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64.冬の夜が明ける

 胸の奥が重く、眠りが浅かった。

 目を開けると、外はまだ夜だった。宿の窓に額をつけると、霧だけが静かに白く沈んでいる。まるで街じゅうの息遣いが、薄い布の下に隠されているようだった。

 見えないはずの通りに目を凝らし、気配に耳を澄ませてしまうのは——ことさら深い霧のせいではない。自分の心が落ち着かないせいだった。


 昨日のアストンの横顔が、胸の奥にずっと刺さっている。あのまま夜を過ごしているのだと思うと、じっとしてはいられなかった。


 外套を羽織り、そっと宿を出る。扉を開けた途端、凍りつくような寒気が肌にまとわりつく。吐いた息はたちどころに白く変わり、霧と溶け合っていった。石畳は霜を抱いて鈍く光り、足音を硬く響かせる。

 霧は、触れればかき消えてしまいそうなほどやわらかく、それでいて道の両端の輪郭を曖昧にしていた。通い慣れたはずの道なのに、まるで知らない街を歩いているような、心もとない白さだった。

 それでも、迷うことなく足は前へ出る。アストンのいる場所へだけは、間違えずに辿り着ける。


 視界の中では、街灯のあかりがところどころで揺れていた。ガス灯の橙色は弱く、霧に包まれてぼんやりと滲んでいる。それでも近づけば、微かな温度が感じられる気がした。

 いくつかの家の二階には、早起きの住人が灯した明かりが点り始めていた。けれどどこも一階の店先は、まだ暗いまま。夜と朝の境目が、静かに混ざりあっている。

 そんな淡い群青の中で——霧の向こう、遠くにぽつりとひとつ、橙色の灯りが浮かんで見えた。


 胸が締め付けられる。

 アストラ・ポラリスの灯だ。


 やはり起きている。眠れていないのだ。小さく息を吸い、早足に駆けた。冷たい霧が頬に触れるたび、胸の奥の熱が逆に強くなっていく。

 店の前まで来ると、扉の向こうからはほんのりと橙の光が滲んでいた。霧の白に溶けず、そこだけが温度を持って揺れている。

 息を整え、そっと扉の前に立つ。そうしてふと、扉を押そうとする手が止まった。

 ——来てしまったけれど。自分に、何かできるのだろうか。


 昨夜のアストンの震える手を思い出す。抱え込む彼の性質も、誰よりも自分を後回しにしてしまう癖も知っている。その重さの一部でも自分が背負えるなら、と胸は動いたのに、扉の木目を前にすると、急に心細さが増した。戸を叩くべきか。迷いながら手を上げかけた、そのとき。

 勢いよく、扉が開いた。眠る街の静寂を割るように、扉の鐘の音が響く。

「……!」

 冷たい霧が一気に店内へ流れ込み、ケープの裾がふわりと揺れる。

 驚いて身じろぎをすると、戸口にはアストンが立っていた。息を詰めたような顔。その瞳が、すぐにこちらを捉える。

「あ……ティア、か」

 一瞬、落胆にも似た影がよぎった。父だと思って開けたのだ、と胸がかすかに痛む。

 けれどその影はすぐに薄れ、代わりにほっと緩んだ気配が滲んだ。眠れていないような瞳が、わずかに明るくなったように感じる。

「……どうした?」

 問う声は、口にした途端に自身で答えを悟ったようだった。ここに来た理由など、考えるまでもない。

「すまない。どうした、はおかしいな」

 アストンは息をつき、かすかに視線を落とした。

「寒いが……よければ、入ってくれ」

 戸口の横に身を引き、手で店内を示してくれる。扉の向こうからは、橙色の灯りと、ほのかな革の匂いがあふれ出してきた。頼りないような、それでいて離すまいともするような眼差しに、胸の奥が切なく熱を帯びた。


 店に入ると、外よりわずかに暖かい空気が頬に触れた。とはいえ火の気があるのは小さな作業用のストーブだけで、その周りだけがぽつんと橙色に満ちている。

「こっちが暖かい。座ってくれ」

 ストーブのそばの椅子に腰を下ろすと、手袋越しでも指先がじんじんと痛む。アストンはずっとこの作業場にいたのだろうか。そう浮かぶうちに、ふとそばの机に目が向いた。

 いつもならば、切り出した革や金具、使いかけの工具が机いっぱいに散らばっている。散らかり具合から、その日の忙しさを察することができるほどだった。

 ところが目の前の机は、妙なほどに整っていた。革も金槌も針も、きれいに並んでいる。ほんのわずかに触った形跡はあるのに、どれも途中で手が止まったかのように。胸の奥がひやりとし、泣く前のようなかすかな熱が込み上げた。

 アストン自身はそれに気づいているのかいないのか、作業椅子にただ座ったままだった。こちらを見ようともせずに、かすかに呼吸だけが揺れている。

 そのまましばらく経ってから、思い出したように、ふと顔が上がった。

「寒かっただろう。何か、飲むか?」

 慌てて手を振る。

「大丈夫だよ、朝も近いし、悪いし」

 するとアストンは小さく首を振った。

「いいんだ、何かをしていた方が気が紛れ——」

 そこまで言って、はっとしたように口元へ手を当てた。

 口に出すつもりのなかった本音が落ちたのだとわかる。胸がまた、締めつけられた。

 返す言葉を探そうとしたけれど、声になる前に、アストンは目を伏せる。そうして、かすかに苦笑を浮かべた。

「……すまない。変なことを言った」

 変ではない。こんな夜では当然だろう。けれどそれを言えばまた、アストンは余計な気遣いをしてしまうのだろう。

 だから努めて微笑み、明るい声で答えた。

「じゃあ、お言葉に甘えてもいいかな」

 アストンの瞳が一度、瞬く。そうして、ふっと息を抜くように、肩をゆるめたように見えた。

「……ああ。すぐ淹れる」

 そうして二階へ行き、じきに戻った手の中には、小さな湯気がゆらりと二つ立っていた。冷えきった店内に、その動きだけが静かに温度をもたらしていく。

 カップを手渡してくれたあと、アストンは視線を床へ落とした。沈黙が落ち、その中で小さな声がこぼれる。

「……もし、嘘だったならと思うと」

 不意に落ちた声は、焚き火の端が崩れるようにかすかだった。はっと顔を上げると、アストンはすぐに首を振る。

「いや、すまない。こんなことを言うつもりじゃなかった」

 弱さを見せまいとするその仕草が、かえって胸に刺さる。それでもアストンはゆっくりと息を吐き、視線をこちらに向けた。

「来てくれて、ありがとう。ひとりでいるより……ずっと、いい」

 その言葉は、深いところでようやく絞り出されたもののようだった。胸の奥がじんと熱くなるのを感じる。安堵に似たその温度が、指先の隅々まで通っていくような心地がした。



 しばらく沈黙が落ちた。ストーブの火がぱち、と小さく音を立てる。その音に誘われたように、アストンはぽつりと零した。

「何か、話してくれないか。なんでもいい。音が……あった方が、落ち着く」

 少しだけ視線が揺れている。その頼りなさに息を呑んだ。

「うん、もちろん。じゃあね——」

 声が自然とやわらぐ。手の中で温かいカップを転がしながら、ぽつぽつと話を始めた。


 市場で見かけた、変わった形のカブの話。

 診療所の中に小鳥が迷い込んできて、捕まえようとベネディクト先生と大騒ぎになった話。

 カトリーナからの手紙に描かれていた、ふざけた落書きの話。


 どれも本当にどうでもいい話ばかりなのに、口にするたびに胸の奥が少し軽くなる。


 アストンは、黙ったまま耳を傾けていた。聞いているのか聞いていないのか、判然としない。

 それでも時折小さく、そうか、とだけ返ってくる。そのたびに、火の色がほのかに明るく見えた。

 ——ああ、そういえば。

 ふと、胸の奥で何かが繋がるのを感じた。

 最初の頃も、こんなふうだった。

 まだ互いの抱えていたものも、何ひとつ知らなかった頃。こちらが一人で喋り、アストンが黙って聞いていたあの夕暮れ。

 違うのは、沈黙の色だった。今は、不安の底に触れた人が息を継ぐために、この声を必要としてくれている。

 ——必要とされたのだ、と気づいた瞬間、胸の奥があたたかくなった。少しでも、心の痛みを和らげられていたならば、今それよりも嬉しいことはなかった。


 ストーブの火が、ふたりの影をじわりと伸ばしていく。

 言葉はとぎれとぎれでも、静かな時間がゆるやかに流れていった。


 そうして、一昨日の料理の話をしているときだった。

 ふと、胸の奥がざわりと揺れる。

 ——今のは、何の音。

 紡ぎかけていた言葉が途切れ、自然と耳をそば立てる。つられるように、アストンが顔を上げた。

「どうした?」

 返事の代わりに、扉の方を見る。意識をそちらへ向けた瞬間——また、微かな振動が足元から伝わってきた。

 アストンもその変化を感じ取ったらしい。息を整えるようにわずかに目を細め、耳を澄ませる。

 室内にいてもなお伝わる、冷えた夜気の向こう。

 コ、コ、コ、と石畳を断続的に踏みしめる、馬車の車輪の音。それは霧に包まれて輪郭を曖昧にしながらも、確かに近づいていた。

 アストンの喉がかすかに鳴る。顔色が、見る間に変わる。

 ——来た、のか。

 声にならない声が、作業場の空気を震わせる。

 立ち上がる。アストンも引かれるように扉へと歩き出す。騒ぎ出す鼓動をおさえて扉を引き開ければ、隙間から差し込む寒気が頬を刺した。


 その遠く向こう、濃い霧の中でランタンの灯りだけがぼんやりと揺れている。馬の蹄が石を叩く音と、低く鈍い車輪の軋みが、はっきりと聞こえた。アストンの肩が、大きく、小さく、震えた。

 馬車の気配は途中で止まり、代わりに——静寂を割るように、靴底が地面を打つ、乾いた音が響く。

 走ってくる。誰かが。


 霧の壁の向こうから、黒い影が滲んできた。

 ひと足ごとに霧が揺れ、そのたびに空気がわずかに震える。

 その気配が、真っ直ぐ胸に向かってくる。心臓の音が大きいのに気づく。隣のアストンは、息をすることすら忘れたように微動だにしなかった。


 音が、近づく。

 次の瞬間、白い霧を裂くように、影がひとつ現れた。

 外套の裾を風にあおられ、帽子もかぶらず、息を荒げて。

 灯りに照らされ、ぼんやりと輪郭が溶ける。大きな肩。厚い体躯。冬の空気を押しのけるような存在感。


 その影が立ち止まり、胸の奥で響くような、低い声がこぼれた。


「アストン……?」


 そうであれと祈るような音だった。

 アストンの全身が、びくり、と震えた。足が一歩、前へ出る。踏み出したというより——吸い寄せられたように。

 影が、駆けた。大きな鞄が石畳に投げ捨てられる。

「アストン……!」

 白い霧が割れ、父の腕がそのままアストンを抱きしめた。

 大きな体が包み込む。少年の頃の記憶ごと、丸ごと抱え込むように強く、けれど決して壊さないように大切に。

 アストンの身体が、ぐらりと揺れた。腕はまだ上がらず、ただ父の胸の前で戸惑うように宙に浮いたまま。

「でかくなったなぁ……」

 父の声は、震えていた。遠い旅路の果てで削れた声なのに、確かに愛情が滲んでいた。

 アストンは何も言わず、喉をただ詰めている。凍える霧を吸い、浅く、呼吸をしている。

 父はゆっくりとアストンを抱きしめ直すと、擦り寄るように笑った。

「ああ、林檎、ちゃんと買って帰ってきたぞ……」

 ——その瞬間だった。

 アストンの眼が大きく見開かれ、次いで涙が一気にあふれ落ちた。溢れる、というより、抑えつけていた堤が割れたように。

「……父さん……っ、ごめ……俺が……俺のせいで……!」

 言葉にならない言葉が、嗚咽に溶けてこぼれる。

 震える両腕が、父の背に縋るように回された。その指先が白くなるほど、外套の背をぐしゃりと掴む。

「いいんだ、アストン。いいんだよ」

 父の声は、まるで帰り道を照らす灯火のようだった。

 大きな手がアストンの頭を包み込み、ゆっくり撫でる。その動きにつれて、長い年月が零れ落ちてゆくようだった。

 その光景を見詰めながら、霧の冷たさの中で立ち尽くしていた。寒気は頰を刺すけれど、胸の中は熱で揺れている。いくつもの感情が、一度に立ち上がった。


 ——生きていた。


 それだけで、世界が塗り替えられるほどの安堵が押し寄せる。同時に、アストンの長い苦しみがようやくほどけていくことに、呼吸が追いつかなかった。

 どれほど深いところで、この人は痛んでいたのだろう。

 どれほど長く、一人でその痛みに耐えてきたのだろう。

 父の腕の中で泣き崩れるその姿は、ようやく帰る場所を取り戻した少年のようで、胸が締めつけられた。


 ああ——よかった。

 言葉にした途端、声を発していない喉までが震える心地がした。たったひと言では追いつかない、けれどこのひと言でしか追いつけない思いが、胸の底からあふれゆく。

 そうしてあたたかく満たされた、そのすぐ隣で、もうひとつの感覚がかすかによぎった。

 ——いいなあ。

 そう浮かんだ瞬間、胸の奥にほのかな痛みが走った。どうして今そんなことを思ったのか、自分でもわからない。だからそれ以上を考える前に、違和感ごと胸の奥にそっと沈めた。今はただ、この瞬間を噛み締めていたいと思った。



 ふたりを包んでいた静寂は、ほどなく破られた。

 何事かと戸を開ける音が続き、近隣の人々の驚きの声が静かな路地へ次々と溢れ出してくる。

「ロドリクさんじゃないか……?」

「あんた、生きて……?!」

「嘘だろう、よかった、本当によかった……!」

 おずおずと近寄っていく人、涙ぐむ人、胸に手を当てる人。かつて一家を見守っていたのであろう暖かな眼差しが、一斉にふたりへ向けられてゆく。

 その輪の外で立ち尽くしながら、胸の奥が静かに熱を帯びた。

 もう、大丈夫だ。自分がここにいる必要は、きっともう、ない。


 騒ぎの中心から一歩、また一歩と離れていくと、路地の喧騒がすこしずつ薄れていく。振り返れば、歓声の輪の真ん中で、アストンが父に肩を抱かれたまま笑っているように見えた。

 ——よかった。

 それだけを胸の奥でそっとつぶやき、静かに踵を返した。

 騒ぎの輪がさらに大きくなり、誰かが泣き、誰かが笑い、路地がひどく温かい色に満たされていく。霧の奥では橙の灯りが揺れ、ふたりを包むように滲んでいた。

 ひとつ、小さく息を吸う。

 ——知らせたい人がいる。

 あの人なら、きっと自分と同じように喜んでくれる。そして、真っ先に伝えるべき人だ。

 胸の奥にふっと灯がともる。気づけば、足は自然と前へと動き出していた。

「……マルタさんに、伝えなきゃ」

 呟いた声は白くほどけ、すぐに朝の霧に溶けてゆく。薄明の霧の中へ踏み出し、三歩目で駆けだした。


 冷えた石畳が足裏に響くたび、胸の奥の熱が強まっていく。再会の灯火は背に、走る自分の白い息だけが、小さく前へと伸びていく。

 父と息子が再び巡り合えたあの温もりが、まだ後ろから、背を押してくれているようだった。


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