57.便箋の城
親睦会の夜の次の日は、アストンにどんな顔をして会えばよいのかということで頭がいっぱいになってしまった。
それで煎じ薬の火加減を間違えて呆れられたし、ケープを羽織らないまま帰ろうとしてしまった。そして極めつけには。
一旦宿に帰ってから惣菜を届けに行けば、アストンは珍しくすぐ袋の中を覗いて、包みからわざわざ器を取り出して袋の中を再度改め、また器を戻した。何をしているのだろうと眺めていると、アストンの視線がちらりと一瞬、こちらの顔を掠める。そうしてもの言いたげな間を空けた後、結局何も言わず、作業机に戻って行った。
「……あっ、辞書!」
あの帰路で豪語しておきながら、自分の方が持ってくるのを忘れてしまったのだった。口元に手を当てれば、俯いたままのアストンの横顔がじわりと赤くなっていく。
「違うの、忘れてたわけじゃなくって、ぼーっとしてたら習慣で鞄置いてきちゃって! ……取ってくる!」
顔が熱くなる。椅子から飛び降りて駆けようとすれば、慌てた声に引き止められた。いつでもいい、急がないから、と重ねられて、すごすごと座席に戻るのがまた恥ずかしい。
勇み足で行きかけたのを止められたからではない。
――ちゃんと覚えてくれていたし、進もうとしてくれていた。
そのことが、身に染みたからだった。
いいことは、そのほかにもあったのだ。
親睦会で同じ机だった女の子の一人はひとつ歳下で、カトリーナといった。
「実はね、お父さんが行けってうるさいから来ただけなの」
だから今はあんまり男の人と仲良くなりたいわけじゃない、と言うので話を聞いていると、文具屋の娘だと言う。この街に来てからはずっと、文具は本屋の片隅でしか見たことがなかったのだ。素朴で実務的なものしか見当たらないのを寂しく思っていたものだから、つい前のめりになって話を聞いてしまった。
「模様の入った便箋も、青いインクも、絵の入ったノートもあるよ! いつでも来てよ」
そうして教えてもらった店は、工房ばかりが立ち並んでいると思い込んでいた通りにあったのだった。
文具店の木枠の扉を押すと、鐘の涼やかな音が転がった。
ふわりと鼻先をくすぐったのは、紙の匂いに花の香油がほんの少し混ざったような、どこか懐かしい香り。
「いらっしゃい……あっ、ティア!」
店内中央の大きなテーブルにいたカトリーナが、ぱっと顔を上げて手を振ってくれた。親睦会で話が弾んだときと同じ、小鳥のように控えめで、それでいて嬉しさが滲む笑顔だった。
「こんにちは。文具、見たくって」
答えながら、つい視線は棚へ引き寄せられてしまう。レースのカーテンを透かした陽光が柔らかく落ち、白木の棚に並ぶスタンプを輝かせていた。
「ゆっくり見ていって。試し書きもできるよ」
案内をするように、その手がひらひらと揺れる。カトリーナの手元を見遣ると、並んでいるのはペン先だろうか。いくつものインク壺と、紙束も揃えられている。見て行って、との言葉に甘えて、まずは彩りの見える棚へ寄った。
並んでいるのは、便箋だった。淡い水色の縁取りの紙、苺の蔓が描かれた紙。鮮やかな模様のレターセット。その隣には、飴のような細い棒がつややかに並んでいた。少し透き通った赤、青を眺めてから、何だろうかと首をかしげる。ふと顔を上げると、星や花の刻まれた真鍮の印章が目に入り――封蝋だ、と気が付いた。
いつも見ている白い蝋燭とはまるで違う、愛らしくて、上品な色。これを封筒に一滴垂らすだけで、どれほど素敵な手紙に見えるだろう。
書くあてもないのについ夢が広がり、愛らしい文具の世界に胸がときめく。こんな場所があったなんて、もっともっと早く知ることができていればよかった。
「素敵、すっごくかわいい……」
「でしょ、私も便箋見るの大好き。ノートも可愛いのあるんだよ」
来て来て、と嬉しそうに手招きをしてくれるのに呼ばれて行けば、こちらにも繊細な紙が広がっていた。表紙の隅には花の絵。開いてもらったノートの罫線は、墨色ではなくて薄い青。今まで買っていた白くて四角い紙とはまるで違い、くらくらと酔ってしまいそうだった。
ノートなら使うから、買ってしまおうか。
「嬉しいな、ずっとハルト書房で買ってたの。こんなにかわいいの、あったんだ……」
見慣れた本屋の一角の、小さく素朴な文具コーナーがよみがえる。今まで不便を感じたことはなかったけれど、もう行くことはないだろうと思った。
「ティアの家ってタンナー通りの粉屋の方だよね? ハルト書房よりうちの方が近くない?」
「私、今年の春にここに来たばっかりで……今いるところも、家じゃなくて、宿なんだ」
「えっ?! 家族は?」
どこまで教えるか迷って、ひとりで来たよ、とだけ笑って返す。カトリーナが首をかしげるたび、後ろで一つに結ばれた髪が小さく揺れた。
「仕事で引っ越ししてきたってこと?」
「んー……転々と旅をしてきて……」
「ひとりで?! 危なくないの?!」
新鮮な反応に、つい笑ってしまう。大丈夫、と定型句を口にしようとして――カトリーナの素直さについ、するりと、違う言葉が出た。
「危なかったよ。夜に森を通ろうとしたら、野盗にも遭ったし」
「えーっ! どうしたの?」
「走って逃げきったよ。でも嫌なこといっぱい言われて、むかむかしてたら魔獣に嚙みつかれちゃって」
えーっ、とまた声を上げて、アーモンド色の瞳が丸くなる。どんな大きさの、と問われたので、両手を中型犬ほどの大きさに広げる。カトリーナは両手で口元を覆った。
「痛くない?!」
その言葉にふと、手が右腕を庇った。もう痛みどころか、傷跡のひとつもない。痕跡はきれいに消えたけれど、それでも、ふっと笑うような息が零れた。
「痛かったよー。血も出たし、雨だったから寒かったし、死ぬかと思っちゃった」
アストンには話したことのない――話せない言葉が、自然とあふれる。
不思議な心地だった。この街に来てからの間、アストンから、さまざまな人から、これまで転んでも立ち上がり駆けてきたことに意味を見つけてもらった。それは間違いなく、自分の生きる方向を定めて、これまでの道行きにも光を与えてくれたけれど。
一方で、転んだときの痛さ――違う、不愉快さや気怠さ、そんなものを話せることもあるのだと、ようやっと知ったような気がした。
苦労話としてひけらかしても、愚痴のように零しても。気遣われすぎることなく、ただ驚いて、面白がって、楽しんでくれる。そのことがじわりと、胸の奥にあたたかく染みた。
思考を引き戻すように、柱時計が大きな音を立てる。
カトリーナははっと時計を仰ぎ、いけない、と声を上げた。
「約束してたお客さんが来るの。もっとティアの話聞きたいのに」
奥にお母さんもいるからゆっくり見て行って、と続けながらも、まだ立ち去らない。しがみつくような視線はまるで、先ほどの言葉をそのまま表してくれているようだった。
また来るよ、と言いかけてから、別の考えが浮かぶ。
思いついておきながら、一拍遅れて心臓が跳ねた。
提案を口にしてよいだろうか。妙だと思われないだろうか。一瞬のうちに逡巡が駆けめぐり、視線が落ちる。そこには、折り返し色の鮮やかなブーツがあった。
この靴をめぐって自分は、誰かと繋がることへの推進力を得た。
けれどその相手は、ただ一人の、愛したい人だけではない。今この瞬間、カトリーナだってそうだ。
繋がりたい。ならば、今まで無意識に引っ込めていた手を伸ばして、踏み出さなくてはならない。思いついた言葉が姿を隠してしまう前に、小さく息を吸った。
「私も、カトリーナのこと知りたい。――よかったら、手紙書いても、いい?」
言った。言ってしまった。
痛いほどに打つ鼓動のまま顔を上げる。けれど苦しいほどの不安はすぐに、目の前で咲いた笑顔が消し飛ばしてくれた。
「ほんとに?! 嬉しい、待ってる!」
言うなり、カトリーナはこちらの手を取った。その指先の温度と跳ねる声が、じわりとあたたかく伝わってくる。
ちょうどそのとき、入口で小さな鐘が鳴った。振り向くと、帽子を目深にかぶった若い男性が店に入ってくる。カトリーナははっと手を離し、背筋を伸ばした。
お待ちしていました、と応える声は、店員のものに変わっている。けれど、去り際にふとこちらへ向けられた笑みは、先ほどまでの弾む声をそのまま残していて、胸の奥がまた少しだけ熱くなった。
胸の鼓動はまだ落ち着かないけれど、心地よい速さだった。
少し熱くなった頬のまま棚を眺めれば、先ほどまではただ可愛いと思っていた便箋に、今は違う輝きが重なって見える。
――この中のどれかが、最初の一通になる。
そう浮かべるだけで、指先が震えるほどにくすぐったくなった。
返事をくれるだろうか。カトリーナの話だってたくさん聞きたいのだ。青い便箋と緑の便箋のどちらがより可愛いと思うか、そんな些細でくだらなくて楽しいことさえ、話してみたい。
宝石箱のような棚の前で頭を悩ませながら、一枚、一枚と紙を手に取る。
これからこの便箋から紡がれるであろう日々に思いを馳せれば、また、胸が軽くなるように感じた。




