59.恋の伝書猫
その黒猫にがワンピースの裾に触れたのは、朝市の帰りだった。
猫は街の中でも時々見かけるし、黒猫も――同じ猫なのかどうかはわからないにせよ、何度か遭遇したことはある。呼び寄せて撫でようと試みたこともあったけれど、猫とはそういうものなのか、それとも自分が獣を狩る血だからなのか。残念なことに、まだ触れられたことはない。だから足元まで寄ってこられたのは、その日が初めてだった。
きっと、袋からはみ出た干し肉が原因なのだろう。その証明のように、黒猫の視線はじっと腕に注がれている。
吐いた息はまだ仄かに白く、況や、石畳は氷のようではないだろうか。小走りについてくる肉球は音も立てないが、冷え切ってしまっているだろう。
ちらりと視線をやる。瞳の色と同じ、緑の首輪をつけている。飼い猫なら、勝手に餌をやってはいけないけれど――野良猫のように、後々まで面倒を見なくてはならないということもない。つまりは、一度くらい餌と引き換えに撫でてみても、いいのではないだろうか。
やわらかそうな毛並みを見るうちに、欲望にあっさりと負け、立ち止まる。黒猫はするりと足元へ寄り、身体を擦り付けた。小さな生き物の熱、やわらかな肉と骨の感触。つんと立った小さな鼻が、硝子玉のような瞳とともにこちらへ向けられる。
「ちょっとだけだよ」
端を齧り取って差し出せば、いとも簡単に、その顔が寄った。小さな牙を見せながら、一度、二度と肉片に噛みついて、飲み込んでゆく。そうして名残惜し気に手のひらを舐める間中、もう片手は、つややかな毛並みを、小さな頭を、何度も何度も撫で回した。
かわいい。こんなに小さくて愛らしくて弱そうで、それなのに街の中を探せば野良でもうろついているというのは不思議な心地だった。
そうしてしばらく堪能したところで立ち上がる。またね、と手を振ったが――猫はまだ、ついてくるのだった。
まだ肉があるのだから、よく考えれば当たり前だ。小走りで逃げても、後ろを駆けてくる。とうとう宿の前まで行きついてしまい、迷ってから、さっさと扉を閉めてしまった。出会った場所からは随分と歩いてきてしまったが、家へはちゃんと帰れるのだろうか。
申し訳なさと後悔を抱えながら二階に上がり、そっと窓から覗けば、もう猫の姿は見えなくなっていた。
そんなこともすっかり忘れた夕方。
診療所から帰れば、夕暮れの伸びた影から切り離されたように、その黒い身体はぽつんと座っていた。
「来ちゃったの? お家は?」
問いかけてももちろん、返事はない。そこでふと、猫の足元に紐が落ちていることに気が付いた。ごみならば片付けておかなくてはならない。そうして屈もうとしたところ、先に拾い上げたのは猫の方だった。咥え、こちらに一歩寄り、足元へ再び落とす。
「お肉のお礼……?」
問いかけると、なうん、と一声鳴いたきり、そのまま身を翻して去ってしまった。拾い上げると、端の絡まった毛糸。猫なりの礼なのだろうかと納得をすれば可愛らしく、姿の消えた角――その毛並みに似た色の影を、しばらく、ゆるんだ口元で眺めたのだった。
さて、そこで終わらないのが問題だった。翌日も黒猫がいる。おまけに今度は、鳥の羽を一枚携えて。
狩ってきたのかと一瞬ひやりとしたが、よくよく見れば、羽の先はインクで汚れて潰れている。羽ペンをごみ箱から拾ってきたのか、と安堵が落ちてから、少し戸惑ってしまった。
「ごめんね、今日はお肉、あげられないの」
宿に居候をしている身で、勝手に餌付けをして居着かせるわけにはいかない。しゃがんで撫でようとすれば、緑の瞳はこちらをじっと見詰め、するりと手から擦り抜けた。
諦めてくれたのだろうか――と思ったのが甘い。結局次の日も、猫はせっせと運んでくるのだった。
「あの子、最近よく来てるね」
三日目の夕方、声をかけてくれたのは隣の店の夫人だった。気に入られてるね、と笑いかけられて、曖昧に笑って返す。本当は抱き上げて撫で回したいのだけれど、宿の食堂の前をうろうろとさせるのは良くないのだろうし、何より、首輪つきの猫だ。どう接するのが正解なのかわからなくて、弱ってしまっている。
「貢ぎ物まで持ってきてるじゃない」
茶化すように笑ってくれると、罪悪感が少し薄れて気が楽になる。それでもつい、今日の贈り物を手の中で触り、小さく唸ってしまった。
「そのうち飼い主さんのものを持ってきたらどうしよう、って、ちょっと心配なんですよね……」
「ひょっとしたら飼い主からの貢ぎ物かもよ? 伝書鳩ならず伝書猫ってね」
「ええ、そしたらごみばっかり贈られてるじゃないですか」
猫には宝物かもしれない品々だけれど、人からの贈り物となれば話は別だ。思わず笑うと、いやいや、と首が横に振られる。
「貴族様だって贈り物は従者が選ぶんでしょ。ルナに選ばせてるのかも」
恋の予感だね、と笑って、夫人は落ち葉を掃いてゆく。その言葉よりも――ルナ。
「あの猫、知ってるんですか? どこのお家の子なんですか?」
「おっと」
尋ねれば、芝居めいた仕草で口元を隠される。けれど、面白がっている顔はまったく隠れていない。
「飼い主は恋人のいない男性だよ」
いくら尋ねても、それだけしか教えてくれなかった。別に、出会いなんて求めていないというのに。だって自分には、好きな人が。
――話しかけると逃げちゃうのよ。猫みたい。
いつだったかの、ソニアの言葉がよみがえる。黒い毛並みと深い緑の瞳は尚更、彼によく似ていた。
そう思えば、じっとこちらを見詰めて、そのくせ触れようとすればするすると逃げてしまうところもどこか似ている。猫を撫でたのは結局、最初の日の一度きり。もうすぐ一年が巡りそうだというのに、手を触れたのも――。
まだ触れたことのない、エプロンの紐のかかる広い背が浮かぶ。それから、どうしようもない恥ずかしさが込み上げた。みだりに触れてよい間柄でもないのに、何を考えているのか。ふしだらだ、ばか。顔が熱い。
何に対してかわからない動揺を抱えて、宿の扉を押し開ける。ただいま、と厨房に声をかければ、マルタが顔を出してくれた。
「おかえり。恋の伝書猫だって?」
「聞こえてたんですか……?! あっ、ごめんなさい、猫……」
「いいよいいよ。昔はうちでも飼ってたんだよ」
息子たちが拾ってきてねえ、と笑う朗らかさに、ほっと胸を撫でおろした。今はもういない猫の思い出話を聞くうちに、少しずつ、みっともない速さの鼓動はおさまっていく。
猫か、猫もいいな、と、ひとりで空想を巡らせた。将来は赤い屋根の家に、庭には番犬代わりの小型魔獣。そんな漠然とした夢を持っていたけれど、猫に置き換えてもいいかもしれない。懐かなくてもそばで見ているだけで癒されそうな気がする。
そうして、憧れを膨らませていたものだから――
「じゃあこれ、アストンに持って行ってやってくれるかい」
包みとともに出された名に、先ほどの不埒な思いがよみがえり、どっと頬が熱くなってしまった。ばかばか、自分のばか。
その後飼い主には行きついたのかというと、あっさりと、決着がついてしまった。
恋の伝書猫、などという噂を向かいの家の奥方も知った頃だった。いつものように黒猫が去って行こうとするその角から、少年が飛び出してきたのだった。あどけない顔で、ズボンの裾は縫い上げられているほどの歳の頃。その細い腕は、重そうに猫を抱え上げた。
「ルナ、こんなところにいた! 今日は鶏肉があるんだぞ」
まだ高い声はそう告げて、よいしょよいしょと猫を運んでゆく。その背と、今日も覗きにきていた隣家の夫人を見比べる。飼い主のことを何と言ったか――恋人のいない男性。確かに、ああ、そうだろう。どんな顔をしてしまっていたのか、夫人は笑い出してしまった。
「いやいや、あと十年くらいしたらロマンスになるかもよ?」
どれだけ待つんですか、と返しながらも、何となく少し、安心してしまった。ロマンスなんて、ほかにはなくていい。他の誰の花嫁になっても嫌だと彼が言うかぎり、ほかにはないほうが、いいのだから。
だから翌朝、懲りない黒猫を見つけたとき、屈んで話しかけた。
「もう来ない方がいいよ。あなた、恋の伝書猫なんて言われちゃってるの」
大人たちは冗談で話しているし、正体を知った以上、自分も構わない。けれど少年が聞けばきっと、いい気はしないだろう。噂が本人や、少年の友達の耳に入らないうちに、事を終わらせてしまいたかった。
猫は聞いているのかいないのか、一声鳴いて、するりとまた去っていく。
そうして――その夕方、やはり、宿のそばにいた。困惑しながら寄ると、逃げない。触れられるのだろうか、とそっと手を伸ばすと、手のひらに頭が擦り付けられた。やわらかな耳。あたたかな体温。最初の日ぶりに撫でられた、とどきどきと胸を弾ませていると、黒い身体はさっと離れた。そうしていつもの角で一度だけ振り返り、姿を消した。
残された届け物を拾い上げる。いつものように何かの切れ端――革だ。けれど、見覚えのある色。
思わず、あっと声を上げた。
見覚えがあるどころではない。履いている靴の折り返しに、その革を当てる。同じ色と質感だった。この街の、この近辺で魔獣の革を扱っている店を、自分は一軒しか知らない。
――恋の伝書猫。
黒猫がその言葉を聞いていたのかはわからないし、理解していたとも思えない。
けれど猫は役目を終えたとばかりに、もうそれきり、訪ねてくることはなかった。




