60.ラズベリー色のひとすじ
初冬の朝市は、冷えた空気の中にも、どこか甘い香りが漂っていた。焼き菓子の屋台から漂うバターの匂いが、陽の差すたびにふわりと揺れる。誘惑にかられてつい引き寄せられては我に返るのを繰り返し、足早に目当てのパン屋を探す。
そうしているうちにふと市場の端に馬車を見つけーー昨日の夕方のことを思い出した。
アストンの店の前に馬車が止まっているのを、初めて見たのだ。アストンが御者に何か話して、深々と礼をして見送るまでを、邪魔しないよう遠くから眺めた。大きな車輪とすれ違ったところでようやくそばに寄り、何かと尋ねると、収穫祭の靴を別の街へ持って行ってもらえるのだという。
「港町へ行くらしい。有り難いことだ」
アストン自身も訪れたことのないような、海辺の街に、靴が運ばれてゆく。そこで履かれる姿を空想した。
それは初めてアストラ・ポラリスに足を踏み入れた日、吊られた革を目にしたときの心地と似ていた。手元から離れたものが、知らない場所で、知らない誰かのもとで大切にされ、生活を支えていく。それがどれほど喜ばしいことか。
そうして不意に、ひとりでさまよっていた頃がよみがえりもした。
誰から買ったかも気にしないパンで空腹をしのぎ、どこの誰が織ったかも知らない毛布にくるまり夜を越えた。ひとりだと思っていたあの頃の自分も、実はずっと、誰かの手に支えられていたのだ。
アストンも言っていた。――俺は生かされているんだ、と。
このケープの留め具も、今通り過ぎた屋台の布飾りも、手に下げた買い物袋も。そのひとつひとつの向こう側に、名前も知らない誰かの手がある。いつも自分は、どこかで、誰かとつながっている。
そう思うと、胸の奥で小さな灯がともるようだった。
そんなことを考えながら編み物屋の前を通りかけたとき、ふと足が止まった。鮮やかなラズベリー色の毛糸を手にしている人影が目に入ったのだ。一つに束ねた栗毛と、かすかにそばかすの散った頰。カトリーナだった。白い息をこぼしながら、毛糸の束をじっと見つめている。
「カトリーナ?」
呼びかけると、ぱっと顔が上がる。カラメル色の瞳はほっとしたように笑った。
「おはよう。ティア、来てたんだ。……これ、どう思う?」
差し出された毛糸は、冬の木の実のように鮮やかな赤だった。
「似合うと思うよ。明るくて、元気の出そうな色」
そう答えると、カトリーナは一瞬嬉しそうにした。けれどそのあと、毛糸を胸元に当てながら、少しだけ眉をひそめる。
「そう思うでしょ? でも……お母さんはね、もっと落ち着いた色がいいって言うの。軽すぎるからやめなさいって」
言いながら、指先で毛糸の端をつまむ。迷っている人の仕草だった。
――身につけたいけれど、踏み出せない。その思いには覚えがあった。白いワンピースを胸に当てた初夏の日、自分はソニアに背を押してもらった。それがどれだけの力になったことだろうか。
「好きなら、試してみようよ」
秋に買ったショートパンツが脳裏によみがえる。好きなものを自分で選ぶということは、楽しい。そのものを身につけた自分まで少し好きになれるのだということを、あの日の自分は知ったのだ。
「……いいのかな。似合うって、自分で思ったの初めてなんだけど」
「思ったのなら、やってみたほうがいいよ」
カトリーナは唇をきゅっと結び、数秒だけ考え込んだ。冬の光の中、その横顔が少し大人びて見えた。
「……うん。じゃあこれ、買ってみる。編めるかどうかは怪しいけど……挑戦してみたい」
その言葉に、こちらの頬が自然とゆるんだ。
「いいと思う! きっと素敵なのができるよ」
カトリーナは照れたように笑い、袋を抱え直した。手袋越しに見える指先が、ほんのり震えている。
「ねえティア。また今度、進捗見てくれる? 編み物なんて初めてだから、すぐ挫折しそう」
「もちろん、楽しみにしてる。……実は私も、編み物したことがないんだけど」
そう言うと、カトリーナは安心したようにふっと息をついた。
「ティアって、不思議だよね。手紙を読んでると、なんていうか、心が少し自由になる感じがする」
自身でも少し詩的な言葉だと思ったのか、カトリーナは照れ隠しのように笑った。
「変だよね、朝からこんなこと。ごめん」
「ううん。嬉しい、ありがとう」
そう返しながら、過分な言葉に胸の奥がくすぐられるような、微かに締められるような心地がした。
――自由。そんなふうに見えるのだろうか、と自分の中で小さく響く。
本当は今でも、迷ってばかりだ。進み、好きな人との間を踏み越える勇気もなくて、相手に委ねて、ただ待ってしまっている。
けれど、それでも前より――故郷を飛び出した日よりも、街にいる今の自分の方がずっと、自分の足で選べるようになってきている気がした。アストンの言葉や、ソニアの明るい笑顔や、マルタや先生たちの、変わらず温かい手。さまざまなことが、自分自身で選んだものの輝かしさを教えてくれたのだ。
カトリーナは手を振り、また手紙出すね、と笑って帰っていく。その腕の中に映えるのは、ラズベリー色の毛糸。市場の賑わいに紛れ去る足取りは軽やかで、どこか浮き立つような、弾むようなものだった。
よかった、と、胸の奥にぬくもりが落ちる。
自分がかつてもらった勇気を、今度はほんの少しだけ渡せたのかもしれない。そう思うと、冬の冷たい空気の中でも、不思議と頬がゆるんだ。
初冬の朝、空には小雪の舞いだしそうな曇天が広がっている。それでもあのラズベリー色は、灯火のように、瞼の裏で鮮やかに残り続けた。




