65.似てない/似たもの親子
あれから一週間ほどが経った。
良い知らせはあっという間に街じゅうを駆け巡り、診療所でも、宿でも、市場でも、誰からともなくその話を耳にした。
大雨の日に馬車ごと流されたこと。名も記憶もわからないまま、港町の工房に拾われていたこと。そして商館で——アストンの靴と名を見て、記憶が戻ったこと。
一つずつの出来事が星座を描くように結ばれ、今に繋がったのだと、人づての噂で自然と知った。
ただ、アストン本人からは何も聞いていない。
あの日から一度も、会っていないのだ。
アストンの父が帰ってきた、その翌日のことだった。仕事から宿へ帰ってきた夕方、いつものように厨房を覗き込み、尋ねてしまったのだ。
「マルタさん、今日は持って行くおかずないの?」
もう作らないよ、とマルタは笑った。けれどそのときは、手ぶらでもいつものように、顔を見に行けばいいと思っていた。それに、あの明け方には話す余裕もなかったアストンの父が、どんな人なのかも、密かに気になっていたのだ。
そうして、看板の灯りが見えたところで——裏庭から、話し声が聞こえたのだった。アストンのものと、もうひとつ低い声。
二人は染色の話をしているようだった。何かを漬けていて、アストンのものの方が染まりがよかったのだろうか。小さな水音の後、アストンの笑うような声が風に乗った。
「ほら見ろ、俺の言ったとおりだろ」
ごく普通の十九歳の青年らしい、軽やかで、気やすい声だった。こんな声を、こんな言葉遣いをするのだと思った。そうしてふと、いつだったか、マルタから聞いた話を思い出す。
近頃のアストンは、自分が訪ねてくる前に比べて随分と笑うことが増えた。——昔はこうだったのだ、と。
そうだ。自分の知らないアストンこそが、本来の彼の姿なのだ。それに少しずつ戻れているというのなら、今日はこのままそっとしておくべきだと思った。
そうして足音を立てないように引き返し、そのまま日を置いた。
気づけば、今日まで一度も、扉を叩いていない。
朝の市場は変わらず、人で混み合っている。会いたいのならば直接行けばいいのに、たまたま会うことを何故か祈って、周囲を以前よりも見渡してしまう。そうしているうちにふと、周りより頭ひとつ飛びぬけた帽子が視界に入った。
厚い体躯。アストンに似た、端正な顔立ち。いつかどこかで話したいと思っていた、もう一人のひと。
そうと気付いた瞬間、足は小走りに駆けていた。
「ロドリクさん、おはようございます」
パンを眺めていた大きな背がふと動く。振り返ったその表情は、やわらかく人を包むような笑みだった。腕に抱えた荷から、花束の端が揺れている。
「ああ……」
ロドリクはこちらの顔を見て一拍だけ考えるように目を細めた。そして、ごく自然な所作で、指が帽子のつばへ添えられる。
「失礼。こんな可愛らしい方なら、一度お会いしていれば忘れないと思うのですが……差し支えなければ、お名前を伺っても?」
——間。
予想していなかった軽やかさに、思考が止まる。
続いて、ソニアが以前、おじさま、と呼んでいた理由が一瞬で腑に落ちた。確かに、仕草も物腰もどこか穏やかで、人を安心させるような大人の気配がある。けれどアストンの静かなやわらかさとはまるで違う、よく陽に当たった木のような、朗らかな温もりがあった。
「私、ティアといいます。すみません、まだ……」
ちゃんと会ったことがなくて、と言いかけてから、変な表現のように思った。適当な言葉が思いつかなくて語尾がすぼんでしまう。けれどロドリクは、ああ、とぱっと顔を明るくしてくれた。
「君がティアさん。マルタさんから聞いているよ。息子が随分世話になったそうで——ありがとう」
帽子を胸に当てて丁寧に礼をされて、慌ててしまう。こちらこそよくしてもらっていて、と返しながら、少しだけ頬が熱くなった。マルタは一体どんな話をしたのだろうか。余計なこと——アストンが好きだということはもちろん、二人きりで出かけた日があることなども、きっと内緒にはしてくれているだろうと思いながらも、気恥ずかしさが込み上げてくる。
口が滑らないように話を変えようと、腕の中の紙袋に目を遣った。
「お買い物ですか? お花、きれいですね」
「そうでしょう、妻は花が好きでね。あとは星誕祭の飾りも、こういうのがきっと好きだと思って」
紙袋を傾けてもらい、ようやくその中身が見えた。星を閉じ込めたようなガラス細工に、ビーズで花が描かれた布飾り。きれい、と思わず声を上げる。
それからふと、そうか、アストンは星誕祭を家族で過ごすのだと思った。よかったな、という安堵に一瞬、隙間風のような温度が混じる。いいなあ、という呟きがまた心の端をかすめ、逃げるようにかき消えていった。
「街の様子はほとんど変わっていないが、いや、市場はさすがに様子が変わっているね。お陰で少し迷ってしまって」
「そうなんですか? このパン屋さん、美味しいですよ。パンはもちろん、クッキーも好きで」
言いながら覗いて、思わずあっと声を上げた。新しくシナモン味が増えている。思わずじっと見詰めればロドリクは笑い、その笑い方がアストンそっくりだったものだから、不意にどきりとしてしまった。
「そうか。ティアさんのお勧めなら、ぜひ一度食べてみなくては。旦那、これを二袋頼む」
硬貨と引き換えに二袋を受け取り、ひとつは紙袋の中へ。そうしてもうひとつは——こちらの手の中に、そっと渡される。
「教えてくれてありがとう。では、よい週末を」
やわらかく笑い、颯爽と外套の裾を翻して人波に紛れていく。その背をぼんやりと見送ってから、手の中の袋を思わず握り締めた。
——アストンと、だいぶ、感じが違う。
ロドリクからすれば娘ほどの歳の女性は皆可愛らしいものだろうし、そもそも社交辞令だろう。けれど——アストンからは、かわいい、という一言を聞くまでに、五か月もかかったのだ。ワンピースを褒めてくれた日のことが思い出されて、鼓動が早くなる。
ロドリクは妻、つまりアストンの母を溺愛していたという話だったから、朗らかな軽やかさは、その名残なのだろうか。アストンもそのうち息をするように、可愛い可愛いと言うようになるのだろうか。
つい想像をしかけて、はっと我に返る。今、自分が可愛がられている姿を浮かべなかっただろうか。あの生真面目な人に、頭の中で勝手に甘い言葉を囁かせて、優しい手つきで髪の先を掬わせたことが猛烈に恥ずかしくて、ひとりで顔が赤くなった。慌てて思考から追い出す。
けれど一方で——父とアストンはとても似ている、とも思った。
ふとしたときに見せる、やわらかな眼差し。丁寧な仕草。アストンのやさしさの源に触れられたような心地がして、口元がゆるんだ。
会いたいな、と思う。
あのひとの声を聞きたい。あのひとの笑顔を見たい。
ただそれだけが、店の扉を押す理由になる。
だから今日は、自分の少ない荷物と、宿じゅうを探して、傷んだ革製品を見つけようと思った。そうして小さなきっかけを見つければ自分はきっと、また、好きなひとにうまく会いに行けるのだから。
——アストラ・ポラリス二階。
暖炉の上に洗濯物を干していると、階下の扉が開く音がした。ただいま、と父の声が上がる。
最後の一枚を留めてたらいを寄せたところで、熊のような身体が居間へと入ってきた。その腕には、似つかわしくないほど鮮やかな花たち。かつて見慣れていた光景が、二年前の続きとして今ここにあることを嚙みしめながら、おかえり、と声をかけた。
「ああ。クラリスもただいま、君に新年の飾りを買ってきたよ」
母の肖像画にキスを投げながら、その前に星誕祭の飾りをひとつ、ふたつ、三つと置いていく。四つ目がまだあるらしいことに気が付き、思わず口を挟んだ。
「……多くないか?」
「去年と一昨年の分もあるからいいんだよ。ほら、お前にも土産だ」
小さな紙包みを開けると、クッキーだった。珈琲でも淹れなおして、作業前にひとつ摘まんでいこうか。そう思った背に、何気ない声がかかった。
「それ、市でティアちゃんに勧められてな」
——行けばよかった。後悔が押し寄せ、すぐにあの笑顔が浮かぶ。もう一週間も顔を見ていない。何をしているのだろうか。
そこではっと、まだ生けられていない花束を見遣った。指先でそっと掻き分けて、空白がないかを改める。
「マルタさんが言ってたとおり、明るい子だな。……何やってんだ」
「花……抜いて渡したりしてないかと思って……」
「お前なあ、俺を何だと思ってんだ。第一それはクラリスへの贈り物だ」
呆れたように笑う声が頭上から降る。心の中で拗ねた気持ちが芽生えるのを感じて、表に出ないように押しとどめた。平生どおりに見えるように取り繕って、手紙を手に取る。朝、ポストに届いていたのを回収したものだった。差出人欄にはラザロという名と、父のいた港町の住所が記されている。
「手紙が来ていた。この人、何日か前も送って来てなかったか?」
「ああ、俺を拾ってくれていた工房の主人だ。色々とほっぽりだして急に一旦帰ってしまったからな、取り敢えず事情やら状況やらを知らせていて……」
取る物も取りあえずという体で夜行便に飛び乗ったものだから、借りている家も、受けていた仕事も——これは同じ工房の他の職人に続きを頼んだそうだが、置いてきてしまったものが多々あるらしい。年明けにでも一度戻って片付けをしなくてはならない、とぼやいていたが、その話だろうか。
父の視線が便箋の文字を辿っていく。珈琲を入れ直して持って行けば、その頃には読み終えたのか、手紙を持ったまま窓の外を眺めていた。
「父さん。さっきのクッキー、食べるか?」
「ああ、いただこう」
包みを開けると、ティアの好きそうな香辛料の匂いが広がる。今の時期はことさらこの味のものが多いから、彼女はきっと目移りしていることだろう。店先に吸い寄せられていく光景が目に浮かぶようで、自然と口元がほころぶ。
だから、父の沈黙に気付くのが遅れた。
ふと見遣れば、父はクッキーをひとつ指に挟んだまま、食べようともせず、わずかに視線を伏せていた。言葉を探すように、ひと呼吸が落ちる。
「……なあ、アストン」
ためらうような声音に空気が変わる。胸の奥がかすかに強張る。
「——お前、港町に移る気はあるか?」
父の瞳は、まだ開いたままの便箋の文字を見詰めている。
返す言葉に詰まった自分の手元では、ティアの選んだ菓子だけが、甘く、やわらかな香りを広げ続けていた。




