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66.帆船は海を行く

 父に言われた言葉だけが、胸の内側で幾度も反響していた。

 ――港町に、移る気はあるか。

 意味はわかる。言葉も聞こえた。ただ、思考だけがその現実についていかず、心のどこにも着地しない。父の買ってきた菓子の甘い匂いだけが、これは見慣れた現実の続きなのだと示しているようだった。

 暖炉の火が小さく爆ぜる。その音にようやく息を吸い直し、目の前の父を見た。

「……どういう、ことだ?」

 疑問というよりは当惑に近い声が出る。答えはすぐには返らず、父の視線は微かに落ちる。その指先に挟まれた便箋が朝の陽を受け、水面のような白い光を揺らしていた。

「話すさ。順に」

 父はそう告げ、座るようにと椅子を勧める。こちらが掛けたのを見届けてから、手紙の上へ手を置いた。一つ、息を落とすような仕草だった。

「これはラザロからだ。俺を拾ってくれていた工房の主だと、もう言ったな」

 頷く。昨晩も父は断片的に語っていた。濁流に巻き込まれ、記憶を失いながら、ただ手の感覚だけを覚えていた自分を拾ってくれた人。仕事を覚えるまで支え、住む場所まで用意してくれた恩人の存在を。

 父がこの手紙を大切そうに扱うのは、それが理由なのだろうか。

「移る気はあるかといきなり言われりゃ、驚くだろうが」

 自嘲気味な笑いが零れ、便箋を指先で叩く音が落ちる。

「まずは、中に何が書いてあるかを聞いてくれ」

 言葉を選ぶように、父は一度だけ息を吐いた。そうして静かに便箋を開く。

「……読み上げるな」

 息を整える。その声音は、昔、縫い目の癖を直してくれたときのものに近かった。教えるでも諭すでもない。大事なものを手渡すときの、あの静けさだった。


「『あなたの息子の靴を見せてもらった。あれはただの実用品ではない。色も縫いも、どれもが理由を持っている。丁寧で、誠実で――迷いではなく、考えた跡がある。若い職人の靴に、あれほど静かな息遣いが宿るのは珍しい。』」


 胸の奥の泉に、熱を持った小石を一つ、そっと落とされたような感覚がした。

 かすかな音と気泡を立てながら、その言葉の軌跡に、静かな熱が残ってゆく。誇らしさでもなく、舞い上がるような喜びでもない。少ない語彙の中から手触りの近いものを拾い上げれば、有り難さ、が一番ふさわしいように思えた。

 ――作り上げたものが、その姿形である理由。

 品評会のあの日、講評の言葉を聞きながら、それに触れられたことに驚いた。父以外の人に、そのような裏側に言及をされるとは思いもよらなかったのだ。そして今。品評の場でもない場所で、ただ商館に置かれた商品ひとつを見て、目を留めたという。そんな人がいるのだと思った。


 父の指は便箋をたどり、次の言葉が落ちる。

「『私の工房の者たちも皆、同じことを言った。使い手を想って作る手だ、自由な風の中に置けばもっと伸びる子だ、と。』」


 自分は生まれ育ったこの街の中で、父の横で、この店で、ずっと革と向き合ってきた。それを不自由だと感じたことはただの一度もない。

 けれど――自由な風。その言葉に、知らない場所へ不意に手を引かれるような感覚を覚えた。

 胸の中に、波紋のようなさざめきが広がる。


「『あなたの許しが得られるなら――一度こちらへ寄こしてくれないだろうか。数年のあいだ預けてくれるだけでもいい。この港の環境に身を置けば、きっとさらによい職人になる。戻る場所をどこにするかは、本人が決めればいい。私はただ、その行く先を見てみたい。』」


 息が詰まる。胸の奥が、どこかへ引き延ばされてゆくようだった。

 瞳の色は生涯同じであるのと同じように、自分は、当然のようにこの場所で一生を重ねていくのだと考えていた。けれど自分の前にあったのは、一本道ではなかったのだと手紙は言う。世界の端だと思っていた場所より先にも、果てのない大地があり、歩いてゆけるのだと。

 驚愕でも怯えでもない。

 頭上に灯る星を見つけたとき――春の初め、店の看板のポラリスに明かりが再び灯ったのを見上げたときのような、目の覚めるような心地だった。


「『港は、職人の息が行き交う場所だ。海風が革の匂いを深くし、街が手を磨く。

 彼の靴は、もっと遠くへ行ける。そのための風が、ここにはある。』」


 ――進むための風。

 あの夏の日に見た、煌めく水面を滑る帆船がよみがえる。白の帆を膨らませ、波の上を渡り、頬に触れたあのあたたかさ。

 海際で触れた、乾いた日差し、鳴りやまない潮騒、シャツの袖が湿ってゆく感触を、今でも覚えている。

 その潮の匂いの中に自身の姿を置く。胸の中に落ちた熱は何だろうか。憧れと呼べるほど鮮明ではない。けれど確かに背を押そうとする、汽車の蒸気のような熱だった。


 読み終えた父は便箋を伏せ、湯気の立つ珈琲をひと口含む。

 暖炉の火がかすかにはぜる音が落ち、やわらかな熱が手元へ零れた。


「大げさな物言いをするやつだがな、ラザロは嘘だけはつかん。俺の十も年上で、小言も多いが……革のこととなると、俺が敵わんと思うほどの目を持っている」

 自分は、父より優れた革職人を知らない。その父が他の職人をここまで評するということに、胸の奥に小さな波が立った。けれどそれは、不快なさざめきではない。

 父はゆっくりと息を吐き、窓の外に薄く白む空を見遣る。そうして細めた目はまるで、遠い潮風を思い出すような色だった。

「……あそこはな、アストン。朝になると、港じゅうが動きだすんだ。荷を積んだ船の帆が風をはらんで、革の匂いも海の匂いも、同じ空気の中で混ざり合う。工房の扉を開けるたび、胸の奥がふっと広くなるような……そんな場所だ」

 父の言葉につられて、胸の奥にまたひとつ、ゆるやかな風が吹きこんだ心地がした。それはまだ知らない風の感触である。けれど、まるで行く先の方から手を伸ばされたような感覚だった。

「俺がいた工房はな、よそから来た職人が行き交ってて……型紙ひとつ見せてもらうだけで、『こんな作り方があるのか』って何度も打たれた。手が勝手に動く。もっと作りたくなる。……あれは、不思議な土地だ」

 父は、縫い目をなぞるように便箋の端を辿った。型紙ひとつで世界が変わる――その感覚は、かすかに想像ができる。

「世話にもなった。素性も知れん俺みたいな者を拾って、飯も寝床も用意してくれた。あの工房がなかったら、たぶん俺はここに戻ってこられなかった」

 恩というより、深い感謝と敬意を滲ませる響きに、思わず目を上げる。


「そんなラザロが、『伸びる』と言っている。……俺はな、それが嬉しいんだよ」

 ふっと笑うようにほどけた声。それはいつかの遠い日――もう俺の確認はいいだろう、と手を離されたときの声に似ていた。修理を仕上げた後、客に納品をする前。もういい、もう大丈夫だと、安堵に近いような音で告げられた記憶が、胸の奥へ灯る。

 褒められたことが嬉しいのではない。

 伸びると言われたことが誇らしいのでもない。

 父がそのことを喜び、行く先を希望の色で見て、そうあれと願ってくれていることがただ、静かに沁みわたってゆく。

 父は言葉を選ぶように、一度カップを指で回した。


「お前の靴は、俺の作ってきたものとは違う。俺には出せなかった色を、いつの間にか持つようになっていた。……二年の間に、そんな手になっていたんだな」

 胸の奥が熱くなる。父の声音には、寂寥もなく、ただまっすぐな喜びがあった。

 ――二年間の空白が、ようやくひとつ埋まったような気がした。


 離れていた間に自分は、父の目指すものとは違うものを作り始めていた。それをどう捉えられているのかを確かめるのは怖く、尋ねることも出来ずにいた。けれど、父が見ていなかった、見ることが出来なかった二年間の時間を。今ようやく、言葉で撫でられたように感じた。


 父は少しだけ視線を落とし、ためらうように息を吸った。

「正直なところだ……お前を伸ばしてやれるのは、もしかしたら俺じゃないのかもしれん。だったら、一度触れてみたらいい。海の風に吹かれて、どんなものを手にして戻ってくるのか……俺は、それを見てみたい」

 背に触れるような声に返す言葉はすぐに見つからず、湯気の立つカップへ視線を落とした。

 胸の内側ではまだ、ゆるやかに波が寄せては返している。

「ここに戻るかどうかなんて、今決めなくていい。ただ、一度行けば、四年か五年は腰を据えることになるだろう。それでも、行きたいと思うなら――それでいい 」

 四、五年。

 父とまた離れる年月の長さが、一瞬胸の奥を冷やした。けれどそれと同じ場所に、波が寄せるように温かさが満ちていく。


 ――行けるかもしれない。行きたい。


 顔を上げたこの胸の中には、恐れと期待が同じ重量で置かれている心地がした。それが表情に出ていたのだろうか。父はしばらく黙ってこちらを見詰めてから、目を細め、柔らかく笑った。

「怖いか?」

「少しだけ。……でも、行けるなら、そうしたいと思う」

「なら、行けるな。怖いと思える場所は、行く価値がある」

 父の言葉は肩へ置かれた手のようだった。

 暖炉の熱が背に回る。静かに息を吐くと、いつしかこわばっていた肩の力が、徐々に抜けていくのを感じた。

「返事は急がなくていい。どちらにせよ、腹が決まれば教えてくれ」

 相談にも乗る、と重ねて、手は便箋を置く。そうして代わりに菓子を摘まみ、ぱり、と軽い音が立った。


 窓の外に目を遣ると、そこには昨日までと変わらない街並みがある。――昨日までどころではない。生まれてからずっと、変わらない景色だった。

 突然開けた視界にまだ実感は伴わない。それでも鼓動だけはまだ、かすかに足取りを早くしたまま鳴り続けていた。


 ――四、五年。

 そして反芻をしながら、ティアの顔が浮かんでいた。会えないこの一週間の、静かな痛みのような恋しさが胸を刺す。けれどすぐに、違う、そうではないと心の中で頭を振った。

 自身の切なさなどはどうだっていい。ただ、ティアは、言葉を待ってくれているのではないか。しかし、街を離れようとする自分が想いを告げて、どうしようと言うのか。困らせて、不要な苦痛を与えることは、一番避けたいところだった。

 ――どうしようもない。

 そう想いを沈めかけた手を、何かが引き止めた。そうして叱咤する。

 自分は、ティアに何を教えてもらったのだ。

 望みを持つこと。誰かと話し、悩みながら歩くこと。そのあたたかさと輝かしさを知らせてもらった今、するべきことは、何もかもを無かったことにすることではない。


 息を吐く。向き合い、どこかで、二人で話さなくてはならない。

 逡巡の渦巻く中、ふと遣った視線の先には、星誕祭の飾りが煌めいていた。その星の光が、迷ってばかりの自分を導くように感じられる。

 ――誘おうか。誘おう。

 期限を決めなくては動けない自分を立ち上がらせ、珈琲を口に含む。

 そうしてようやく手を伸ばした菓子は、ティアの好きそうな、愛らしい花の形をしていた。


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