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51.家族を待つ靴

 ――アストラ・ポラリス一階、18時半。

 工房の灯を落とすと、夜の冷気が静かに忍び込む。構わずストーブの火を弱めると、赤い炎が音を立てて縮んだ。

 作業机の上には、縫いかけの手袋がある。品評会に出す靴は、順調に進んでいた。当日の出店には、靴はさほど並べなくてよい――父親と参加していた頃から、祭りでは安価な小物しかあまり売れないのだ。注文を受けるために一揃いだけあればよいから、作業の進度は悪くなかった。


 少し余裕が出来たからだろうか。革屑を掃き集めながら、ふと今日の会話を思い出す。

「紳士靴は、こういうの作らないの?」

 ティアのその言葉が、耳の奥に残っていた。


 洒落た華やかなものは、眺めるのも作るのも楽しい。一方で、自分でも身につけるかと問われれば、頷けはしなかった。

 見目はさほど構わないから、長く歩ける靴を。職人の多いこの街では、多くの男もそう考えているだろう。自分はどんな靴ならば履きたいかと考え出しても、答えは上手く出てこない。


 零れた溜め息ごと押し込むように、塵取りへごみを掃き入れる。掃除を終え、明かりを落とそうと手をかけたとき、ふと父の作業台が目に入った。

 道具はもう殆ど整理してあるが、隅の引き出しには、古い靴磨きの缶が幾つか残っていることを思い出す。引き開ければ、微かに油の匂いが漂った。

 蓋を開けると、乾きかけた黒いクリームが、まだ形を留めている。

 父は毎朝、これを手にしていた。多忙なときでも、磨きだけは、欠かさず。


 履いていた靴を脱ぎ、布を当てる。

 指先が覚えている。父の癖が、手の動かし方にまだ残っている。光沢が浮かんでくると、あの頃の工房が蘇るようだった。

 艶出しの練習だと、並んで靴を磨ぎ、どちらが早く仕上がるか競った日のこと。磨き終えた靴を父が手に取り、同じ黒い艶を映して笑った顔――端まで塗れていないと肘で小突かれ、父の小さな不備も指摘し返せば、誤魔化すように照れ笑われたこと。


 胸の奥が、不意に温かくなった。

 同じ形の靴ではなくても、同じ色の艶を宿していれば、それだけで繋がれる気がした。

 思えば、父はそうして家族を、家庭をつくっていたのかもしれない。すべてを口では語らなくとも、日常で触れる様々なものを通して、互いを映し合っていた。


 布を置き、磨かれた面をしばらく見詰める。

 家族で同じ靴を履く、というのはどうだろう。形や大きさは違っても、同じ革で、同じ糸で。外からは分からなくとも、履くたびに、自分たちは同じ家族だと感じられるような靴。

 派手ではなくとも、きっと温かい。


 胸の奥で、何かが静かに結び直された気がした。

 心持ちを華やかにするだけの靴ではなく、誰かと並ぶための靴。

 ――そんな靴ならば、自分も履きたいと思う。


 足型を、展開図を、様々な革を作業机に広げ、次々に巡らせる。

 素材は従来の、軽く、水気と熱に強い魔獣革がいい。くすんだ黒鉄色は、一見無骨な仕事靴である。

 けれど、その舌革に飾り模様を微かに入れ、妻子の靴と同じ色の糸を履き口にひと針刺す。そうすれば、靴を履くたびに見え、多忙な日々の中でも朝一番に、そして眠る前に、家族を想うことが出来る。


 作業机の傍らに並べた、婦人靴と子供靴を振り返った。

 そうすれば、これらの意味も変わってくる。

 婦人靴は、ただ日常を華やかに過ごすためのものではない。家族や大切な人と過ごす日に、自分らしさを添えるものに。

 子供靴は、愛らしさを長く楽しむだけのものではなく、親と揃いの糸を入れ、成長を家族で見守る象徴に。

 そうして紳士靴は、家族とともに、同じ歩幅で歩くためのものに。


 図面の端にはかつて父の書いた、アストラ・ポラリスの文字があった。

 夜空に燦然と輝くポラリスは、旅路をゆく人の道を示す。

 ならば、その道行きを――日々を、大切な人と歩み続けるための、革製品を。

 自分の送り出したいものの姿がようやく線で結ばれ、星座のように眼前へ開けた。


 工房の窓の外には、星々が幾つも瞬きつつある。その光を背に、図面へ視線を戻した。



「――それで、靴自体はあらかじめ作っておいて、希望があればその場で揃いの焼き印を入れて、糸をひと針刺そうと思う。事前に注文があれば裏地を共通にもできるが、それは先々の話だな」

 どうだろうか、とティアの反応を伺う。昨晩思いついてからすぐに革の裁断にかかり、馴れた型であったのが幸いして、一日で仮の縫製まで辿り着いた。これなら来週末の収穫祭までにもう一足、品評会用の分も作れるだろう。

 話し終えれば、夕暮れの陽の中で、ティアの目がぱっと輝いた。

「いいと思う! すごくあったかくて……」

 それからふと、遠くを見るような瞳になる。

「……いいなあ」

 端の掠れるような声だった。

 話している最中もこうだった。真剣に聞いてくれているし、よいと感じてくれていることも伝わる。けれど時々、手の届かない場所にいるかのような気配を見せるのは、何故なのか。

 ティア、と小さく名を呼んだ。顔が上がり、やわらかい笑みが向けられる。

「……アストンはきっと、しあわせな家庭を作れるね」

 違和感のある笑顔だった。告げられた言葉の温度は、単純な感想ではない。どこか、他人事のような響きがあった。

 時計の針の刻まれる音が、しばし落ちる。知らず、息を詰めていたことに気付き、静かに吐いた。

「……ティアは?」

 何故そのような物言いをするのか、寂しそうな――そうだ、寂しそうな顔で微笑むのか。わからず問えば、ティアの視線はカウンターの木目へ逃げる。

「私は、自信ないなあ……」

 年月を経た木肌に、黄金色の光と、黒く長い影が落ちていた。その境界線を目で辿りながら、浮かぶ様々な疑問を拾い上げ、どれを渡してよいものか考えあぐねる。

 その沈黙をどう受け取ったのか、ティアの顔がぱっと上がった。

「私ね、お兄ちゃんがいたの」

 ティアは一度、息を吸い込んでから、まっすぐ前を見つめた。

 言葉を探すように指先がカウンターを撫でる。

「……いた、って言ったら、死んだみたい。生きてるんだけど、たぶん」

 ぽつりと落ちた声は、夕陽の名残に溶けていった。


 八つ離れた兄だった。自分とは違って、イヌミー族特有の獣耳があり、優秀で、憧れていたという。

 両親は、学校に上がる前に亡くなった。記憶は微かにあるけれど、年々それが現実のものだったのか、こうであって欲しいと思う空想なのか、判別がつかなくなってきている。だからこそ、一番覚えているのは兄のことだ、と。


 微笑むように語る声は、静かだった。

 寄宿舎に入れられた二人は、初等部と中等部に分かれて暮らしていた。

 ある日、寂しくなって、兄に会いたくなって――今のようにケープを着て、中等部の校舎の前で花を摘みながら、ずっと待っていたのだという。


「下校の時間になって、入り口がざわざわして……出てきたお兄ちゃんは、友達と喋ってたの。私と違って、周りと馴染んでた。すごく堂々としてて、格好よくて」

 懐かしむように笑ったその顔は、どこか遠くを見ている。

「駆け寄ったらね。お兄ちゃんは私のケープのフードをすぐ被せて、かぶってろ、って言ったの」

 ティアはそこで、少しだけ目を伏せた。

「わかる?」


 ――当惑した。これまでの話の中に手掛かりがあるのだろうが、わからなかった。

 歳の離れた妹、両親の不在、自分に会いに来た姿。

「冷えるから……? 外で、ずっと待ってくれていたから」

 夕暮れの色を灯す瞳を、見詰め返す。その色に水が浮き、瞬いた弾みに零れた。

 心臓が跳ねる。ティアは慌てて拭い、ごめんね、と笑った。

「やっぱりアストンは優しいね」

 首がゆるやかに、横へ振られる。

 ティアはまた笑う。そうして、口を開いた。

「……兄妹に耳なしがいるって、周りに知られたくなかったんだよ」


 言葉が、脳の奥に届くよりも先に、息が止まった。

 ――兄が妹を、家族を、恥じる。そんな発想は、一度として浮かんだことがなかった。家族は支えるものだと、守るものだと、そう信じて疑わずに来た。来られた。

 頭の奥で何かが軋む。視界の焦点が合わなくなる。胸の内側が白く塗り潰され、音も匂いも遠のいていく。

 目の前ではティアが、かすかに笑っていた。

「でもね、今だったらわかるんだよ。お兄ちゃんも子供だったし、自分の居場所を守りたくて、必死だったんだと思う」

 微笑みは、凪いだ水面のように静かだった。それがかえって、どれほどの時間をその痛みとともに生きてきたかを物語るように感じられる。

 春の頃のティアが不意に、よみがえる。

 人の役に立ちたいのだと願い続け、それが叶っていてもなお、自己の評価がどこまでも低かった姿。命を燃やすように駆け続ける姿が眩しく、その光に手を引かれもした。


 ――けれど。

 息を吸おうとしても、喉が動かない。

 幼い自分は――違う、よい歳になっても、甘えたがりで、不器用で、口下手だった。それでも両親は、ただ自分であると一点だけで愛してくれていた。自分だってそうだ。理由は後からついてきて、ただ、両親であるというだけで愛していた。

 けれどティアは。自分のままでいれば愛されないのだという傷を、差し込まれ続けてきたのかもしれない。

 沈黙を誤魔化すように、でもね、と声が落とされる。

「あたたかい家庭って、親さえいればできるとは、思ってなくて。親も、子供も、それぞれが家族のことを思い遣ってるからできるんだと思う」

 アストンのお家やマルタさんのところみたいに、と微笑んで、視線が逸れる。

「自分も家族ができたらそうしたいけど……正解がうまく想像できないから、ちょっと自信ないかな。ごめんね、変な話しちゃって」


 その声に、強い衝動が、熱となって胸の奥に湧き上がった。

 ――自分が、二人分愛するから、ここに来てほしい。過去に空いた穴を埋めることはできなくとも、この先二度と不安など覚えないように、ただただ注ぎ続けてみせる。

 そう、言葉に出してしまいたかった。

 いつしか握り締めていた拳を解き、静かに息を吐く。

 ――違う。思い留まらなくてはならない。過去の傷を打ち明けてくれた場で、勢いのような言葉を口にするべきではない。

 深く息を吸い、ひと呼吸ごとに、熱をほどくように吐いた。

 窓の外には、夕暮れが低く伸び、家々に灯りがともり始めている。あたたかな、家庭の火。

 視線を戻すと、ティアは俯いたまま、爪先を絡めていた。言葉を急ぐべきではない。ティアの言わんとすることに相対することが、今、一番大切であろうと思った。

「……不安だろう。けれど、家庭は、ティアだけで作るものではないと思う」

 言葉を置くと、手元の革を親指の腹でなぞった。鞣しの匂いが、夕闇の冷たさと混ざる。もう届かない、遠い日を思い出すように、綴り続けた。

「うちの両親は……母は格式のある家の出で、父は職人の家の息子だった。周囲からすれば、釣り合わない二人だったらしい」

 幼いころから幾度となく聞かされた、両親の馴れ初めを辿る。父親は劇的な恋物語のように語っていたけれど、その裏にはきっと、思いもつかないほどの苦しさがあっただろう。

「けれど、二人が手探りで作りあげた家は、不格好でも、あたたかかった」

 縫いかけた革を、親指の腹で撫でる。真新しい硬さが指先に触れた。

「革は……最初から完璧な形なんてない。少しずつ使う人の手に馴染んでいく」

 ――家族だって、多分同じだ。

 続ければ、ティアの顔が少し上がる。夕暮れの残光が、その輪郭を柔らかく縁取った。

「片方がうまく形を作れないなら、もう片方が支えればいい。時間をかけて、一緒に馴染ませていけばいい」

 黄昏の、あるいは暁のような瞳が揺れる。身を焦がすようなその光から逃げることは、したくなかった。

 静かに息を吸う。

「ティアの隣に立つ人が、それをしないなら――俺は、許せない」

 瞳を逸らさず、告げ切る。

 眼前で瞬いた瞳がまた潤み、けれど零れる前に、細い手にそっと拭われた。

「……そっか。うまくいかなくっても、だめって思わなくていいんだ」

 かすかに笑うような、体温の通った声が、カウンターの木目に落ちる。その笑みを見届け、胸の奥の熱をようやく静めた。


 ふと、ティアが視線を落とす。

「そういえば、この靴も今はひとりなんだよね」

 爪先を軽く動かして、履いているブーツの縫い目を見つめる。

「いつかこれにも、誰か並んで歩ける相手ができたらいいな。……そのときは、糸を刺し足してもらえる?」

 一瞬、胸が詰まる。冗談めかした声に宿る微かな願いが、心の奥に沁みていった。

 いつかの雨の朝、寝台の傍らでティアの結んでくれた約束が、長雨に沈む自分を生かしたように。今度は自分がその願いを結びたいと、強く思った。

「もちろん。そのときは……頼まれなくても、俺が刺す」

 低く、確かに答えると、ティアははにかむように笑った。


 ストーブの火が小さく鳴り、あたたかな熱がまた、静かに満ちていった。

 橙の灯りの下で、ティアの履く革靴が、やわらかな光を返す。

 その縫い目はまるで、今交わした約束を、その心に刻みつけているかのようだった。


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