62.黄金の路に少女二人
診療所の主が往診に出た午後、珍しくぽっかりと時間が空いた。
宿の手伝いも今日はすぐに終わってしまったし、アストンのところへ行くにもまだ早い。借りてきた薬学書を読み進めようかと考えるうち、ふと、文具屋へ行こうと思い立った。
新しい便箋もそろそろ買いたかったけれど、何より、カトリーナのマフラーを見に行きたかったのだ。
昨日届いた手紙では、もう編み上がったと書かれていて、早さに驚いてしまった。けれどよくよく読めば、母親には見つからないようにと隠れて編んでいるうちにどんどんゆるくなり、出来たと思えば穴だらけ、毛糸も五玉のうち二玉も余ってしまった、とあった。
新しく編むけれど、解く前によかったら見て笑いに来て――と、誘ってくれていたのだ。
首元に手を当て、自分も編んでみようか、と思い立つ。どのくらい難しいのか聞いてみよう、と、文具屋の扉に手をかけようとしたときだった。
その扉が、勢いよく開いた。
陽の光を弾く赤い影――カトリーナが飛び出してきた。
はっと目が合う。栗毛の髪の隙間から覗く横顔は、泣いたあとのように瞳が濡れている。こちらを捉え、驚いたように瞬きをしたけれど、何も言わずにそのまま駆け去ってしまった。
「……カトリーナ?」
呼びかけた声は、小さく風に溶けるだけだった。胸の奥が急に冷たくなり、爪先のゆく先に戸惑う。どうしようか、追いかけるべきか、それとも。そう迷いが渦を巻くなか、開いたままの扉の向こうから、低くくぐもった声が漏れ聞こえた。
「……あいつ、本当に、店を継ぎたいと思っていたのか」
父親の声だろうか。驚きと戸惑いと、どこか悔いるような色が混じっている。
胸の奥で、静かに息が止まる。カトリーナが泣いていた理由のすべては、その声からはわからない。けれど、何か大切なものが擦れ違ってしまったのだということは理解できた。
買い物に来たはずの手が、気付けば固く握られていた。きっと、追いかけた方がいい。でも、どんな顔をして声をかけたらいいのだろう。胸の奥でまた迷いが揺れ動く。
けれど足は、もう走り出す準備をしていた。
水路沿いの道は、午後の陽に照らされた落ち葉が静かに揺れていた。黄色や赤の葉が石畳に散り、その間を細い風が走ってゆく。
角を曲がった先、木のベンチに小さな栗毛の影が見えた。カトリーナだった。肩をぎゅっとすぼめ、指先を袖の中に隠すようにして座っている。息を整えながら、そっと近づいていく。
「……隣、座ってもいい?」
カトリーナは顔を上げ、涙の跡が乾ききらない瞳で一瞬だけこちらを見る。ためらうような吐息のあと、それでも、小さく頷いてくれた。
ベンチは冷えていて、座った瞬間に体温が奪われるようだった。自分のケープを脱ぎ、膝の上へ広げる。
「走ったら、なんか暑くなっちゃって。よかったら、半分どう?」
カトリーナは驚いたように瞬きをし、ありがと、と小さく呟いて、ケープの端を膝にかけた。
ふたりの膝の上で、薄くなった日の光がやわらかく揺れる。しばらく、落ち葉を踏む音が遠くから聞こえるだけだった。
言葉が降りてくるのを待つ時間は、静かで少しだけ切ない。やがて、カトリーナの肩がかすかに上下し、深い呼吸のあと、ぽつりと言葉が落ちた。
「私ね、文具屋を継ぎたいって、ずっと思ってたの」
声は震えているのに、それでもまっすぐだった。
「でも、うちの家族、わかってくれなくて。弟ばっかり、店のこと色々教えて……お得意さんのところに挨拶に行くのも、いつも弟」
じっと耳を傾ける。胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
「私が行っても意味がないんだって。どうせそのうち、嫁に行って家を出るんだから……って。だったら接客とか、家計の管理とか、どこの店の奥さんになっても困らないようにって……」
最後の言葉は、涙と一緒に押し出された。
返す言葉を探す。けれど、どう言えばいいのか、親の願いと子の願いが噛み合わないという世界が、よくわからなかった。わからないけれど、確かにそこに痛みがあることだけは感じ取れる。
だから、ケープを少し広げて、冷たくなっているカトリーナの指先に寄せた。
「つらいよね」
月並みな、ほんの短い言葉。けれど、今の自分が言える最大限の言葉だった。
カトリーナは一度唇を噛み、そしてゆっくりと吐息をこぼした。
「ティア……」
そこで一旦、彼女の声は途切れた。まだ、言おうとしている何かがある気配がした。カトリーナは、ケープを指先でもぞりとつまみ、涙の跡が残る瞳を真っすぐ前に向けた。
「……それで、私、言ったの」
落ち着いた声ではない。けれど、震えながらも火を宿したような響きがあった。
「お店を継ぎたいって。弟だけじゃなくて、私にもちゃんと教えてほしいって。継がせてもらえないなら——よその街でだって、文具屋をやりたいって」
息を吸うのを忘れた。カトリーナの横顔は、泣いた直後とは思えないほど強く見えた。
「だって、ティアが言ってたじゃない。ひとりでも飛び出したって」
ふっと、カトリーナの視線がこちらに向けられる。
「旅に出たの、すごいって思った。怖かったって手紙に書いてたけど……それでも進んだんだ、って。それを読んでたらね、私も、何があっても、やりたいことは自分で選びたいって思ったの」
胸の奥がきゅっと縮まり、思わず、自分の胸元を握りしめる。
あの日、故郷を飛び出したときの息の詰まるような孤独が、一瞬蘇った。
——自分はあの日、ほかに道も見つからず、逃げるように外へ出ただけだった。なのにカトリーナは、もっとよい方法があるのに、無茶をしようとしてるのではないか。
胸が苦しくなり、視界の端がじんわりと揺れた。
「……カトリーナ。それ……そんなつもりじゃ……」
声が掠れた。
「私……私の話なんて、あんまり参考にしないほうが……。私は、ただ行く場所がなくて……それで、外に、出るしかなくて……。誰かの役に立てるような、そんな立派な話じゃ……」
最後まで言い切る前に、カトリーナがそっと首を振った。
「違うよ、ティア」
午後の陽が、カトリーナの髪先を透かしてきらりと揺らす。赤みのある栗毛が、冬の光を受けて淡く燃えるようだった。
「影響されたのは確かだけど……決めたのは私だよ」
塗れた睫毛の端が、淡い金色をすくったように輝く。ほんの数日前、毛糸ひとつに迷って俯いていた子だとは、とても思えなかった。どうしてこんな短い間に、こんなにも強くなれたのだろう。
眩しさに、自分の内側の弱さがそっと照らされる。けれど不思議と、痛みはなかった。むしろ胸の奥で、あたたかい火が小さく灯るような感覚があった。
——こうやって、人は、変わっていける。その事実が、静かな驚きとともに心に沁みていくようだった。
「……強いね、カトリーナ」
言うと、カトリーナは照れたように肩を竦めた。
「強くなんかないよ。でも、継ぎたいの。あの店を。紙の匂いも、昔からある道具も、全部好きなの。だから……喧嘩になっても、もう隠したくなかった」
その言葉が、吐息のようにあたたかく風に流れる。胸の奥がじんわり熱を帯び、息を吸うのを一瞬忘れる。そっか、と小さく返すと、カトリーナは微笑んだ。
「とりあえず帰ろうかな。今日は業者さんが来る日だから、伝票も揃えなきゃ」
文具屋を継ぐという言葉に、ふわりと現実の温度が宿る。立ち上がってスカートの裾を払うカトリーナを見て、頷いた。
落ち葉を踏むふたりの足音が、夕方の石畳に小さく響く。冬の風はひんやりしているのに、不思議と寒さは気にならなかった。
文具屋の前まで戻ると——扉の横で、カトリーナの母が立っていた。
その手にある、鮮やかなラズベリー色のマフラーに、思わず目を見開いた。カトリーナは手紙に書いていたからだ。見つかったらきっと派手だと文句を言われるから、隠れて編んでいる、と。
「……カトリーナ」
母の手が、冷えた肩を包むように、鮮やかな色をかける。カトリーナは、ほっと力を抜いたように微笑んだ。
その横で扉が軋み、文具屋の温かな灯りが外の冷えた空気ににじむ。ふたりが店の中へ消えていくのを見届けると、胸の奥に静かな熱が残った。
——自分はどうだろう。
あの日、行く場所がなくて外へ飛び出した自分と比べて、少しは前へ進めているだろうか。
すぐに言葉で答えられるほど強くはない。まだ迷うし、怖いままだ。
けれど、診療所での仕事、白いワンピース、アストンの作ったリボン。自分で選んだものが、確かにいくつかあった。
足元で落ち葉がかさりと鳴る。金色の葉が陽に透けて、道の先へと導くように散っていた。
その上をひとつ、またひとつと踏みしめながら歩き出す。
胸の奥に灯った温かさが、冬の午後を、明るく灯してくれるようだった。




