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53.買う/買われる収穫祭

 朝の空気はひんやりとしているのに、胸の内側だけがそわそわと熱を帯びていた。

 ティアのサンドイッチ、そしてマルタの焼き菓子を乗せた荷車が広場に近づくにつれ、布を張る音や杭を打つ乾いた響き、どこかの店から立つ湯気の匂いが混じりあってきた。

「早いな、もう半分ほど集まってるぜ」

 荷車を引いてくれていた、マルタの夫――エドガーのひと言に前を見る。準備が進む広場は、薄い光の中でゆっくりと目を覚ましているようだった。


 広場に入ると、音の密度がぐっと増した。店ごとに並べられる木箱、甘い匂いをまき散らす菓子鍋、そして走り回る子どもたち。賑やかなのに、どこかあたたかい。収穫祭という名にふさわしい朝だった。

 荷車を止めて準備を始めると、マルタのクッキーや焼き菓子の甘い匂いが、まだ開店前だというのに子どもたちを引き寄せる。並べたサンドイッチの焼き色が朝日に照らされて、少しだけ背筋が伸びた。


 やがて開幕のラッパが鳴り、広場がぱっと色づいた。

 色とりどりの布が風に翻り、油の弾ける匂い、焼き菓子の甘い香り、遠くで鳴る太鼓のリズム。

 祭りが、一斉に動き出す。

 マルタの呼び声に誘われ、穏やかな流れで客が訪れる。それを手伝って紙袋を渡してはお金を受け取り、揚げパンを包む。普段も、食堂の夜の給仕を手伝うことはあるけれど――そのときとはまた違って、今日は食べ物を求めに来る皆が、楽しみのためにこの場にいる。それを思うとこちらまで心が弾み、頬が緩んだ。

 そんなとき、ひとりの若い女性が不意に立ち止まった。

 淡い水色のスカートを揺らしながら、並べられた焼き菓子の横――サンドイッチへ視線を落とす。

「これ、美味しそうね。どんな味?」

 鼓動が 、ひとつ余計に跳ねた気がした。

「オレンジソースです! 鹿に似た魔獣の肉を焼いて、少しだけ香草も混ぜてあります!」

 少し早口になってしまったのに、女性は楽しげに笑ってくれた。

「へえ、ちょっと珍しいわね。じゃあ、ひとつもらえる?」

 その瞬間、胸の中で何かが、小さく弾けたような心地がした。

 買ってくれる――その事実がじわりと広がり、視界の端が少しだけ熱くなる。

「はい、ありがとうございます!」

 震えないよう気をつけながら、両手で丁寧に紙包みを渡した。触れた紙袋の温度が、自分の手のひらにゆっくりと染みていく。

 去っていく女性の背中が人混みに紛れるまで、視線は離せなかった。  


 胸の奥で、小さな灯がふわりとともる。

  ――売れた。本当に、売れたんだ。  

 急に頬が熱くなり、思わず胸の前で拳をぎゅっと握りしめた。

 自分が考えて、自分の手で作り、味見をして、心配して。それが、誰かの手に渡った。たったひとつであっても、ずっと覚えておきたいほどに大きく感じられた。

「やったね。お客さん一号じゃないか」

 隣のマルタが笑いかけてくれた。

「……すっごく、嬉しいです」

 胸の震えをうまく表現する言葉が浮かばず、口から出たのは、平凡すぎる感想だった。

 それでも、祭りのざわめきが、先ほどまでよりも鮮やかに聞こえる。揚げパンを包む手つきまで少し軽くなる。

 ゆるむ頬を我慢できず、両手で押さえて隠せば、変な顔になってしまったのだろうか。隣でマルタが笑って、それがまた、胸にあたたかさを広げた。



 昼に近づくにつれ、広場の通りはますます混み合っていく。サンドイッチも二つ、三つと、昼に向かって人が増えるたびにちらほらと売れていった。――アストンのところは、どうだろうか。

 そう思った瞬間、自然と視線が広場の奥にある、製品の出展エリアへ向いた。散策へ行っていたエドガーもちょうど屋台へ戻ってきたから、覗きに行っても大丈夫だろうか。エプロンの紐を軽く結び直して、そっと声をかけた。

「マルタさん。ちょっとアストンのところに、サンドイッチを届けてきてもいいですか?」

「いいよ。ついでに屋台で何か昼ご飯を買ってきてくれるかい」

 ふたつ返事をして、まずは自分のサンドイッチの包みを一つ、かごへ入れた。

 人混みの中へ歩き出せば、午後に向かって活気づく広場の空気が、背中を押してくれる。屋台の間を巡ると、ふわりと香ばしい匂いが風に乗ってきて、思わず足が止まった。 

 一角では、肉屋の出店が鉄板の上で分厚いソーセージを焼いている。弾ける脂がぱちぱちと跳ね、焼き色のついたソーセージが並ぶ光景は、それだけで誘惑そのものだった。

 アストンのぶんと、自分のぶん。屋台の二人のぶんも足して、と数える。

「四本ください!」

 言った瞬間、多すぎるかと自分で少し驚いてしまった。けれど店主は、はいよ、と快く紙包みに詰めてくれる。一人で食べるわけではないし、食べきれなければ夜ごはんにもなる。そんな言い訳を心の中でそっと積み上げた。

 かごに入れて屋台から離れると、隣では、チーズ屋が温めた柔らかいチーズを、焼いた黒パンの上にとろりとかけている。向かいでは丸い蜂蜜菓子を油に落とす音と、揚がる香りが広がり、たまらなく食欲をそそられる。


 気づけば、かごは温かな香りのかたまりになっていた。歩くたび、かごの中で包み紙が触れ合う。さすがに買いすぎたかもしれない、というちょっとした罪悪感と、それ以上の幸福感を抱えながら、アストンの出店へと向かった。


 製品エリアに入ると、一転して匂いが変わる。木や金物、陽を含んだ布――そして、革の匂い。人混みの向こうに、簡素な棚の並ぶ、アストンの出店が見えた。


 多分暇をしている、と昨日言っていたものだから、一人でぽつんと店番をしているのかと気になっていた。が、隣の金具屋の男性が、アストンの小物を手に取りながら何やら話している。アストンも穏やかに受け答えしていて、所在なさげな様子はない。安堵とともに足取りが軽くなった。

「お疲れさま。お昼持ってきたよ」

 声をかけると、アストンは手元の小物をそっと棚に戻し、こちらに視線を向けた。外の陽射しの中で見ると少し明るい色になる緑の瞳が、やわらかくなる。

「ありがとう、楽しみにしていた。……多くないか?」

「あっ、これはマルタさんとエドガーさんの分もあるから……」

 本当はつい買いすぎただけなのだけれど、そこは胸にしまって笑う。かごを置くとその重量感のある音に、隣の店の男性が目を丸くした。

「いい匂いだな、こりゃあ買いすぎる。嬢ちゃん、それどこの屋台のソーセージだ?」

「西の筋にあるお肉屋さんです。たくさんあるので、一ついかがですか?」 

 紙包みを差し出すと、遠慮なく、と言って受け取ってくれた。アストンが横で小さく、けれど穏やかに笑うのが見える。

 アストンの棚を見ると、小さな革の袋やベルトがぽつぽつと売れた痕跡がある。祭り向きの商品ではないとはいえ、それなりに手に取ってもらえたのが分かった。

「そういえば、靴は……」

 新作の子供靴を何足か持ってくると言っていたが、一足しか見当たらない。残りは木箱の中にあるのかと見やれば、アストンははにかむように答えた。

「ああ。子供の靴は、やっぱり見てもらいやすい。二足、買っていってくれた」

 下の子の分の注文も入った、と続けてから小さく俯いた。まるで、口元が少しゆるむのを隠すように。

「すごい! やった、嬉しい……いいなって思って貰えたんだ!」

 作業机の前に小さな革細工を並べながら、どの取り合わせがよいか、どう配置をすればよいかと悩んでいた姿がよみがえる。そうやって思索を重ねながら送り出したものに、誰かが価値を見出してくれたということが、たまらなく胸を熱くさせた。

「ありがとう。励みになる」

 告げて、照れたように視線を落とす。その横顔を見ているだけで、こちらまで浮き立ちそうだった。嬉しさと誇らしさがじわじわと広がって、声に出さないとこぼれてしまいそうになる。

 アストンの視線がふと上がり、それに、と言葉が続いた。

「品評会の展示を見たらしく……一件、紳士靴と婦人靴の受注が入った」

「えっ!」

 すごい、すごいと思わず手を取って飛び跳ねる。アストンは驚いたように瞬きをしたあと、こちらの喜びに釣られるように、少し口元を崩した。

 揃いで注文ということは、夫婦だろうか。子供靴を買っていないということは、恋人かもしれない。普段は別々の家で過ごしていても、いつも心は寄り添っている――そんな物語をアストンの靴が誰かの人生に添えられるのかもしれないと思うと、胸が温かくなった。

「そういえば、ティアはこのあたりの出店は見て回ったのか?」

「ううん。まだ、食べ物の屋台だけだよ」

「そうか。向こうの方は服飾だから、気になれば見に行くといい」

 似合う服もあると思う、と続けられて、心臓が大きく跳ねた。そっと覗き見ても、アストンは変わらず微笑んでいる。どういう気持ちで言っているのかわからず、頬の熱さを持て余してしまった。



 せっかく勧めてもらったところではあるけれど、買ったものが冷めないうちにと、自分の屋台へ戻りかける。その道中で、奥の方――品評会の展示物が並んでいるであろう場所を、見遣った。

 アストンの靴がどんな形で展示されているのか、後で見に行きたい気持ちはあった。もちろん、投票もしに行かなくてはならない。

 一方で、少しだけ、怖くもあった。

 この街には商店も工房も多いけれど、そのすべてを見たことは、もちろんない。全部の通りを歩いていないというのもあるけれど、普段はショーウィンドウや厚い扉の向こうに隠れているからだった。

 けれどこうして出店の形で、様々な工房の、様々な製品を目の当たりにすると――どれもが、その人が何年も、何十年もひたすらに向き合って作ってきたものなのだと、知らされるようだった。

 アストンも、初めて針に触れたのは五歳のころだったという。それから、十四年。他の店の誰だって、同じなのだろう。胸の奥を掴まれるような怖さはきっと、自分が知らない世界の広さを、まざまざと突きつけられたからだった。

 けれどアストンは、その広さに向き合っている。今、街の工房たちの作品の中に自分の作った靴を並べ、静かに立っている。

 その背中を思うと、怖さの奥に、細いけれど確かな光が差した。

 ならば、見に行きたい。怖いと感じた気持ちごと、あの会場の光の中へ連れていきたいと思った。


 展示のある方角から風がひとすじ抜けてきて、紙包みの端を揺らす。誘われるようにそちらへ視線を向けると、大テントの白布が午後の風にゆったりと膨らんでいた。

 温もりの残る昼食を胸に抱え直し、まずは自分の屋台へ戻るべく歩き出す。

 その足取りは先ほどまでよりかすかに、軽くなっているような心地がした。


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