58.ご飯を作りたくない私
文具好きの仲間――カトリーナへの手紙は、朝に少し遠回りをして投函した。その次の日に仕事から帰って来て、宿のポストに封筒を見つけたときの嬉しさといえば。その場でさっと封を切って目を走らせてしまい、今日はアストンのところへは行かないのかい、とおかずの包みを掲げられてしまったほどだった。
そうして新しい彩りが加わり、足取りが前よりももっと軽くなった夕方。アストラ・ポラリスの店頭にも、目新しいものが並んでいることに気が付いた。
髪飾りだった。秋口に一度並べて、しばらく下げていたはずのもの。それも、数も種類も増えている。
「かわいい、また商品に復活したんだ」
いつものように奥で作業をしていたアストンの顔が上がる。その視線は可愛らしい一角に止まり、すいと逸れた。
「商品というか、気晴らしというか……いや、気晴らししている場合ではないんだが……逃げているわけではなくて、ただ、寝る前なんかに手だけ動かしていると落ち着くから……」
要領を得ない話をまとめると、趣味で作ったものの行き場がないので店に並べているらしい。もにゃもにゃと言い訳を重ねていたのはきっと――親睦会のあの帰り道に口にしていた、そう遠くないうちにちゃんと言えると思う、という言葉のせいなのだろう。そんなに慌てずとも、べつに、焦れて怒ったりも呆れたりもしないというのに。
「好きなことができたの、いいと思うよ。すっごく」
以前のように、隙間を埋めるように仕事をし続けるより、ずっと。自分の楽しみのために時間を使えるようになったと思うと純粋に、安堵に似た気持ちが広がった。
目の前の細工をひとつひとつ眺めていく。ピンの一つは、薄い革を花弁のように重ねていて――ふと、自分の髪に手が伸びた。近頃はアストンの作った空色のリボンと、子どもの頃に買った花の髪飾りを日によって変えて使っている。その花飾りに、よく似ていると思った。
真似たのか、それとも単純に、花の形を作るとこうなるものなのか。見比べればアストンの作ったものの方が作りが丁寧だし、色合いもきれいだけれど、それでも自分のピンが色褪せて見えるわけではない。思い出は、今でもなお姿を彩ってくれるのだと思った。
それにしても、愛らしいフリルやビーズとアストンを見比べていると、未だに不思議な心地がしてしまう。ちまちまと細かい作業というのが、没頭しやすくてよいのだろうか。
「忙しいの? 靴の注文、たくさん入ったんだよね」
「ああ、有り難いことだ。あとは地方商館に持っていてもらえるという話だから、その分も作り始めている。そろそろ手袋も売れ出すから、そちらも作らないとな……」
悠長に辞書を引いているどころか、そもそも仕事が大忙しのようだった。道理で、今日はカウンターを越えて来ない筈だ。アストンは、あと、と続けてから溜め息を吐いた。
「年末だから、税金のための書類を用意しないといけないんだよな……計算をして……面倒だから嫌なんだよな……」
珍しい言葉に思わず瞬いてしまった。その一瞬の沈黙をどう受け取ったのか、口元を隠すように手が動く。
「すまない。忘れてくれ」
「アストンも面倒くさいとか思うことあるんだ」
「まあ、あるだろう、それは……」
やるけれども億劫、という気持ちはよく理解できるけれど、アストンにもそんな思いがあるというのは意外なような気がした。ゆるんだ姿を不意に見られたように感じて、つい、少しだけ浮き立ってしまう。
「ほかにもあるの? やりたくないこと」
「あるが、言わない。怠惰だと思われたくない……」
会話を打ち切るように首を振って、目線は手元の革へ戻ってしまった。そのまま、木槌を打つ音だけが響きだす。
何かを聞いたところで今更、怠惰な人間だと認識を改めることはきっとない。新しい一面を知ったとしても、今まで見ていた――生真面目で誠実な部分がなくなることにはならないのだ。
「別に、いいのに」
「……計算事が億劫なのをもし、意外だと思ったのなら、そのままでいてくれた方がいい」
規則正しい音の合間で、小さく声が返った。
真面目だと思われたい、ということなのだろうか。ひょっとすると普段から、意識をして取り繕っているのかもしれなかった。たとえそうだとしても、普段の姿が嘘になるわけではないというのに。
――取り繕う。
ふと、カトリーナに向けて、するりと弱音が出たことがよみがえった。あのとき自分は、アストンにも話せなかったことを何故話せるのだろうかと、不思議な心地でいた。けれどきっと、逆だったのだろう。
アストンは、そして近しい人は自分のことを、前向きで、物事に根気強く取り組めるのだと褒めてくれる。だからこそ、その印象から逸脱した姿を見せたくないと、どこかで思っていたのかもしれない。まだ自分の人柄をこうだと決めていないカトリーナだったからこそ、零せたのだろう。
アストンも同じなのだろうか。失望されたくないと思うのだろうか。
――私を見て、幻滅などしないからもっといろいろな姿を知りたいと思うことが、あるのだろうか。
気付けば言葉の一つが、口からこぼれ出ていた。
「私は、駄目なところも知っていてほしいと思うときがあるな。……全然、言えてないけど」
知っていてほしいなんてどの口が、と自分で思った。海へ出かけたあの日まで、出自のことも、この街へ来る以前のことすらひとつも話さなかったというのに。
「……何故?」
相槌のような言葉が、革を叩き伸ばす音の合間に紛れる。
「なんでかな。怖いのかな」
知っていてほしい理由も、言えない理由も、きっとそうだ。
些細な短所を開示したくらいではきっと見放されはしない、そう理性ではわかっているけれど。磨いて作り上げたものとは違う、決して褒められない姿を見せれば呆れられるのではないか、そのままの自分では駄目なのではないか、愛されないのではないか。その怯えはずっと――幼い頃、兄にこの姿をケープで包んで隠された時から、心の中に居座り続けている。
構わないと言ってほしくて、早く楽になりたくて、知っていてほしい。けれど、見せれば、離れられてしまうのではないかと思うと、言えない。いつだって怖さがまだ、胸の中にあり続けている。
アストンの背で交差するエプロンの紐をぼんやりと眺め、自身の指先をもう片手で包む。そうしてふと、木槌の音が止まっていることに気が付いた。
すっと視線をずらすと、アストンはただ、手元を見詰めている。その瞳が不意に上がり、こちらを向いた。
「鍋を……」
言いさして止め、唇を閉じる。脈絡の読めない単語と、ためらうような瞳の意図が掴めず黙っていれば、言葉が続けられた。
「食生活を……同じものばかり食べていることや、間引くことがあるのをよく心配されるが、食欲がないわけでも、食に興味がないわけでもない。ただ、」
浅く、小さく息が吸われる。振り切るような、もしくは飛び越えるような弾みをつけ、その続きが零された。
「作るのはいいんだが、鍋を洗うのが、面倒で……」
揺れた視線はこちらの表情を捉える。どんな間の抜けた顔をしてしまっていただろうか。アストンは、失言だった、と言わんばかりの顔で俯いた。
「忘れてくれ。何でもない」
その表情に――一拍を置いて、波が満ちるように、熱が込み上げた。
怖くて言えないという自分に、なぜアストンが――取り繕いたいのだと示したばかりの彼がそれを翻したのか。その裏にあるやさしさに、気が付かないはずがなかった。
胸から瞳へとあふれてゆきそうな熱をかみしめ、そっと息を吐く。
毎日のように総菜を器に入れて届けるものだから、毎日のように器は返ってくる。それが綺麗に洗われていない日はなかった。何と言えばいいのだろうか。これからはそのまま返してくれればいい。――違うだろう。
「私はね……人に作るのはいいんだけど、自分の分だけご飯作るの、すっごく億劫なんだ。朝とか、マルタさんが卵を置いておいてくれるんだけど、本当は焼かないでそのまま棚に戻しちゃおうかなって、毎日思ってる」
口元を手で隠すようにして、カウンターの向こうを窺う。アストンはこちらへ視線を戻して、そうか、と短く相槌を打った。
微笑むような声だと、思った。
「だってね、二十分かけて作っても、五分で食べちゃうでしょ」
うん、とも、ううん、とも判別のつかない相槌が返る。ふっと息の零れるような音が作業台に落ち、見遣ると、エプロンのかかった肩が揺れている。――笑っている?
理由がわからず見詰めていれば、やわらかな視線が上がった。
「いや、収穫祭のときも、籠いっぱいに買っていただろう。よく食べるし、いつも食べるのが早いから、作っても自分ではさぞ甲斐がないのだろうと思って」
「あっ……あれは、」
屋台で待っていた二人の分もあって、と反論したものの、それにしても多かったことくらいは充分に自覚をしている。実際、半分ほどを一人で食べてしまった。思い返せば二人で遠出をしたときだって、憚らずにあちらこちらで買い食いをしてしまった。
頬が熱くなる。その理由は何よりも、アストンがそのことを、微笑ましそうな瞳で語るからだった。
「いいんじゃないか。あれだけ美味そうに食べてくれれば、作る方はさぞ甲斐があるだろうな」
「そっ……じゃあ、私がお鍋洗うから、アストンがご飯作ってよ」
「俺がか? そうだな、洗ってくれるのなら、何でも」
朝食でも昼食でも夕食でも機会があれば、と笑う。どんな機会だろうかと不意に赤くなってから、すでに三食とも共にしたことがあることを思い出して、妙に恥ずかしくなった。
喉の奥で低く転がるような笑い声が珍しくて、こんな時でも、ぽうっとして聞き惚れてしまう。でも今は頬が朱色になってしまっても大丈夫だろう。食い意地が張っているのを知られて恥ずかしがっているのだと、きっと、誤解をしてくれる。
じゃれるような応酬を終えて、木槌の音がまたゆっくりと響き出す。混じる風の音にふと窓を見遣れば、下り始めた夜のとばりに、星が縫い留められ始めていた。
いつかの雨の明け方、アストンの寝室で、望む練習をしようと手を引いたように。今日の自分は、情けなさの欠片を差し出す練習へ、手を引いてもらったのだと感じた。
夕刻の鐘はもうじき鳴る。縫い直された革手袋をはめると、あたたかな温もりに包まれる。
胸の奥の鍵を僅かに回した音を、アストンは聞き逃さずにいてくれた。今日、その奥に隠していたものは些細なものだったけれど――次の錠前にも触れられる日が、いつかきっと、来るだろう。
そうと知られないように、右薬指へ頬を寄せる。今でも手袋をはめるたびに、歩み寄ってくれた診療所からの帰路を思い返しては熱を持つ、一節。いつだって自分はアストンから、やさしさを、大切に注いでもらっている。
店内には規則正しい木槌の音が満ちる。少し早いその調子は、自分の鼓動の速さに、よく似ていた。




