48.指先だけがまだ熱い
アストラ・ポラリスを泣いて飛び出した、翌日。夕方の診療がひととおり終わり、薬棚の瓶を拭っていると、外の光はだんだんと青く沈みはじめていた。
診療所の窓の外では、風が木の葉を擦り合わせている。昼の喧騒が遠のき、部屋の中には水と薬草のにおいだけが残っていた。
戸棚を閉めようとしたところでベネディクトが、そういえば、と声を上げた。
「ティアさん、その指は?」
見下ろせば、右手の指先の皮は白く乾き、ところどころ剥がれかけている。水膨れはとうに姿を消し、この様子では明日にはきれいに治っているだろう。
「昨日、ちょっと火傷をしたんです」
そう言いながら苦笑いを浮かべると、ベネディクトは興味深そうに目を細めた。
「昨日ですか。流石、回復が早いですね」
「そうなんです。だから、大したことないですよね」
笑ってみせたけれど、胸の奥に小さな棘が残っているような気がした。手元のガーゼを畳みながら、口が滑る。
「アストンの革細工がストーブに落ちたから、拾ったんです。そうしたら、すごく怒られて」
「ほう」
ベネディクトは片眉を上げる。
「アストンは、全然私のことをわかってなくて」
ガーゼの端を自然と握り締めていた。昨日の声が、まだ耳の奥に残っている。それを思い出すたび、胸が刺されるように痛んだ。
「私、ちゃんと考えて動いたのに……」
声が小さくなった。
老医は何も言わず、静かに戸棚の中の瓶を整えている。ガラス越しの夕陽が、乾きかけた指を橙色に照らしていた。
「どうして、わかってほしいのですか?」
不意に問われ、手を止めた。困惑してから、理由を巡らせる。
「また手伝ったとして……同じことがあったときに、怒られたくないからです」
「そうですか。そんなわからずやの彼なんて、手伝わずに放っておいたらよいのでは?」
いつもと変わらない穏やかな声が、ベネディクトらしくない、意地の悪いことを告げる。その意図も心境もわからず、ただ視線を落とした。
「……でも、私は、アストンを大事にしたくて」
思わず、胸の奥が熱くなる。
ベネディクトは目を細め、瓶の蓋を静かに閉じた。
「そうですか。では、その大事な彼は、今回は何に怒っていたのですか?」
――何に。何に? そのことを、考えてもいなかった。
はっと顔を上げる。眼鏡の奥の瞳は静かに微笑み、それ以上、言葉を重ねなかった。
診療所の時計が静かに時を刻む。
胸の奥に、ようやくゆっくりと、昨夜のアストンの表情が浮かんできた。火傷を負ったとき、まず見せたのは焦りと困惑。決してこちらを咎めなかった。
怒ったのはきっと、行為そのものではない。
――わかってもらいたいと、思っていた。けれど自分は、アストンのことをわかろうとしていただろうか。あの優しい彼が、いつも言葉を選んでばかりの彼が溢れさせたものの中身を、見ようとしただろうか。
胸の奥がざらつき、うまく呼吸ができない。
ふとベネディクトが立ち上がり、窓辺の棚へ寄った。
「ここの片付けはやっておきます。今日はもう上がりなさい」
思わず顔を上げ、首を横に振る。
「私、仕事はちゃんとやれます。やらせてください」
そのためにここにいるのだ。厄介払いされないよう、焦り混じりの声で否定をする。
けれど――振り返った老医は、目尻に小さく、笑い皺を寄せていた。
「仕事の精度の心配はしていませんよ。ただ、今日は冷えるでしょう」
そうして、窓の外へ視線を移す。
「あなたを早く出さないと、この街に風邪ひきが一人増えそうなので」
軽く笑いながら言うその声に促され、窓辺に歩み寄る。
近づくと、窓硝子がひやりと肌を刺した。小さな隙間から入り込む風が、指先の火傷跡を撫でていくようで、思わず手を引きかける。
暮れかかる空は、群青に赤紫が沈み込む途中で、街灯がぽつぽつと灯り始めていた。馬車の車輪の音、靴底が石を打つ音、誰かの笑い声が遠くでこぼれて、また風にかき消える。
仕事帰りの人々は、あるいは薄い外套の襟を立て、あるいは胸元で手を擦りながら、足早に行き交う。
そのざわめきの中に、ぽつんと、動かずに立つ影がある。
街灯の下、アストンがいた。
エプロンの代わりに、羊毛のジャケットを羽織っている。肩にかけた薄手のマフラーの端が風に揺れ、吐く息が冷えた空気にほどけた。頬や鼻先が少し赤く染まっているのが、ここからでもわかる。
硝子の冷たさが、胸の奥の温度と混ざり合い、視界の端がふっと滲んだ。
胸が、締め付けられる。
ドアを押し開けると、夕暮れの冷たい空気が頬に触れた。
アストンが気づいて、顔を上げる。街灯の灯りがひとつ、またひとつと点されはじめた通りで、その淡い光が彼の横顔をかすかに照らしていた。
声が届くほどの距離まで近づくと、唇が開かれる。
「――あんな言い方をして、すまなかった」
声はいつもより低く、けれど、穏やかだった。
「……火傷を見たとき、怖くなった。あのときは、ティアが痛そうにした顔しか頭になくて」
薄い吐息が、夕暮れの白さにほどけていく。
「もう、あんな顔は見たくないと思った」
木立の葉が夕風に擦れ合い、雨音のように響く。ざっと通り過ぎる音の中、返す言葉が見付からず――ただ、首を横に振った。謝られるのは、自分の方ではない。
「私の方が、ごめんなさい。心配してくれてたのに、わかろうとしないで……意地張っちゃって、ひどいこと言って」
声が震えないようにと息を整え、もう一度、ごめんなさい、と告げる。アストンは視線を落とし、何かを言いかけては飲み込むように、唇を動かした。
手袋が、差し出される。
「……忘れ物」
受け取り、手を通す。吸い付くようなやわらかさと、指先まで満ちるあたたかさ。
これを渡しに来たのを口実にしなかったアストンの誠実さが、胸の奥を静かに締め付けた。
歩き出したものの、アストンはどこか気まずそうに目を伏せていた。
「……あまり人と喧嘩をしたことがないから、どう収めればいいのかわからない。人が和解している場面にも、あまり居合わせたことがなくて」
その声音はいつもより小さく、どこか探りを入れるような響きがあった。
自分も同じだと思う。意を通して人と衝突することも、ましてや、喧嘩をどうやって収めるかなんて考えたこともなかった。学校では、謝るところまでしか習っていない。
必死に記憶を漁り、ふと浮かんだのは、寄宿舎での光景だった。
夕方の裏庭で揉めていた、上級生ふたり。ひやひやとしながら渡り廊下を通り、ゴミ袋を捨てて帰る頃には、頬に口付け合っていた。
――思い出したところで、今は何の参考にもならない。
他に何かなかったか、と巡らせたけれど、沈黙が続くのも気まずくて、つい口に出した。
「故郷では、仲直りのキスしてたりしたけど……」
アストンが、ぱっとこちらを振り向いた。
街灯の火が瞳に映り、揺れる。
「本当に……?!」
その反応に、思わず瞬いた。自分はしないけれど、マルタとその夫だって、帰宅の挨拶に唇を寄せているくらいだ。世の中を探せば、十分あり得る話だろうに。
「嘘ついてどうするの」
呟くような返事は夕風に流れ、消え入りかける赤光に溶ける。そうして、二、三歩進んだところで気がついた。隣から、足音が途切れている。
振り返ると、アストンは立ち止まっていた。
風が彼の髪の端を揺らす。薄明の残る空の下、視線は石畳に落ちていた。
その顔が上がり、振り切るように一歩、二歩と足早に寄る。
革手袋に包まれた手が掬い上げられ――
その指の背に、唇が、押し当てられた。
指先が跳ねる。睫毛の影を見詰めたまま、胸の奥で時が止まる。
まだ手に吐息のかかりそうな距離で、ためらうように、息が小さく吸われた。
「……こ、れで、合っているんだろうか」
不安げな瞳がそばで揺れる。
息を詰めたまま、一拍。汗の噴き出るほどの熱が、駆け巡った。
「どっ……あっ……」
何の齟齬があった。見たことがあるという話をしただけであるのに、ひょっとして、イヌミー族はそういう風習であると誤解をされたのだろうか。そうに違いない、だって、そうでなければ、普段は手さえも触れない彼がこんなことを。
あれほど寒風にケープの前を搔き抱いていたはずが、全身に回る熱に息苦しい。誰にでも口付けると誤解されるのも嫌で、首を何度も横に振った。
「違っ……したことない、私は、」
言葉が何も纏まらない。顔を見るのも恥ずかしく、それでもどうにか窺えば――アストンの顔が、さあ、と青ざめるのが見て取れた。
やってしまった、という後悔が駆け巡る。
触れないようにと気遣う彼にとって、その良識の垣根を飛び越えることがどれほど、勇気の要ったことであったか。アストンにとっては信じがたい行動であっても、文化が異なるのだろうと呑み込んで――誤解であるけれど、彼はそこまで合わせて、関係の修復に思いを遣ってくれたというのに。
アストンのこれまでの心遣いが無意味になったとは、自分は決して思っていない。頬も耳も熱くて仕方ないけれど、手に口付けたくらい、何か。何ということも、ない。アストンが怯えるほど大したことではないのに、青ざめる彼にどう伝えればいいのか。
思考は右へ左へ駆け回り、千切れてまとまらない。けれどアストンが一歩後ずさり、頭を垂れようとする気配を察した瞬間、身体が動いていた。
その手首を掴む。肌に触れる勇気は出ず、袖口の端――いつか揃いで留めた、青のボタンに唇を押し当てる。
「おっ、おあいこ……」
よろけるように後ろへたたらを踏み、離れる。
見上げればアストンは目を丸くしたまま――朱に、染め上がった。
限界だった。
おやすみ、と言い捨てるようにして、石畳の上を駆けて逃げる。何をしているのか、もっとよい方法があったのではないか、思い違いは本当に解決が出来たのか。
色々な問いが頭を駆け巡るけれど、今はもう、何にも答えられなかった。
鼓動がうるさい。顔が熱い。
涙が出そうなほどの恥ずかしさに襲われているというのに、それでも、だからこそ。
手袋越しに触れた唇を、かすかに伏せられた瞳を、何度も思い返してしまった。
もう、とうに治ったはずの指先は、いつまでも熱を持ち続けている。




