44.香草と少女
午前の診療がひと息つきそうなころ、待合室からかすかな咳の音がした。
扉を覗くと、いつもの小さな患者が母親と弟とともに来ていた。五歳になる女の子――季節の変わり目のせいか、このところ、咳が長引いている。
ティアは立ち上がり、足元を見た。視界に映るのは白衣と、アストンの靴。履き口をまっすぐに伸ばせば、裏地の模様は見えない。けれど、自分の目だけにはその色が映る。机の影で密かに光るその模様を見ていると、ふと胸の奥があたたかくなる。――見えないところにも、自分だけの小さな楽しみを持っていていいのだと、そんな気がした。
「ティアさん、吸入をお願いします。量は前回と同じで」
老医のベネディクトが声をかける。それに返事をして、陶器の壺に香草をひとつまみ入れた。湯を注ぐと、薬草の香りがふわりと立ちのぼり、部屋の空気がやわらかく変わる。女の子は慣れたように壺の口に唇を寄せ、静かに息を吸い込んだ。
「上手。いい子だね」
努めて笑いかけながら、女の子の肩に布を掛けてあげた。
その間、ベネディクトは弟の方を診ようと母親に声をかけていた。
「さて、次は坊やの番ですね。……坊やはどちらに?」
母親が慌てて待合室へ探しにゆき、途端に向こうから幼子のわめき声が上がる。よくある幼児の癇癪を横目に、そっと吸入器の湯気を混ぜ直した。
香草を煮立てた吸入器から、ほの白い蒸気がゆらりと立ちのぼる。タイムとセージ、それに少しのミントを混ぜた香りは、鼻の奥にツンとくる苦みを残し、部屋の空気を薬草じみた温かさで満たしていた。
「ちょっとにおいがきついけど、頑張ってね」
ティアがそう声をかけると、椅子に腰かけた少女はおずおずと頷いて、ガラスのマスクに顔を寄せた。吸い込むたび、胸の奥で細い咳がこぼれる。
湯気の向こうでは、金色の光がゆらゆらと揺れていた。
「はい、おしまい。もういいですよ」
声をかける。少女は安堵の息を吐き、そっとマスクを外した。
器具を片付ける間、しばらく手元ばかりを見ていたのは、少女は当然母親のもとに戻っているだろうと思っていたからだった。けれどふと目をやると、小さな背はまだ、椅子の上に座ったまま。
向こうでは弟が、いやだ、帰ると床に寝転んで騒ぎ、母親が慌てて叱っている。その横で老医が、なだめるように声を落として診察を続けていた。
治療を終えた子供はみな、真っ先に母親の膝へ駆けていく。それなのに、少女はじっとその光景を見ていた。
我慢しているのだろうか、とよぎった。いつも弟の方に手がかかるのを知っているから、自分まで母親を困らせまいとしているのかもしれない、とも思った。
吸入器の金属のふたを閉じながら、小さく息を吐く。苦い香草の残り香が、まだ胸の奥にしみていた。
片付けの手を止める。少女の横顔を見ていると、ふと胸の奥に小さな痛みが走った。
あの頃の自分も、誰かに甘える膝なんて持たなかった。泣きたいときに抱き締めてもらえる場所はなくて、代わりに空を見上げては、一人で息を整えていた。
自分は何をしてほしかったのだろうかと思う。今この瞬間の自分には、何ができるのだろうかとも思う。
母や父の代わりに甘える膝になること? 母の手を煩わせてでも、向き合ってもらうこと?きっと、
そうではない。
ふと、夏のあの海辺がよみがえる。
――途方もない道を、歩いて来たんだな。
潮風の中で、アストンはそう言ってくれた。自分の歩いてきた道のりを受け止めてもらえた、ただそれだけのことで、胸の奥は満たされていった。
誰かが見てくれている。そう感じるだけでこんなにも心強くなれるのだと、あのとき知ったのだった。
気付けば、手の中の器具を持ったまま立ち尽くしていた。
それをそっと台に置き、少女の傍らへ歩み寄る。そして膝を折り、目の高さを合わせるようにして、やわらかく微笑んだ。
手に取ったのは、包帯の端に貼る小さなテープ。ペンを手に取り、その白い面にちょん、と小さな花を描く。黄色い花芯に五枚の花びら、ただそれだけの小さな絵。
「これはね、がんばってるねの印」
そう言って、少女の手の甲にそっと貼りつける。
少女はきょとんと目を瞬かせ、手の甲の花を見つめた。一拍おいて、唇が小さく震え、ぽろりと涙が落ちた。
「ありがとう、先生」
泣き顔のまま、それでもまっすぐに笑おうとしていた。
その横顔に、思わず笑みをこぼした。安堵のようでもあり、自分への苦笑のようでもある。
――この子の方が、ずっと強いな。
胸の奥でそう思いながら、まだ香草の匂いがほのかに残る空気の中で、静かに息をついた。
まだ春の光がこぼれていた頃、仕立て屋からの帰り道に、アストンは口にしていた。
――俺は、生かされているんだよ。貰ったものを一人で抱えているのは、忍びない。
窓の外では、秋の風が葉を揺らしている。カーテンの端がふくらみ、薬の香が次第に薄れてゆく。
自分も同じだった。もらったものが、たくさんある。
一方で、泣いてももらえず、欲しかったという気持ちだけを抱えていたものもある。
けれどそれらをすべてひっくるめて、自分が歩いてきた道の先で、今度は誰かの背中をそっと押せるように。
その思いを胸の奥で確かめながら、片付けを続ける手をまた動かした。
ガラスの器に映った湯気が、ゆるやかに消えていく。その消えゆく白さの向こうに、かすかな未来の色が見えた気がした。




