63.父の手紙
夕暮れが迫るにつれ、冷たい風が街角をくぐり抜けていく。
陽の落ちるのが日に日に早くなり、石畳の影が紫を帯びて長く伸びていた。そんななかでアストラ・ポラリスの扉を押し開けた瞬間、思わず声が漏れた。
「さ、寒い……!」
店内の暖気が外気を押し返すようにふくらみ、ほのかな革の匂いが鼻をかすめる。手の先がじんじんと痺れたまま固まっていると、カウンターの奥からアストンが顔を上げた。
「すまない、寒い中をわざわざ」
その格好を見て、胸がきゅっと縮まった。ウールだろうか、厚手のベストを着込んでいて、そのせいかいつもより肩のあたりがしっかり見える。冬の服は体を隠すはずなのに、なぜかかえって目が吸い寄せられてしまって、自分が恥ずかしくなってしまった。
どきどきと見詰めているうちにアストンの先ほどの言葉を思い出し、慌てて否定を入れる。
「あっ違うの、えっと」
謝られることはない。おまけに今日は余分なおかずがないと聞いていたものだから、診療所からそのまま来た。寒い中をわざわざ——総菜を届けに来たのと、ただ会いに来たのとでは、少し意味が違う。
頬が熱くなって足が止まってしまったけれど、アストン自身は言葉に深い意味を持たせていなかったらしい。作業机の横に置かれた小さなストーブに視線を落とし、手で招いてくれた。
「ここは暖かい。手をあぶっていったらいい」
いつもの落ち着いた声なのに、店の灯りが揺れて横顔をやわらかく照らすせいか、胸の奥で小さく温度が跳ねる。それに、カウンターの向こう側へ招き入れてもらうのは、何度目でもどこかくすぐったさがあった。
寒さに負けて——違う、優しさに押されて、そっとカウンターの端から回り込む。靴底が革くずを踏む、やわらかな音がした。
「……お邪魔します」
アストンがそこに立つだけで、作業場はどこか特別な世界のように思えてしまう。
それでもストーブの前に手を差し出すと、じわりと熱がしみてきて、指先がほどけていった。
隣ではアストンが金槌を置き、ちらりとこちらを見遣る。
「指、赤くなっているな。その手袋だと寒くないか?」
「大丈夫、薄い方が使いやすいの。でもアストンのところ、夕方は暖かくて助かる……」
「そうか。よかった」
ふっと笑う声は低く、体の奥の冷えまで溶かしてしまいそうで、胸がきゅっとなる。それにこのストーブの前に立つとどうしても、火傷の消えた指先に触れられた感触が一瞬、よみがえってしまうのだった。
気を落ち着けようと赤い火に視線を戻していると、アストンは作業がちょうどひと段落したのか、手を止めた。
「新しい友達とはその後、どうなんだ」
「手紙、変わらずやり取りしてるよ。最近ね、裏に絵を描いて、何の絵か当てる遊びもしてるの」
楽しそうだな、と微笑む声がいつもより近くて、どきどきと鼓動が早くなる。横目で見遣れば、金槌を置いた指が、冬の空気で少し赤く染まっていた。その何気ない様子まで胸を落ち着かなくさせていく。
「手紙なんて書いたことももらったこともないな」
「えっ、ないの?」
「街の外の知り合いもいないし……」
続けてから、そうか近所でも出していいんだな、とひとりで納得をしている。けれど確かに、男性は手紙で遊ぶということはあまりしないのかもしれない。
「いざ書くときに困らない? あっ、そのために代筆のお仕事があるんだ」
カトリーナの文具屋にも、行きつけの本屋にも、そういえば代筆依頼の連絡先が貼ってあった。思い出して話に出すと、アストンは首をかしげる。
「いざとは?」
「お仕事の挨拶状とか、お詫びとか、ラブレターとか……」
「ラ……それは、代筆していいのか……?」
困惑の声が落ちるが、実は自分も、カトリーナに同じことを質問した。すると、いつも内容を一から考えてもらうわけではなく、こういう内容にしたいと口で話して、それをうまくまとめて書き上げてもらうこともあるという。それなら悪くないのではないかと思ったのだ。
「うまく書けなかったら、代わりにまとめてもらいたい人はいるんじゃない?」
「時間がかかっても自分で考えてこそだと思うが……」
ランプの元で辞書をめくりながら文面に悩むアストンの姿が容易に浮かび、真面目なアストンらしいな、と少し笑った。それからふと、なぜそんな光景が浮かんだのかと思い返す。
——辞書。
アストンは言葉を探すためだと言って、辞書を借りていった。そうしてあの親睦会の夜から日は少し経ったけれど、まだ辞書は返ってきていない。急かすつもりはない。アストンは忘れる人ではないのだから、それだけ悩んで考えていてくれている印だと思えば、くすぐったさすらあった。
けれど、探しているのは、何の言葉。
ラブレター、という単語と一緒に思考がぐるぐると渦を巻き、熱を上げていく。沈黙の間にアストンは何に思い当たったのか、口元に手をやってから、少し俯いてしまった。その頬が微かに赤い。言おうとした言葉が喉の奥で引っかかったように、アストンはひとつ、浅い息を吐いた。
どうして今、同じところで息を詰めてしまうのか。甘いような気まずさが、夕闇の灯りの中にふわりと立ち込める。
その沈黙のなかで、外からコツ、コツ、と規則正しい音が近づいてきた。最初は風に揺れる看板かと思ったが、やがて靴底が石畳を踏む乾いた音だとわかる。
アストンがはっと小さく顔を上げたのと、扉がノックされる音はほとんど同時だった。
「アストンさん、速達でございます」
扉越しに聞こえる声に、ふたりで思わず顔を見合わせてしまう。代筆云々で気まずくなっていたせいか、妙に息が合ってしまい、思わず笑いそうになった。
アストンがカウンターから出て扉を開けると、冬の冷えた空気がひと息に店へ流れ込んできた。
郵便配達の青年は肩に革鞄を下げ、凍えた指先をこすりながらもきちんと姿勢を正している。
「速達でございます。ご署名をいただけますでしょうか」
「速達?」
アストンが受け取る声は、わずかに驚きを帯びていた。つい横から覗き込み、そっと笑って言う。
「手紙だよ。よかったね、噂をすれば」
「……ああ、まったくだな」
アストンの頬に、先ほどの照れとは違う、落ち着いた笑みが戻る。配達人から差し出された板と紙を受け取り、どう書けばいいのか少し迷ったように眉を寄せてから、ここに名前を書けばいいのか、と尋ねている。
「はい。こちらにお願いいたします」
ペン先が紙の上を走る音が小さく響く。その間も開け放たれた扉から冷たい風が吹き込み、ストーブの熱がゆるやかに揺れた。
「確かに承りました」
配達人はアストンの署名を確認し、革鞄にペンと小さなインク壺を手早くしまった。一礼して、今度は靴底の音を静かに遠ざけていく。
アストンは扉を閉め、受け取った封筒をひとまず手にしたまま、こちらへ向き直った。
「誰からだろうな、手紙なんて滅多に——」
そこまで言いかけて、アストンの視線が封筒の宛名で止まる。
——瞬時、その指先が、炙られた金具に触れたかのように跳ねた。
乾いた音を立て、封筒が床に落ちる。
「アストン?」
返事はない。浅い呼吸に胸が上下し、ただ瞳だけが床の一点、表を向いて落ちた封筒を凝視している。指先は空を掴むように震え、封筒へ伸びたものの、何度も掴み損ねた。
もしくは、掴もうとしていないのかもしれない。裏返して差出人を再び確かめることを、恐れているような手だった。
代わりに恐る恐る屈み込み、封筒へ手を伸ばす。床に近い、凍った空気が這い上がる。
拾い上げたその差出人は、ロドリク、とあった。
誰だったか。どこかで聞いたことのある気がする。
掠れた走り書きのその筆跡を見詰めるうちに、記憶がふと結ばれる。
——息が止まった。胸が、強く跳ねる。
「アストンの、お父さん……?」
その声でようやく、アストンの肩がびくりと震えた。焦点の合っていなかった瞳が、ゆっくりと封筒へ戻り、わずかに見開かれる。
——生きていた……?
胸の奥がふっと明るむ。けれどその灯は、アストンの青ざめた横顔を見た途端、すぐに萎んだ。喜んでいいのかどうかすら判断できない空気が漂っている。
「……アストン」
そっと呼びかけると、彼はわずかに瞬きをして、手を伸ばし——けれど、また指先がわずかに跳ねた。掴む力が入らず、持っただけで手が震えている。封筒の紙がかすかに擦れあい、音を立てていた。
「……開け、ないの?」
問いかけると、アストンは小さく首を振った。
開ける、と掠れた声の端は、霧のように溶けた。アストンはふらりと立ち上がり、作業机の方へ歩き出す。
普段は迷いのない足取りが、今日は頼りなかった。革くずの山に足を取られそうになりながら、机の引き出しを開ける。けれど手は震え、鋏の柄を持った指は白くこわばっていた。
刃が封筒に触れる。紙を切るはずの音は、どれだけ待っても落ちてこなかった。
「……頼む」
封筒が差し出される。掠れた声だった。鋏を置く手も、荒くなった息も、すべてが震えている。
「開けて、読んでほしい。手が、動かない」
胸の奥が引き絞られるように痛んだ。
こわばった手から封筒を受け取り、そっと刃を当てる。静かに紙が裂ける音が店に落ち、アストンが息を呑む気配が背に当たる。
ひんやりとした紙の手触りが指先に伝わる中、折りたたまれた手紙を取り出し、息を整えて開いた。
——インクの端が擦れて滲んでいた。急いで書かれたのだと、見ただけでわかる。
書かれていたのは、簡潔な文章だった。
商館で靴に添えられた、アストラ・ポラリスとアストンの名を見て記憶が戻ったこと。
しばらく港町の工房で世話になり、革仕事をしながら暮らしていたこと。
母もいない息子をひとりにしてしまったことが、どれほどの苦労と寂しさを与えたかという謝罪の言葉。
そして最後に——
「今夜の便に乗るつもりだ。明日の朝には着けるだろう。まずは無事を知らせたかった」
それだけだった。
長い説明はどこにもなかった。
読み上げている間、アストンは、両手を組んで額に押し当てるようにして座り込んでいた。呼吸が浅くなり、肩は凍えたように細かく震えている。読み終えるころには、ただ、呼吸だけが、作業場の冷えた空気の中で細くこぼれていた。
名を呼びかけても、返事はない。アストンは便箋を見つめたまま動かなかった。
唇を開きかける。
——よかったね。
そう言いたかった。だって父親が生きていたのなら、それはきっと、誰にとっても喜ばしいことだ。だというのに。
「アストン……?」
声をかけても返事はなく、ただ詰まったような息だけが返ってくる。視線は便箋に落ちたまま、焦点が合っていない。
嬉しく、ないのだろうか。
胸の奥で疑問が芽生え、同時に、自分の考えが浅はかなものだったような気もしてくる。
何を言えばいいのかわからない。何を言ってはいけないのかも。
ただその場に、取り残され、落ちた紙片が揺れるほどの静けさの中で、息を飲んだ。
夕刻の鐘が響き渡る。
長い六つの音をすべて聞く間、動けなかった。鐘の音が遠くへ退いていくのに、胸のざわつきだけが静まらない。
ここにいてもいいのだろうか。それとも。
判断ができないまま立ち尽くしていると、先に動いたのはアストンの方だった。
「ああ、もうこんな時間だ……帰った方がいい。暗いから、どうか気を付けてくれ」
感情の読み取れない、いつも通りの流れをただ口にしたような声だった。それでも居座るに値する理由を思いつかず、ためらいながら、一歩扉へ進む。
その腕を不意に、強く引き留められた。
「誰にも、言わないでくれ。手紙のことは。特に、マルタさんは、絶対に駄目だ」
いつかの雑談の折、アストンは話していた。よいところの出で、結婚するまであまり家事をしてこなかった母に料理や洗濯を教えたのは、マルタなのだと。マルタが今のアストンを案じて世話を焼いている理由も、それと繋がっているのだろう。ならば尚更、知りたいのではないか。
頷く直前に一瞬詰まれば、アストンの瞳が揺れた。
「——嘘だったとき、悲しませたくない」
掠れたその声は、祈るようでもあった。
胸の奥が締め上げられる。もしそうだったとき、一番傷つくのは、アストン自身だろう。それなのに真っ先に案じるのは自分ではなく、周囲の人たちなのだ。
誰にも言わない、約束する、と答えると、アストンはほっとしたのか、力が抜けたように指を離した。その手がわずかに震えているのを見て、胸の奥がまた、小さく痛んだ。
沈黙が落ちる。店内の灯りが革の艶に反射し、微かに揺れている。言葉にできないいくつもの思いが、空気の中に溶けていった。
「……それじゃあ、おやすみ」
アストンは頷き、おやすみと返してくれたけれど、表情は結べないままだった。
扉を開けると、夜の空気が頬を刺す。閉まる扉の軋む音は、やけに大きく夜気に吸い込まれていった。
宿への石畳を進みながら振り返れば、鐘の時刻を過ぎて、立ち並ぶ店の一階からは明かりが消えつつあった。その遠く向こうに、まだ灯るアストラ・ポラリスの橙色が揺れている。
あの灯火の中に、ひとりきりで俯くアストンの姿がある気がして、思わず足が止まった。
どうして、あれほど自分を後回しにしてしまうのだろう。
どうして、誰かを悲しませないことばかり先に考えてしまうのだろう。
胸の奥に、切なさとも、悔しさともつかない熱がこみ上げる。
石畳を歩むたび、白く細い息が上がる。何度も、何度も振り返ってしまう。そのたびに、扉の向こうの灯りが、小さく胸を刺した。
——どうか。決して、嘘ではありませんように。
祈り、夜空を見上げる。アストンは語り聞かせてくれた。宙に浮かぶ星々は神なのだ、と。それならばこの満天の空にいるはずの神々の誰かは、この願いを——いや、自分の願いはどうだって構わない。いつだって偽りなく誠実に過ごし、真摯に働き、人を愛する彼の願いだけは、どうか。聞き届けてほしい。
凍えるほどの寒風を受け、手袋の中の指先は冷たい。
それでもアストンの胸を満たしているに違いない冷たさを思うたび、足が止まりそうになる。そうして店の灯りが見えなくなるまで、何度も何度も、振り返りながら帰ったのだった。




