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49.夫婦ならばキスくらい

 夕刻を告げる鐘が鳴る。空の器を包みの布に戻しながら、じゃあまた明日、とティアは笑った。その細い背を店の戸口まで見送るのは、いつの間にか習慣となっていた。

 扉を開けると、外はもうすっかり暮れかかっていた。西の空の名残りの朱が屋根の端にわずかに残り、その上に、淡い星がひとつ、またひとつと瞬いている。

 夜の気配が静かに街を包みはじめ、冷たい風が店先の木々を揺らした。

「今日は晴れているから、夜道を気をつけて」

 言葉が自然に口をつく。ティアはふと立ち止まり、こちらを見上げた。

「それ、前も言ってたけど、なんで晴れてたら危ないの?」 

 問われて、一瞬詰まる。

 星空に攫われる、という言い伝えが発端である。別に本心から信じているわけではない。ただ、子どものころからの癖のようなもので、つい案じて言ってしまうのだった。

 けれど、ティアの故郷ではそう伝えられていないということだろうか。長い神話のどこから説明をすればよいか考えあぐねているうちに、もう興味は薄れたのか、ティアは寒風に身をすくめていた。

「寒いね」

 一回り小さな手が、ケープの前をかき合わせる。

 灯の明かりがその手元をやわらかく照らし、吐く息がかすかに浮かんで消えた。

「おやすみ。早く、お店の中入ってね」

「ああ。おやすみ」

 手を小さく振り、言い付けを破ってしばらく見送ってから、扉を閉める。外の空気が一瞬だけ店の中に流れ込み、香ばしい木の匂いと混じって消えていった。

 足音が石畳を離れていくのを聞きながら、しばらく戸口に立ちつくす。胸がゆるく、絞られるような心地がした。


 ティアが来てくれるようになってから、夕刻の寂しさは霧散したように感じていた。

 五時を回れば時計を見上げる。そのときの心地は、客の温度が去り、静けさと冷たさに一人残される閉店時間への怯えではなく――弾む声と朗らかな笑顔、そして何より、手を引いてくれるような眩しい光が来てくれる夕刻への、待ち遠しさだった。

 だから、好ましい時間であった筈なのに。

 近頃はティアが帰って行った後、なす術のない寂寥感に襲われるときがある。

 以前のようにひとりで作業にかかり、ティアの声を一方的に聞いているだけではなく、試作品への批評を求めて会話を交わすことが増えたせいだろうか。それとも単に、収穫祭に向けて忙しないことで、睡眠時間が乏しいせいだろうか。

 秋の暮れは早いのだから、いつまでも引き止めるわけにはいかない。そうは言っても――ずっと帰らずにいてくれればよいのに、と思う。


 溜め息を一つ。カーテンを閉めようと窓辺に寄る。

 映る自身の影の向こうに、帰路を急ぐ男女の姿が見えた。歳の頃からして、夫婦だろうか。そういえばティアは明日、花屋の友人の結婚式に行くのだと言っていた。

 ――夫婦は、同じ家に帰るのか。

 診療所から帰ったティアをそのまま家へ迎え入れる光景をぼんやりと浮かべてから、何やら名案のように思えた。そしてすぐに、ティアには利がないように思い直す。

 今は仕事から帰れば、マルタの夕餉が待っているのだろう。自分も料理くらいはするが、到底敵うほどのものを提供できるとは思えない。宿代が浮くくらいだろうか。


 売り上げを数えようと銅貨を仕分けながらふと、疑問が浮かぶ。――イヌミー族とは結婚ができるのだろうか。

 手が止まってから、そもそもティアの両親は母親だけがイヌミー族であったことを思い出す。それならば、何とかなるのだろう。なるのだろうか。自分の両親も駆け落ちであったと聞いているが、然るべき手続きを踏めるに越したことはないだろう。ティア本人に聞くしかないのだろうか。


 千々に考えを巡らせながら、算盤を弾いてゆく。そのせいで、帳簿の数値は四度目まで揃わなかった。



 その翌日。いつもより幾分か早く訪ねてきたティアは、どこか夢心地という様子だった。友人の式と、その後の食事会の話をつらつらと語りながら、時おり指先で花弁の形を描くように身振りを添える。

 不自然ではない流れで尋ねるには、好機だった。

 ひとしきり話が済み、一瞬の沈黙が落ちた隙を狙って、口を開く。

「そういえば、ティアの両親はどうやって出会ったんだ?」

 夕暮れ色の瞳が瞬く。

「馴れ初めってこと?」

 頷けば、やや間が空く。触れてはならない話題だったろうかと一瞬焦ったが、ティアは首を傾げただけで、常と変わらない声色で続けた。

「聞いたことないなあ……小さかったから覚えてないだけかも。でも、親の馴れ初めって、聞く?」

「俺は……何度も何度も聞かされたが……」

 止まっていた手を動かし、縫い針を革から引き抜く。

「えっ、そうなんだ……?! 子供に言うの、恥ずかしくないんだ……」

 手で口元を押さえる姿に、こちらの方が驚かされてしまった。ティアは、こっちの人ってあんまり人に見られるのを気にしないよね、と小さい声で続ける。

「マルタさんの旦那さん、いつも帰ってきたときとか出て行くときに、頬っぺたにちゅってしてるの、今でもびっくりしちゃう……」

「えっ」

 つい声が出れば、ティアは慌てて手を振った。

「人前でっていうか、私はずっといるから、もう気にされてないのかも? あっ、でも最初からしてた……えっと、普段お家に帰ってこない人だし、」

「ティアのところでは、帰宅のときにキスすることは全くないのか?」

「えっ? あっ、そっち……?」

 狼狽したように、ないよ、ない、と必要以上に首を振られる。

「えっ、アストンはしてたの……?」

「小さい頃は……まあ、親子では頰にだから……」

「……夫婦は……」

 丸みの残る頰が、薔薇色に染まっていく。視線を手元に落としたものの、針先が狙ったところに刺さらず、二度も刺し直した。

 両親が朝に、帰宅時に微笑んで唇を寄せ合う姿は、自分にとっては食卓にパンがあるのと同じことだった。ただの日常の一角として深く考えたこともなかったが、そうまで恥じらって口にされると、何やら気恥ずかしいような気がしてくる。

 何より、先日の自分の大失態――どちらからももう話題に触れずにいるが、誤解と愚行、ティアの気遣いを思い出して、罪悪感と羞恥で息の根が止められそうになる。

「そういうものだと思っていたが、こちらでも、家によるのかもしれない……俺も、他所の家の中は見たことがないし……」

「そういうもの……」

 頰の朱が濃くなり、ティアはますます小さくなる。

 今の返事のどこにそんな要素があったのか思い返しても、よくわからなかった。両親が睦まじくしていたと言っても、今では遠い日の話である。もう小さい子供ではないのだから、と自分からそのやり取りから外れたのは、さらに前の話だった。

 縫い目の曲がるのが怖くて止まっていた手を、思い切って引く。糸が等間隔に並び、安堵の息をついた、そのときだった。


「……じゃあ、アストンも、結婚したらそうなるんだ……」


 口に当てた手の隙間から零れたような、小さな声。

 縫い目を見詰めたまま、その言葉の意味を反芻する。

 ――瞬時に、胸から耳へ、熱が駆けあがった。

 その行為そのものを浮かべたからだけではない。

 自分は昨晩、何を考えた。漠然と、一緒にいられればよいと思いついたが――夫婦になるとは、そういうことだ。口を滑らせなくて、本当に、本当に良かった。

「いや、それは、相手によるのでは……? わからん、まだ、結婚したことがないから……」

「そうだよね、変なこと言っちゃった」

 ティアは頰の朱色を隠すように、零れた髪を指先で巻いている。

 視線をそこから縫いかけの革へ戻したものの、三度針を刺しかけて手を止めた。糸の繋がったまま、縫いかけの革を一旦、机の端に置く。代わりに、積んでいた革を手に取った。力を込めて刃を入れ、裁断してゆく。

「……それ、最後まで縫わないの?」

 沈黙を埋めるようにティアが問う。声が微かに上擦っていた。

 刃を動かす手を止め、僅かに息を吸う。

 動揺で手元がぶれそうであるからなどと正直に答えるわけにはゆかず、返事に窮してしまった。


 差し込む陽は淡く橙に色づき、まだ鐘の時刻は遠い。

 針山の上で光る金属の先は、愚か者の純情を嘲笑うように、いつまでも視界の隅にちらついていた。


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