっている。
今まではずっと、休日だって開いていたのだ。もちろんそれは良いことではないし、だからこそ、今日こうして——父親が帰ってきたことで正しく休めているのなら、何よりだった。
けれどそれはそれとして、つい、窓から中を覗き込んでしまう。外も明るいものだから、店内に明かりがついているのかはよくわからない。そっと耳を押し当ててみれば、かすかにミシンの音が響いているような気配があった。
折角来たのだから顔くらい、と言い訳をして、小さく扉を叩いてみる。針の音が止まり、鼓動が急に駆け出す。
そこで、ふと——もしかして作業をしているのは父親の方では、とよぎり、先ほどとは違う音でどきりと鼓動が跳ねた。ばかばか、と手が先に動いてしまう自分の癖を責めてももう遅い。鍵を開ける音に、腕の中の鞄をぎゅっと強く抱きしめた。
鐘が小さく鳴り、隙間から革の匂いがこぼれる。
「——ティア?」
瞬く緑の瞳に、ふわ、と胸の中へ陽のようなぬくもりが広がった。アストンの目が驚いたのは一瞬で、すぐに、はにかむように微笑んでくれる。それだけで心の中に花が咲いていくようで、思わず、もじもじと視線を落とした。
嬉しい。この声で名前を呼んでくれるだけで、くすぐったくて仕方がない。
「久しぶりだな。どうしたんだ?」
「あっ、あのね、修理をお願いしようと思ったんだけど……お休みだったの忘れてて、」
また来るね、と続けて、鞄をそっとケープに隠す。次の口実になると思えば、ちょうどよかったのだ。けれどアストンは、構わないから、と招き入れてくれる。そうすればもう断る理由もなくて、随分と久しぶりに感じる店内へ足を踏み入れた。
前を歩く背には、見慣れた深緑のエプロン紐が交差している。それをどきどきと眺めてから、うるさい鼓動で少し胸が苦しくて、目を逸らした。
「今日も、何かお仕事してたの?」
「まあ……特に急ぎのものがあるわけでもないんだが、手を動かしていたくて……。修理って、何だ?」
話を打ち切るように手を出され、仕方なく鞄を差し出す。どこだ、と尋ねられたので、持ち手を指先でさした。縫い糸が一本切れて、ぴょんと飛び出している。
「……これか?」
驚くのを抑えようとした声。当たり前だ、だって、普通はわざわざ持ち込むほどではない。今さら、頬が一気に熱くなった。
「あの、ごめん、お休みの日に、こんな……」
指先を組み直して、あうあうと言葉を探すけれど言い訳が見つからない。身体まで熱くてケープの首元を緩めてしまいたかったけれど、そうと知られてしまえばきっともっと恥ずかしい。
赤面をしたままひとりで困ってしまったけれど、アストンは笑って、首を振ってくれた。
「マルタさんのお遣いなんだろ。ちょっと待っててくれ、すぐ直す」
「えっ、また取りに来るよ」
「すぐ終わるんだ」
取りに来るのも口実にしようとしていたものだから、しゅんと気落ちをしてしまう。けれど作業机の前に座り、針を取り出した姿を目にした途端、惜しさは吹き飛んでしまった。
真剣な眼差しが手元に落ち、糸をさっと針に通す。ひと針、ふた針と迷いない動きで刺していく器用な指先。かすかに伏せられた睫毛。
針を運ぶたび、手首の下の腱がしなやかに動く。ふと肩がわずかに揺れて、深緑のエプロンの紐が静かに擦れる。ぽうっと見惚れていれば、ぱちん、と鳴る糸切りばさみの音まで心地よい。
外套姿もいいけれど、やっぱりエプロン姿が一等格好いい——と、浮かべたところで、ふとアストンの顔が上がった。視線が絡み、どきんと心拍が跳ねる。
「出来た」
「えっ、もう?」
本当に、ふた針ほど刺しただけで終わってしまった。呆気なさに、浮ついていた心の行き場がなくなってしまう。財布を取り出しかけると、アストンはそれを見て、軽く首を振った。
「いい。糸もほとんど使っていない」
そう言われて、指が止まる。結局そのまま、笑って押し戻されてしまった。
まだ少しだけ話してもいいだろうかと、手袋をはめもせず手の中で弄んでしまう。するとアストンの方にも小さく、息を吸うような気配があった。
ティア、と呼ばれる。
「星誕祭が近付いてくるな」
脈絡のない話題に瞬く。アストンももう少し話したいと思ってくれているのだろうか、と浮かべば、胸がふわりと軽くなった。
「そうだね。マルタさんも飾りを出してたよ」
「そうか。……ティアは、どうするんだ、星誕祭」
鼓動が跳ねる。触れられることを、どこか恐れていた話題だった。
——星誕祭は、家族で過ごす日。アストンはパン屋の前で、そう教えてくれた。
本来は一緒に過ごすはずの家族がいないもの同士、もしかすると代わりに一緒に過ごせるかもしれない、と。淡く、そんなことを期待していた。ひょっとしたらアストンも、そう思ってくれていたのかもしれない。
そのせいで、ひとりだけ家族の戻ったことをもし気にしているのだとしたら——それはとても、嫌だと思った。それに、実際、自分はひとりではない。星誕祭の日にはマルタの家族たちが帰ってきて、きっと賑やかになる。だから家族で過ごせる喜びに、陰りや後ろめたさなんて、絶対に感じていてほしくない。ただただ、あたたかな部屋で、心をゆるめて笑っていて欲しい。
顔を上げる。上手く笑えている自信はあった。
「マルタさんのお手伝いをするの。息子さんたちが帰ってくるから、ご飯を沢山作らなくちゃいけなくて、きっと大忙しなんだって。だから、私は大丈夫」
「なんだ……そうか」
どことなく気落ちしたように見える理由がわからなかったけれど、うん、と笑って頷いて見せる。
そのとき不意に、二階から、かすかな物音が聞こえた。床がきしむ音。引き出しが閉まるような、生活の気配。はっとして顔を上げる。
——お父さんがいるんだ、と今になって思い出した。
「じゃあ、私、そろそろ……」
そう告げる声まで、つい先ほどより小さくなってしまう。理由は説明するまでもなかった。アストンもつられるように一瞬、視線を上へ向ける。
「……ああ。雪が降りそうだから、気を付けて」
どこまでも優しい声に、うん、と返した笑顔だけは、本物だった。
外へ出ると、冷えた空気がつんと鼻先に沁みた。
扉が閉まる音がして、革の匂いが遠ざかる。数歩歩いてからようやく息を吐くと、白いもやになって零れた。けれど姿を隠すように、すぐに冬の大気に掻き消えて行く。
——大丈夫。私は大丈夫。
自分で口にした言葉を、今度は心の中で繰り返す。けれど反復すればするほど胸の内側に、見上げた空のような白さが広がっていくのを感じた。
痛み、と呼ぶほど鋭いものではない。ただ、温めていた手袋を外した後にじわりと指先が冷えるような、そんな感覚だった。
仕方ないのだ。
星誕祭は家族で過ごす日で、アストンには、ようやく戻ってきた時間がある。
それを喜ばしいと思える自分でいたいし、実際、そう思っている。誰かの幸せを、遠慮や後ろめたさで曇らせてしまうくらいなら、少しだけ胸が痛むほうが、ずっといい。
——だから、大丈夫。
足取りを確かめるように、雪の気配を含んだ空気の中を歩く。
軒先の灯りがひとつ、またひとつと灯り始めていた。その明かりの数だけ、今日もそれぞれの家に、帰る場所があるのだと思う。
それでも。
振り返らずにいられなかったのは、先ほどまで確かにそこにあった温もりを、きちんと胸にしまっておきたかったからだった。
もう一度だけ、息を吐く。
大気へ零れたそれは、今度は、白く色づかずにいられた。




