54.祈り満ちる夕刻
午後の日差しが傾きはじめたころ、広場の奥へと続く道は、昼とはまた違う熱気に満ちていた。
ティアが人の往来の中に混ざりながら歩を進めると、布張りの大きなテントが視界に入る。そこが品評会の展示会場だ。胸の奥で、期待と緊張がせめぎ合った。
「一人一枚だよ! はい、投票券ね」
入り口で渡された紙を握り締め、中に足を踏み入れる。瞬間、影の涼やかさと、木や金属の匂いが肌に触れる。
ずらりと並ぶ棚や台の上には、素朴な木製スプーンや、手のひらに馴染みそうな子どものおもちゃ。そこまでは親しみやすかったけれど、次の一角に近づいた途端、思わず息を飲んだ。
細かな装飾を施した留め具やブローチは金属が光を返し、細工のひとつひとつが浮き立つようにきらめいている。その隣では、艶やかな木目に複雑な彫りが施された振り子時計が、存在を放っていた。まるで職人の技そのものが、そこに控えているかのように。
観客として見惚れる一方で、その完璧さに気圧され、不安が揺れた。
――この中に並んで、本当に。
心の中に靄がかかり、次の一歩の踏み出し方を忘れる。
そのときだった。
「私これにしよっかな。焦げない鍋だってさ」
「地味じゃない?」
「でもほら、券に書いてるよ。あなたが一番欲しいものに入れてって」
ざわめきの一つとして通り過ぎかけた言葉に耳が引かれ、思わず振り向く。
女性たちは投票券を見比べている。はっとして、いつしか握り締めていた紙を広げる。そこにはこう記されていた。
――一番の技術力、一番の発想力で創られた、あなたが一番欲しいものに、一票を。
ここにきてようやく、この品評会の意図に気が付いたような心地がした。
これはただ技巧の高さを比べるためだけのものではない。芸術作品の品評会ではないのだ。
製品は、人が使うもの。誰かの生活に入って行くものとして、どれだけ新しい価値を生み出せるかが、問われている。
投票券の文字を追うほどに、胸の奥の霧が静かに晴れていくのを感じた。
装飾品の列を抜け、棚の陰を覗き込み、通りをひとつ曲がる。その先で――目が留まった。
艶のある、三足の靴が、並べて置かれている。
柔らかな陽を受け、愛らしい飾りの光る子ども靴。その横には、深い色みの紳士靴と、折り返しの鮮やかな婦人靴。
そうして、手書きのカードが添えられていた。
――忙しない日でも心は家族とともに歩けるように。履き口に揃いの色糸を使用した、日常に寄り添う靴。丈夫で毎日履ける、けれどいつもの一歩に彩りを。
アストラ・ポラリスの扉の前で毎日見る黒板と同じ、少し角ばった、几帳面な字。
袖を引かれたように立ち尽くし、熱い胸から零れた息を、そっと吐く。それぞれの靴が歩いてゆく未来の風景までが、ふと目に浮かぶ気がした。
このあたたかさを、きっと誰かが受け取ってくれる。
投票箱の前に立つと、指の中の紙がわずかに震えた。それでも自分の気持ちを見失わないように、票を落とす。
ずっと見てきた、好きな人の作品だから投票するのではない。展示品をすべて見て回った上で――自分が誰かと家庭を持つという、あたたかな夢に触れさせてくれたのは、この靴だけだと思ったのだった。
テントの外に出た瞬間、午後の日差しが胸のあたりを柔らかく照らした。
発表までは、もう少し。広場には、夕方の影がゆっくりと伸びはじめていた。
四時に近づくにつれ、広場の光がゆっくりと傾いていった。
昼どきの喧騒が嘘のように、飲食ブースの前も、ひと息つけるほどに人の流れが落ち着いてくる。とはいえ、完全に客足が途絶えたわけではない。酒を売る出店の前では、今日最後の一杯を楽しむ客たちの笑い声が漂っていた。
周囲を見回すと、他の店舗の人たちが、ちらほらと屋台の奥から姿を消し始めている。
そろそろ発表らしいぞ、飲食部門からだってよ――と、小声が行き交う。人の流れが、広場中央の仮設ステージの方へと緩やかに向かいはじめていた。
胸が落ち着かない。制作部門の発表までは胃が縮まったままだ。そのとき不意に、肩を軽くつつかれた。見上げれば、マルタが微笑んでいる。
「見てきたらどうだい?」
「でも、制作部門はまだですよね? 今から行ったら、緊張で倒れそうで……」
そう言うと、マルタは笑い声を漏らした。
「サンドイッチを出したのは誰だい? 自分の結果は見に行かなくていいのかい」
あっ、と思わず目を瞬いた。そういえば、自分のサンドイッチも品評対象なのだった。アストンの靴のことで頭がいっぱいで、すっかり意識の外に追いやっていたらしい。
行ってきます、と声かけてブースを抜ける。
夕方の風が広場の布飾りを揺らし、食品の香に混じって、色づく木々の匂いを連れてきた。
制作品のテントのすき間を縫うように歩いていくと、午後の陽に温められた木の匂いがゆるく漂ってきた。人いきれのざわめきに混じって、遠くの広場から拡声筒を通した声が微かに届く。
――これなら、アストンの店先からでも聞こえそうだ。
胸の奥のさざめきを押さえつつ、革製品が几帳面に並んでいるあの場所へ戻った。すでに客足はまばらで、アストンも暇そうにステージの方を見遣っている。近づくと顔が上がり、少しだけ、安堵のような表情を見せた。
挨拶の後、飲食部門の佳作発表が始まる。
「《ミルキーハウス・燻製チーズ》
《東部農園・秋野菜のパウンドケーキ》」
自分の名前は呼ばれないだろうという予感はすでにあったが、それは自然なことに思えた。周りにはもっと手のかけられた料理も、彩りの鮮やかなものもたくさんあった。それに何より、サンドイッチの対価はもう、十分に貰っている。
「《トミー精肉店・四種のハーブのソーセージ》」
その名前を聞いた瞬間、ぱっと顔を上げる。
「今の! さっき買ったところだよね!」
昼間に買ったソーセージには、自分も投票をした。選んだ味が評価されたことが嬉しくて、胸の中が一気に温かく満ちてくる。隣の屋台の男性にも目くばせをすると、いい鼻してんなあ、と笑顔が帰ってきた。
ただ、次々と呼ばれる店の名前が思った以上に覚えにくい。カフェの名前、食堂の名前、魚屋や果物屋。聞いたそばから零れ落ちていく。
「ああ、せっかくなのに……あれ、なんだっけ……?」
眉を寄せていると、隣のアストンがふっと笑った。
「使うか?」
差し出されたのは小さな紙片と、使い込まれた鉛筆。
お礼を言って慌てて書き留めながら、聞き漏らした店名を時々小声で尋ねる。
けれど、佳作の発表が終わるにつれ、周囲の空気がざわざわと色づいてきた。観衆が前へ詰めかけ、ざわめきが波のように押し寄せてくる。拡声器の声は遠くで揺らぎ、聞き取りにくくなる。
本来なら、このあとに続く上位賞の発表は、もっと胸を高鳴らせる瞬間なのかもしれない。けれど、心を締めつけているのは別のこと――制作部門の発表が近づいてきている、という事実だった。
紙と鉛筆を握る手が、汗ばんでくる。
声はまだ飲食部門を読み上げているはずであるのに、胸の鼓動はもう次の舞台へ向かって進み始めていた。
書き留めた受賞店の名を確かめるふりをして、観衆のざわめきに耳を澄ます。声の波は一瞬静まり、続いて大きなどよめきと歓声。まずは特賞から発表され始めたのだろう。風で一斉に舞い上がった木の葉のような声たちが次第に落ち着いてゆくのは、講評がなされているのかもしれない。その証明のように、ややあってから再び、遠くで歓声が弾けた。拍手が風に乗り、届く。――準大賞。
喉が渇き、自分の心臓のありかを知る。早く結果を知りたかったはずであったのに、まだいつまでも、今の発表が続いていればよいと思った。
その願いを裏切るように、ひときわ大きな歓声が上がる。大賞の発表を盛り上げるように、笛の音が拍手の間を縫い上げる。屋台の布屋根の向こうでの盛り上がりを、どこか遠い世界のように見遣ったときだった。
周囲の空気の密度が、じわりと増した。
肌に触れた緊張感に、周囲を見渡す。人が少しずつステージへと集まるのは、これまでと変わりがない。けれど――その人々は、制作品テントから抜けてゆく職人、あるいはその家族であった。大きな川が向きを変え始めた前触れのように、人の流れが動き出す。
革製品が並ぶ台に目を落とし、アストンを振り返った。
「アストン。私、お店番してるから、行ってきて」
アストンは、一度だけ礼を告げて頷いたけれど、椅子から立ち上がりはしなかった。足元を見る視線は微妙に逸れていて、落ち着かない呼吸の気配が伝わってくる。
自身の震える手を握りこみ、再び声をかけようとしたとき――声は、隣の屋台からかかった。
「俺が見ててやる。二人で聞いてこい」
金物屋の主人だった。アストンの顔が、弾かれたように上がる。深く礼を告げるその声に、微かに震えが混じっていることには、気が付いていない素振りをした。
指先が冷たい。胸の奥に、静かな緊張が染みていく。
人々のざわめきが、波ではなく潮の満ち引きのようにゆっくりと膨らんでいく。
アストンの隣に立つと、彼の肩越しに落ちる影がわずかに震えているのがわかった。
自分の呼吸も浅くなる。発表はすぐそこまで来ている。
もう戻れない。そんな気配だけが、夕方の空気の底に澱のように沈んでいた。




