6.アストラ・ポラリス
いつもの夕刻、カウンターの向こうでアストンが手を動かしているあいだ、ティアは今日の出来事を話していた。
始めたばかりのリース作りは存外、すぐには上手く作れなかった。きれいな円ができなかったり、力の加減が難しくて、無理にたわめて蔓を折ってしまったり。だから、練習用にとひとつ、持って帰らせてもらうことにしたのだ。今夜はこれを解いて、編み直してみるつもりだった。
そんな話をするとアストンは、ぽつりと呟いた。
「大変……」
感想ではない。何かを言いさして、止めたような印象だった。
促すのには慣れてきたので、何を言いかけたのか、気になると問い詰めれば、アストンは気まずそうな顔をする。
「ほかに、楽にできる仕事を探してもいいんじゃないかと思っただけだ。が、余計なことだと思って」
なるほど、言いかけて止めた理由がわかった。が、傍で聞いていれば――特に、技術を生活の糧にしているアストンからすれば、そう思うだろう。リース作りを苦労して身に付けたところで、自分はこれで生きていくわけではない。
天井から吊るされた、ライトの明かりを見遣る。
何だかんだと言いながらも、作ること自体が楽しいのはもちろんある。けれど原動力の本質は、きっとそこではない。
仰いだ灯りの光に、遥かな夜空に散る輝きが重なる。
――煌めく星々。どれほど届かなくても焦がれる光。何度膝をついても、手を伸ばすことを諦めないできた。諦めないでいたかった。
「折角やりたいって思ったなら、出来る自分になりたいなって。それだけ」
言葉を切り、作業をしているであろう、カウンターの向こうを見遣る。
そして、鼓動が大きく跳ねる。
アストンの瞳が、こちらを真っ直ぐに捉えていたからだった。
アストンはこちらを見詰めたまま、口を開かない。けれどそれはいつものように、言葉を選んでいる間ではなかった。まるで、思いもよらぬことを聞かされたときのように、ただ固まっていた。
――ガラン、ガランと、遠くで塔の鐘が鳴る。
宵の時刻を――仕事の終わりを、そして家庭の時間の始まりを告げる音。は、とアストンの身体が弾かれたように動く。店じまいの時間だ。
店の前の黒板を片付けようとするのと一緒に、用が済んだティアも外へ出る。近頃はこうして、用事が済んでも、少しだけ話して帰るようになっていた。
遠くでは、開き始めた酒場からの楽器の音。道の角からゆるやかに流れる風に、帰路につく女性たちの笑い声が混じる。薄暮の中を沈みつつある夕陽は紅く、店先の影を長く伸ばしていた。
相変わらず、灯りの入らない星型の電灯を見上げる。その下には、柔らかい夕暮れに溶け込むような、落ち着いた色の看板。刻まれた文字は控えめで、それでいて確かに存在感があった。
――アストラ・ポラリス。
「ポラリスって、星の名前だよね? 革のお店には珍しい感じ」
この辺りは特に、素朴な名前の商店が多いように見える。何の店か想像をしづらい名前なのは、珍しい印象だった。
「……北極星はわかるか」
もちろん知っている。夜空で唯一動かないから、方向の目印になる星。ポラリスの別名だ。
「ポラリスは、旅人の傍に寄り添って、道行きを進ませるものだろう。靴や鞄も同じだからだ。……母親が、つけたんだ」
ティアは、薄暮の空を見上げた。
屋根の影を縫うように、ねぐらへ帰る鳥たちが群れをなして飛んでいく。遠くの通りからは、家路につく人々の足音や、馬車の車輪が石畳を打つ音が微かに届く。風に乗って、夕焼けの橙色と街の匂いが混ざった。
「素敵だね、詩人みたい」
「そうだろう。母親は、女学校を出た人で……」
言葉の端は、風にさらわれたように途切れる。
追うように目で辿れば、視線が絡む。
アストンは、こちらを見詰めていた。わずかに柔らかさを帯びた深緑の瞳の端に、黄昏の光が揺れる。
「同じ色なんだな。夕暮れと、ティアの目は」
唐突な言葉に、心臓が跳ねた。
本来のイヌミー族の瞳はもっと、燃えるような赤なのだけれど、今はそんなことはどうでもよかった。顔を見詰められた恥ずかしさに、目を逸らす。
「夕暮れの色って、寂しい感じがしない?」
誤魔化すように口にしてから、微かに唇を噛む。答えを望んでいるのか、避けているのか、自分でも分からないまま。
暮れかけた空を、鳥たちが線を描いて帰っていく。
「そうだな。……そうかな」
暮れなずむ空は鮮やかな朱から濃紺へと色を変え、輪郭がぼやける。
アストンの横顔もまた、寂しさを肯定しているようでも、否定しているようでもあった。
街の灯りが篝火のようにともり始め、遠くで塔の鐘が緩慢に鳴る。ひとすじの風が石畳を渡り、小石をかすかに転がしていった。
風に揺れる看板を見上げながら、ティアは小さく息を吐いた。導きの星の名を持つ店――そこに答えがあるのかは、まだ、分からないまま。