45.私の知らない子守唄
赤く乾いた葉が、ゆるやかな風に転がっていく。石畳をこつこつと鳴らす靴音が、それを追いかけるように続いた。
秋晴れの昼下がりの街は、穏やかだった。朝のうちはいつものように診療所で忙しく動いていたけれど、ベネディクトが隣村へ往診に出たので、午後は休みになった。ティアは抱えていた包みを胸に収めるように持ち直して、アストンの店へ向かった。
包みの中には、先日捕まえたドンブクの革。なめし工房から今日、ようやく引き取ってきたのだ。少し独特な匂いがするが、秋の風に混じるとどこか懐かしいようでもある。
――来月の収穫祭が落ち着けば、これで何か作ってもらおう。そう浮かべるだけで、足取りが弾む。
思えば、破れた手袋を引き取りに、初めてアストラ・ポラリスを訪ねたとき。カウンターのそばには、このドンブクの革が吊るされていた。勝手に触れようとして叱られたのも、今となればよい記憶のように思われた。
自分の劣等感の象徴のようであったこの革を、大切なものなのだと言ってくれたあの日。やわらかな眼差しで革を見詰め、何になってもらおうかな、とあたたかな声で告げるのを見たときから、きっとアストンに惹かれていたのだった。
扉を押し開けると、からん、と軽やかな鐘が鳴る。
弾む胸のまま、奥に座るアストンに、声をかけようとした瞬間――大きく、手を左右に振られた。そのまま口の前に人差し指を立て、無言のまま、何かを伝えようとしている。
取り込み中だったろうかと思い、扉を再び、そっと引く。すると今度は必死に手招きをされた。
呼ばれるまま、そろりそろりと足音を立てないように近付く。普段は入ることのないカウンターの向こう側、作業場の方まで招かれ、つい視線があちこちへ走る。革と油の匂いが濃くなり、ストーブの熱が膝のあたりに広がった。
「……悪い。そこまで、静かにしなくても構わないんだが」
ひそめた声と、困惑した顔。その理由は、膝の上を見てようやく気が付いた。
「……赤ちゃん?」
抱えられていたのは、ブランケットにくるまれた赤子だった。やわらかそうな肌と、人形のように小さな手。寝息に合わせて、綿毛に似た髪がふわふわと揺れる。
「斜め向かいの家の子だ。修理の依頼に来たと思ったら、少しの間だからと任されてしまって……」
座ったままこちらを見上げる瞳が、縋るような色になる。大体のことならば一人で片付けてしまうアストンに頼られるのが、少し不謹慎ながら嬉しかった。
「すまないが、そこのストーブとランプを消してくれるか。あと、針ときりも奥へ頼む」
怪我をさせないか気が気でなかったが動けなくて、と弱った声で言うのに、何故だか胸がどきどきと鳴る。自分を誤魔化すように道具を淡々と片付けて、腕の中を覗いた。
「小さいね、かわいい……よく預かるの?」
「いや、初めてだ。普通は俺なんかに預けないだろう」
三人目だと扱いが雑になるのか、と呟きながら、小さな額にかかる髪を指先でよける。その手つきの優しさに、また胸がきゅっと絞られるような感覚に陥る。
「上二人の最初の靴は親父が作ったんだ。子供の靴はドンブクの革なんかが――これだな。……どうしたんだ、これ」
アストンの視線が、こちらの腕にある革に留まる。この前の害獣退治で仕留めたのだと話せば、目が丸くなった。
「見せてくれ。すごいな、大きいんじゃないか」
感嘆の声を上げ、身を乗り出してくれる。その反応が嬉しい一方で、ひやりと緊張が走った。応えるように、小さな身体がもぞりと動く。アストンが弾かれたように見下ろした先で、一拍の間。
ひゅ、と息を吸うのに続き――窓を震わすほどの泣き声が、響き渡った。
「どっ、ど、どうするんだ、これ」
「揺らすとか? よしよし、大丈夫、大丈夫」
ふたりの声が重なった。代わろうと腕を差し出せば、アストンも同じ方向に動き、指先がぶつかりそうになる。互いに引っ込め、また別のことをしようとして重なる。泣き声は一向におさまらず、むしろ抗議するように高くなるばかりだった。
「布、暑いのかも」
「いや、寒いのかもしれん」
言い合いながら、そっとブランケットの端をめくる。小さな顔が見えた。赤くなった目尻から、ぽろりと涙がこぼれている。
その露を見た瞬間、アストンがわずかに息を詰めた。まるで革の傷でも見つけたような、慎重で切ない眼差しだった。
「悪かったな、驚かせたか」
低くやわらいだ声に、そんな場合でもないのに、つい胸が震える。
「母さんじゃなくて、怖いだろう……もうすぐ、帰ってくるからな」
アストンは、ぎこちない動作で赤子を抱き直す。革を扱うときの迷いのない手つきが、今はおそるおそる空を撫でるようだった。赤子の背を支えながら、息を潜めて、そっと揺らす。
泣き声はまだ止まらない。それでも、不思議と焦らなかった。この家で、この人の腕の中に、あたたかい命がある。それだけで、何かが報われるような気がした。
「……歌ってみるとか」
思わず口をついた言葉に、アストンは目を丸くした。
「歌?」
「子守のときって、歌うんじゃないかな。安心するのかも」
「俺が歌うのか。……いや、預かったのは俺だな」
少しの間があって、アストンは照れたように視線を落とした。
それから、かすかに口を開く。
低く、あたたかい旋律が、ゆっくりと空気を撫でた。
聞いたことのない歌だった。言葉の端が、どこか古い訛りを帯びている。音の流れは穏やかで、子守歌というより、祈りのように響いた。健やかに、穏やかに、大きくなるように。何ものにも傷をつけられず、幸福な日々を送れるように。
――この街に来て八か月。知らないものばかりの毎日の中で、こんな風に子守歌を聴くのは、初めてのことだった。
音の奥にある生活、記憶、この街の空気が流れ込んでくる。今は赤子を抱くアストンも、かつてはこの家で、同じようにあやされていたのだろうかと思った。
赤子の呼吸が落ち着き、濡れた瞳がそっと開かれる。アストンは安堵の息をつき、ほっと笑った。
この人が父親になったら、こんな顔をするのだろうか。
そう思った瞬間、胸の奥に、甘いような、切ないような痛みが走った。その感情の背を撫でて静め、今は、目の前の子供を覗き込む。小さな手はアストンのエプロンを握り、引っ張って遊ぼうとしていた。
「良っ……かった……肝が冷えた」
「びっくりしたね。お母さん、探してこようか?」
近くの店にいるかもしれない、と行こうとすれば、ここにいてくれ、と縋られる。何も手伝えたわけでもないけれど、少しでも心強く思ってくれるのなら、言う通りにしようと思った。
「しかし、起きてしまったなら、上に連れて行った方がいいかもしれないな」
「お仕事も途中なんだよね。預かってようか?」
「うん……いや……そこまでは……」
アストンは子を抱いたまま作業椅子へ戻り、申し訳なさそうに眉を寄せる。それから、言葉を探すように視線を落とした。
「預かるのはいいんだ。俺も、世話になっているから……。それに、人に預けて仕事をするのは、厄介払いをするようでアニーに悪い。ありがとう、気持ちだけで十分だ」
赤子の名前はアニーというのだと、そのときやっと気が付いた。そっか、と微笑めば、アストンはどこかほっとしたような顔を見せた。ひょっとすると、申し出たことで余計な気を遣わせてしまったのかもしれない。
難しいな、と浮かべながら見下ろした先では、アニーがあどけない顔で何かをしゃぶっていた。
「……何か食べてない?!」
「えっ、あ、何っ……! 大丈夫だ、手袋の親指……にしようと縫ったもので……」
唾液でべとべとになった革袋を見詰め、徐々に声の端が小さくなっていく。害はない、と声を絞り出してから、がっくりとうなだれた。それでもとっさに怒って取り上げないのがアストンの人柄なのだと思うと、つい苦笑いがこぼれてしまった。
「上で見てるなら、私がここでお母さんを待ってようか?」
「そうだな、助かる。ありがとう」
お転婆な赤子はすでに机上を好奇に満ちた目で見始めていて、手で探ろうとしている。アストンが慌てて引き離し、立ち上がったのと――カラン、と扉の鐘が鳴ったのは、同時だった。
「ごめんね、遅くなっちゃった」
「ミアさん……!」
吹雪の中に差し込む陽光を見たかのように、アストンが駆け寄る。母親に子を返すと、こちらへ戻りながら小さく、やれやれ、と呟くのを聞いてしまった。正直な感想に、つい笑ってしまう。
「あらっ、これ何かの部品? ごめんなさい、舐めちゃったの」
小さな手が握り締めたものを見ながら、今度何か買うわね、とアストンに謝っている。その言葉と、今日ここへ来たときのアストンの話が重なり、思わず横から身を乗り出した。
「あの、靴なんてどうですか。これ、アストンが作ったんです」
ふと思いつき、自分の靴を軽く鳴らして見せた。
「まあ、可愛い。いい色ね、とってもおしゃれ」
母親はしゃがみ込んで、爪先を覗き込む。
「でも、今ほしいのは子供の方かも。この子もだけど、真ん中の子の靴も」
「子供靴も、アストンが可愛いのを作りますよ」
ね、と振り向けば、アストンは真面目な顔で頷いた。
「もちろん。……丈夫で、軽くて、柔らかいのを」
「うーん、じゃあ最初の一足は頼んじゃおうかな」
笑いながら赤子を揺らす動作が、まるで踊るようだった。その軽やかさのまま、でもね、と首を傾げる。
「飾りが多いのはもったいないかなあ。すぐ履けなくなるし、値段にもよるし……」
そうして、少しだけ遠くを見るような顔になった。
「身につけるものは、すぐ小さくなっちゃうでしょう。やわらかくて破れやすいから、人にも譲りにくいし……」
指先で赤子の手を撫でながら、静かに続けた。
「本当は、買いたいんだけどね。子どものためというより、私の楽しみのために」
照れくさそうに笑う顔は、日常の光を湛えている。その眩しさに、アストンが少しだけ目を細めた。
「預かってくれて本当にありがとう、買い物が一度に終わって助かっちゃった。……じゃあ、お騒がせしました」
母と子が店を後にする。小さな手がぶんぶんと振られ、こちらも自然と笑って振り返した。
扉が閉まると、鐘の音だけが残る。アストンはしばらく、その音の余韻を聞くように立っていた。
机の上には、やわらかな革片がひとつ。それを指先で撫でながら、小さく呟いた。
「すぐ小さくなる……」
横で首を傾げる。アストンはこちらを見遣ると少し目元をゆるめて、革を置いた。
「収穫祭までは、その靴の完成度を上げるのに費やそうと思っていた。……が、まだほかにも、ありそうだと思ったんだ」
「……やらなくちゃいけないことが?」
問うと、少し考えるような間が空く。そしてアストンははっきりと首を横に振り、いや、と微笑んだ。
「やりたいことだ」
その力強さに誘われて、こちらも笑みがこぼれた。
窓の外では、薄金の風が路地をなでてゆく。
昼下がりを告げる鐘の音の尾がまだ空に漂っていて、街の遠くで、誰かの歌声がかすかに響いていた。
革の香りと陽の匂いが静かに混ざり合い、机の上の影がゆるやかに伸びていく。
その午後の光の中には、まだ見ぬ靴の形と未来の気配が、確かにあった。




