47.指先だけはもう痛くない
夕陽が町の屋根の向こうに沈みかけていた。
昼間の名残をうっすらと残した空が、冷たい風に追われるように色を失っていく。ティアはケープの前を掻き合わせ、アストンの店の扉を押した。
軽やかな鐘の音とともに、革と油の匂いが鼻をくすぐる。
奥で、作業台に向かっていたアストンが顔を上げた。その椅子の背にも、昨日まではなかったベストが脱ぎかけのままかかっている。暖を取るよりも仕事を優先したのだろうか。
こちらの手元に視線を落としたアストンの目が、やわらかく揺れた。その反応につい口元がゆるんで、見せるように手を広げる。
「手袋。今年も出してきちゃった」
前の、冬の終わり。初めてこの街へ来たとき、アストンに直してもらった、革手袋だった。
思えば、これのお陰で縁が繋がったとも言える。寒さは好きではないけれど、今年もまた手を通すのを楽しみにしていて、今朝の冷え込みにようやく出番が回ってきたのだった。
おかずの包みを渡すため、手袋を脱いでカウンターに置く。そうすると室内でも、少し指先は冷えるように思われた。
「寒くないの? ベスト、着てないけど……」
「ああ、ストーブがあるから、今は少し暑いくらいだ」
作業のためのストーブは、夏場はたいそう厄介そうだったけれど、今の季節にはちょうどいい暖になるらしい。赤々と燃える色を眺めて、自然と指先を擦り合わせた。
「それは、何かの飾り?」
作業机の上に並ぶものにふと目が止まり、尋ねてみる。革で作った花に飾り紐がついたものは、髪飾りのようでも、何かの部品のようでもある。
アストンはひとつを指で摘んで、子供靴の飾りだ、と言った。
「前に、子供の靴は長く履けないという話があっただろう。だから、飾りだけ外せるようにしてはどうかと思って」
見るか、と手招きをされる。聖域のような場所へ踏み込むことにまだ少しどきどきとしながらも、作業机のそばへ寄った。
火のあたたかさが膝に触れる。作業台の上には、小さな革片や、糸巻き、磨き布の合間に、いくつもの飾りが並んでいた。花の形に切り抜かれたもの、丸く膨らませた実のようなもの、星を模したものもある。
どれも指先ほどの小ささで、淡い青、橙、生成り――染料をぼかすように塗り、縁を磨いて艶を出してある。小さな指先で触れても痛くないように、角が丁寧に落とされていた。
アストンは一つの花飾りを裏返した。縫い目の際に小さな金具が仕込まれていて、簡単に留め外しができるようになっている。
「大きくなって靴が替わっても、これだけは取っておけるように?」
そう尋ねると、アストンはほんの少しだけ笑った。
「それもあるが、次の靴にもつけられるし、人に譲ってもいい。靴本体が使えなくなっても、これだけは、ずっと使い続けられるといいと思っている」
その言葉に、胸の奥がやわらかく揺れる。火のあかりに照らされた飾りの花びらは、まるで陽の名残を閉じ込めたように光っていた。
――生活の中に溶け込み続けるものを。
アストンの変わらない想いが、あたたかく灯る。その色に見惚れながら、隣の飾りに触れようとする。と、同じものに手を伸ばしたアストンの指先と、ふと触れかける。息をのむ一瞬の間に、アストンが慌てて手を引き、机の端に肘をぶつけた。
かすかな音を立てて、小さな飾りのひとつが、ストーブの方へ転がり落ちる。
金属の天板に当たる乾いた音。見る間に、火の上の鉄の面で、革の花の端がじわりと反った。
――次の瞬間には、体が動いていた。
素手を伸ばし、指先で掴む。焼けるような熱が、皮膚を貫いた。
「痛っ……!」
神経を直接刺されるような痛み。飾りが手から跳ね、床板に落ちる音が鳴る。
遅れて、熱さに汗が噴き出る。
「ティア……?!」
強く呼ぶ声と同時に、腕を掴まれる。アストンの手には、焦りとも同様ともつかない震えがあった。
引き摺られるようにして奥へ運ばれ、水道の蛇口がひねられる。冷たい水が肌を刺すように流れ、痛みが遅れて追いかけてくる。
「ストーブを、見たことがないのか……?」
声は叱るというより、驚きと困惑が入り混じっていた。
彼の呼吸が荒い。水音に混じって、焦げた革の匂いがまだ鼻の奥に残っていた。蛇口から落ちる水の音は、いつまでも止まない。
アストンの手は、まだこちらの手首を掴んでいる。冷たい水がアストンの腕を、捲られた袖口を濡らし、床に滴を落とした。
赤くなった指先に水が伝うたび、ひりつく痛みが広がる。
「私は……火傷しても治るけど、革は焦げちゃったら終わりだから……」
ぽつりとそう言うと、アストンの動きが止まった。
沈黙が、音もなく降りる。
顔を上げると、アストンは信じられないものを見るようにこちらを見ていた。
「……そんな理由で拾ったのか?」
「そうだよ」
言い切る。ためらいも、後悔もない。アストンは短く息を吐いた。
濡れた指先が離れ、雫が手の甲に落ちる。
「……何を考えてるんだ」
考えなしとでも言うような言い方に、胸の奥へ嫌な熱が広がった。
「取り返しがつかない方が大事だと思ってるんだよ」
言い返せば、アストンは、言葉を失ったように口を閉じる。困惑したような、怒っているような、或いはその両方のような色。水の流れだけが、静かに響いていた。
「……もう作業場に入らないでくれ。入るな」
その言葉に、胸の奥がかっと熱くなる。
「私が無理に押し入ったみたいな言い方やめてよ」
「そうは言っていない」
「言ってるよ。私にとったらこんな怪我、大したことないのに――大騒ぎして、馬鹿みたい」
声の端が震える。
水が止まる。
しんとした音のない空気の中で、アストンの影がわずかに揺れた。
湿った匂いと、鉄のような寒気。低く、押し殺した声が落ちる。
「馬鹿とは何だ……!」
その瞬間、空気が張り裂けたように感じた。
いつも穏やかに笑う彼の声が、こんなに鋭く響いたのは初めてだった。
肩が跳ね、息が詰まる。瞳の奥が熱くなる。けれど怖がったなどと、死んでも思われたくなかった。
身を翻した、その手首を掴まれる。濡れた袖がひやりと肌に触れる。掴まれた部分が熱を持つようで、なお胸が絞られる。
それを簡単に振り払えば、水が散り、アストンの袖がさらに濡れた。
石畳に飛び出す。
アストンの腕力ごときで引き止められるわけがないのに。自分は作りがまったく違うということを、まだ、わかっていないのだ。
背後で、扉が開く音がした。けれど追ってくる足音は、いつまでも聞こえなかった。聞こえたところで、追い付かれるはずもない。
外はいつの間にか夜に変わっていた。
西の空の名残の赤が、屋根の端でほつれて消えかけている。冷たい風が頬を打つ。涙が零れたのか、風で冷えたのかも、もうわからなかった。靴音だけがやけに響く。灯のともらない路地を、息を切らせて駆け抜けた。
けれど、家々の先に宿の灯りを見た途端、張りつめていたものが切れた。
飛び込めば、夕餉のあたたかな匂い。マルタが声をかけてくれる間もなく、その胸に顔を押しつけた。言葉にならない嗚咽がこみ上げる。
「あらあら……」
それ以上は何も言わず、マルタはただ、髪を撫でてくれた。
暖炉の火の音だけが、遠くで微かに鳴っている。
冷えた指先の痛みは、いつしか引いていった。けれど、胸の奥の痛みだけは、眠りに落ちる間際になっても消えなかった。
だから、あれほど大切にしていた手袋を忘れてきたことにも、翌朝まで気が付かなかったのだった。




