55.ずっと見ていて
人の波にもまれながら歩くうち、足元がふわふわとして、自分の歩幅がどれくらいなのかさえわからなくなる。
隣を歩くアストンは、いつもより歩幅が小さい。そのリズムにつられて、自分の呼吸まで浅くなる。唾を飲み込んで初めて、喉が乾いていることに気が付いた。
もうすぐだ。逃げる余地なんてどこにもないことだけが、妙にはっきり胸に落ちてくる。どうしよう、どうしようもない、という反復だけが、頭の中に渦巻いていく。
発表の場に着くと、見慣れた広場はまるで別の場所のように見えた。木枠のステージの前に集まった人だかりの熱気が、胸を押してくるようで、呼吸がひとつ浅くなる。誰もが同じ一点を見つめ、息を潜めている。その空気に触れるだけで、脈が跳ねた。
アストンもまた、無言のまま視線を上げる。その横顔を見るだけで、胸の奥がきゅっと縮んだ。自分の鼓動だけが勝手に動いて、困り果てる。
さっきまで飲食部門の結果を読み上げていた、どこか人懐っこい笑顔の男性が、拍手に送られて台を降りていく。入れ替わるように、職人然とした壮年の男たちが、静かに上がっていった。
彼らの名前を自分は知らない。けれど、三人の職人が並んだだけで、空気が少し重くなった気がする。大きな工房の匂いをそのまままとってきたような佇まいに、思わず背筋が伸びた。街の祭りにすぎない品評会であるはずなのに、荘厳さに緊張が這い上がり、足首を掴まれる。
司会役の青年が、場のざわめきが静まるのを待ってから声を張った。
「ただいまより、制作部門の表彰を行います。まずは、佳作の発表です」
観客のどこかから、小さな息のひとつが吸い込まれたような気配がした。
呼ばれるかもしれない。呼ばれなければ、それは――胸がすっと凍る。
思わずアストンの手元を盗み見る。拳が、ごく小さく握られていた。その指先の白さに胸が縮む。思わず、両手の指先を前で組んだ。
「佳作――
《グラント金属店・星屑の栓抜き》
《グラス工房ブルーム・朝霧のインク瓶》
《ウッドリーフ・折りたたみ椅子》」
ひとつ名が呼ばれるたび、ぽつぽつと拍手が広がり、それがまたすぐに吸い込まれていく。
木製品、金属細工、布物――幅広い品々が並び、そのたび心が上下に揺さぶられるのを感じた。
「 《リーフページ堂・一週間日記帳》
《クレイポット工房・色変わりのマグ》
《アス」
鼓動が大きく跳ねる。
「《アスターランプ・揺れる卓上ランプ》」
《ウォーカーズ・しずく型靴べら》」
まだ、アストラ・ポラリスの名は呼ばれない。
もちろん、佳作に入らなかったからといって落選ではない。逆に、この先の上位賞への期待が開けるとも言える。
けれど、その安堵のすぐ隣で別の声が首をもたげた。ここから先の賞に入るほどのものだと、他の人は、本当に。
期待なのか不安なのか、境目がわからなくなってくる。胸の奥がそわそわとして、落ち着く場所をなくしたようだった。鼓動だけがひとりでに速さを変え、呼吸は落ち着こうと静かに沈む。そのちぐはぐさが、かえって身体の奥底をざわつかせた。
司会の声が続く。
「 《インクレーン文具店・手のひら定規セット》
《フォレストエコー・景色が変わる万華鏡》」
次々と呼ばれる名前の響きが、遠い場所から波のように押し寄せては引いていく。佳作の枠が埋まるたび、人々の拍手が波のように押しては引き、ひとつのざわめきとなって空気を震わせる。
まだ呼ばれない。まだ――。
その二文字だけが胸の奥で何度も跳ねて、息まで揺らした。
そして――
「 《ブルータイド染店・風を集めるスカーフ》
……以上をもちまして、佳作の発表を終了します」
その瞬間、世界が、一枚の膜をふとかぶせられたように静かになった。
胸が細く締まる。いつの間にか滲んでいた汗を、冬に近い夕風が冷やしてゆく。隣でアストンが僅かに息を呑む気配が、肌へと伝わった。それが、胸の奥に落ちる石のように重く響く。
熱が背筋をすっと上り、耳の奥がやけに静かになった。
周囲のざわめきが形を変えていく。職人たちが前へと詰め、観客の間に静かな期待が漂いはじめる。風に揺れる布飾りが、ちり、と軽い音を立てた。そんな小さな音まで胸に響いてしまうほど、緊張しているのだと感じた。
――次だ。
言葉にならない声が、心臓の鼓動と一緒に波打った。ここからが本当に、選ばれるかどうかの場所になる。
アストンの指先は、ジャケットの裾を握ったまま止まっている。その手の震えが自分のもののように感じられて、小さく息を吸った。その一呼吸だけで全身が音を立てるほどに、緊張しているのだと悟る。
司会の青年が一枚の紙を持ち替え、わずかに息を整えた。その気配に、ざわついていたステージ前の空気がするりと収まる。鼓動が、また騒ぎはじめた気がした。
「――それでは続いて、特賞の発表に移ります」
そのひと言が落ちた瞬間、胸の奥が跳ねた。
隣でアストンが微かに息をのむ。肩越しに伝わってくる気配は、声にはならないほど小さな震えを含んでいた。その震えが、まるで自分のもののように胸へ広がっていく。
「本年度、際立った発想と、堅実な技術力の両面で高い評価を得た作品……」
会場のざわめきが、波が引くように静まる。風まで息を潜めているようで、その静寂が、ことさらに胸を締めつけた。呼吸を忘れていることに、遅れて気づく。
横顔を盗み見れば、眉間に寄った皺、噛みしめられた奥歯、固く握られた拳。期待と恐れが同じ線の上で揺れているのが見て取れた。
喉が乾く。
お願い、どうか――と言葉にならない声が胸に浮かぶ。
司会の声が、空気そのものをそっと押し出すように響いた。
「特賞は――」
一拍。
二拍。
耳鳴りのような沈黙が、世界を覆う。
「――《アストラ・ポラリス》 ファミリーワークブーツ!」
瞬間、世界が音を取り戻した。
どっと湧きあがる拍手と歓声。風鈴のように散る歓声が重なり、胸の奥の何かを一気に押し流す。
はっと息を吐いた。
強く、深く。肺の奥からずっと張りつめていた緊張がほどけていき、熱が胸一面に広がる。
横を見ると、アストンは呆けたように目を瞬いたあと、わずかに唇を開いた。その頬に、ゆっくりと色が差していく。
自分の心臓の鼓動が、彼の鼓動と重なるように響いている気がした。
――届いたんだ。
その事実が、遅れて胸に落ちてきて、熱がさらに広がった。
足元がふわりと軽くなる。周囲の拍手が、遠い雨音みたいに聞こえる。
壇上の審査員のひとりが、穏やかな笑みを浮かべて前へ出た。
「美術的な打撃力は大賞・準大賞に譲りますが……」
低く落ち着いた声が、会場のざわめきを静かに押し返す。
「この作品には、日常に潜む美しさがあります。家族靴でステッチパターンを揃えるという発想は、装飾ではなく物語に足を置いたデザイン。日用品であることを生かし、暮らしの中で育っていく美しさがあると感じました」
何かを話しているけれど、ほとんど頭に入ってこない。アストンの作ったものが誰かに褒められているという事実だけが胸に落ちて、ぎゅっと心臓を掴んだ。
別の審査員が続いて言葉を添える。
「内側の縫い目が非常に整っている。展示品はどれも外側は丁寧だが――ここまで内側が揺れていないのは、普段からの仕事を物語っている。誠実さの積み重ねは必ず商品に出る。これからも丁寧な仕事と、一層の修練を続けて欲しい」
言葉のひとつひとつが、まるでアストンの背中に置かれた温かな手のように聞こえた。喉から、静かに息が落ちる。
司会が手をあげるのに合わせ、拍手が再び、どっと会場に広がった。
その音の波を受けるたびに、胸の奥が温かく震える。
アストンははっとしたように、こちらを見下ろした。驚きと、嬉しさと、まだ追いつかない実感の混ざった瞳。自然と笑みが零れた。
「アストン、行って。ほら、特賞だよ」
かすかに息を吸い込んで、彼は人の波を縫うようにして壇へ向かった。その背中がゆっくりと光のほうへ進んでいく。
拍手が彼を包み込み、自分の胸にも、また熱が広がっていった。
アストンが壇を降りるころには、飲食部門と制作部門すべての発表が終わり、会場にはほっと息をつくようなざわめきが広がっていた。
拍手の名残がまだ空気に震えていて、熱のかけらが頬に触れるたび、胸の奥がまたじんとする。
「アストン!」
手を振ると、彼は人波を抜けながらこちらへ戻ってきた。緊張の名残りがわずかに肩に残っているのに、その顔はどこか晴れやかで、いつもより少しだけ息を弾ませている。その姿を視界に収めるだけで、胸のあたりがまた熱を帯びた。
「おめでとう!」
言葉にした途端、やっと自分の実感も追いついてきて、笑いがこぼれそうになる。瞬間、アストンの表情もふっとほどけた。
「……ありがとう。ティアがいてくれたおかげだ」
柔らかい声だった。その一言で、胸に灯がともる。普段は控えめな笑みが、今日は木漏れ日のようにやわらかくて、光を含んでいた。
「次は大賞を目指す。――これからも、そばで見ていて欲しい」
胸の奥で、先程よりもずっと大きな音が跳ねた。
きっと、深い意味なんてない。今までと同じように、親しく喋って、時折試作に付き合って、ただそれだけの話なのだろう。そう頭ではわかっているのに、心臓だけが言うことを聞かない。どうやって落ち着いていたのか、すっかり忘れてしまったみたいに、うるさいほど忙しなく動き続けている。
「うん、もちろん……」
答えながら、声が少し震えているのがわかった。アストンは気づいたのか気づかないのか、ほっとしたように目を細め、軽く息を吐いた。その仕草ひとつまで眩しく見えて、胸の中の熱を押さえきれず、そっと指先を握りしめた。
周囲ではすでに次の準備に向けて人々が動き出し、歓声もざわめきも遠のいていく。けれどアストンとの間にだけはしばらく、あたたかな熱が残っているような心地がした。
アストンと別れた後は、胸にまだ残る熱を抱えたまま、自分の屋台へ戻った。
人波は徐々にほどけ、祭りの熱がゆっくりと日常へ戻っていく。夕方の風が、熱くなっていた頬をそっと撫でた。マルタはもう片付けを始めていて、籠をまとめながら言った。
「ティアちゃん、アストンは今夜どうするんだい? こんな日だよ、一人で食べることはないと思ってね。何もないなら、うちに呼ぼうかと思うんだけど」
道具を拭きながら、笑って返す。
「このあと、若い職人さんたちの親睦会があるらしくて。酒場を貸し切って、いろんな工房の人が集まるそうで……さっきジョルジョさんに誘われてて、行くみたいです」
「おお、そりゃいい話だね。誰かと話す気力があるなら何よりだ。ティアちゃんは行かないのかい?」
「私も誘われたんですけど……」
紐を結びながら、少し困ったように笑った。
「男性の職人さんばっかりだったら、気まずいなあって……。女性もいれば行ってみたいんですけど」
「そんなに気にすることはないと思うけどねえ」
マルタが肩をすくめて笑った。
その柔らかな声が小屋の屋根に吸い込まれていくように響いたとき――ティア、と。明るい声が夕暮れを切り裂いた。
はっと顔を上げれば、傾く陽の色をそのまま映したような赤毛が揺れている。ソニアが屋台の間をぬうように駆けてきて、ぱっと手を振ってくれた。頬は興奮でほんのりと染まっている。
「ここにいた!」
息を弾ませながら駆け寄ってくる友人に、こちらも笑顔で手を振り返す。
「見てたよ! アストンくん、やったね! 今日は一緒じゃないの?」
今日は、という響きが、言外にいつもは一緒だと言われているようで少し気恥ずかしい。畳んだ布を胸元で揃えながら、何気なく笑い返した。
「これから親睦会があるんだって。商工会の人が若い人を集めてやるらしいの」
「えっ?」
ソニアが目を丸くしたので、首をかしげた。アストンが同年代の人と話しているところは自分もあまり見たことがないけれど、ソニアから見てもそんなに意外だっただろうか。
「グラスベル酒場? 行っちゃったの?!」
「えっ、うん、ほかの工房の話を聞けるかもって、張り切ってたけど……」
「ああ、そういう……行っちゃったんだ……」
ソニアは額に手を当てている。何か良くない集まりなのだろうか。もしくは、危ない場所なのだろうか。商工会が主催するのならば怪しいものではないと信じ込んでいたというのに。
不安が押し寄せたのが顔に出たのか、ソニアはぱっと顔を上げた。
「あれ、恋人探しの会だよ……?!」
ねぐらへ帰ろうと渡る鳥の声が、間を通り抜ける。
「……え?!」
手の中で畳みかけた布が、ぱさり、と静かに落ちた。
夕風だけが妙に涼しい。
胸の奥で、今さらになって跳ねた鼓動だけが、自分のものではないみたいに大きく聞こえた。




