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43.靴は足を運んでくれる

 週末の朝。ティアが洗濯物を干し終えると、秋風が袖口をくすぐった。

 抜けるような青空の下、陽射しはもうやわらかいのに、空気の底には少し冷たさが混じっている。

 昨日の夕方にアストラ・ポラリスを訪ねたとき、アストンは例の靴の底を打ち込んでいて、朝までには仕上げると言っていた。

 朝までに、という言い方は睡眠を含んでいない気がして心配になったけれど――それでも、その言葉を思い出すたび、胸の奥で小さな灯がともるようだった。


 秋晴れの通りを、風を切るように急いで向かう。

 案の定、休日でも開いていた扉を開けると、作業場にいたアストンの顔がぱっと上がる。そうして、こちらが奥まで行くのも待ちきれないようにやってきた。手には、一揃いの靴。

「わああ……!」

 思わず声を上げた。琥珀色の革は淡く光を含み、踵のあたりがころんと丸くて可愛らしい。折り返した履き口から覗く柄布は鮮やかな赤で、今の季節によく映えた。

 ――仕事の日は控えめに、休日には華やかに。

 話していたその言葉が、形になってここにある。指先で革の感触を確かめると、胸の奥にじわりとあたたかいものが広がるのを感じた。よく見れば、紐を留める部分の革の端はレースのようにカットされているし、縫い目には所々、赤い糸が使われている。履き口を伸ばすと、遠目には落ち着いた靴だけれど、それでもよく見るとちゃんと可愛らしい。

「ここ、糸目が少し浮くだろう」

 アストンが指さすのに、何気なく頷く。途端に、言葉が次から次へとあふれてきた。

「これは、折り返したときに革が突っ張らないように、中の芯を薄く削ってある。外と内で厚みを変えているんだ。ほら、指でなぞってみてほしい。段差がないだろう、ここまで均すのに一晩かかった。削りすぎると形が崩れるし、足首の当たりも変わる。でも、これで上手く折り返せる」

 早口で、息を継ぐのも惜しむように言葉が紡がれる。思わず笑ってしまった。たぶん、徹夜だ。瞳が少し赤い。

 それでも尚、革の縫い目をなぞるアストンの指先は、言葉よりも雄弁だった。薄く削がれた縁を光がなぞり、細やかな赤糸がその線を結んでいく。音楽のように流れる言葉を聞きながら、艶めく革を見詰めた。

「――で、早速試してみてほしい」

 話題が唐突に切り替わり、目を瞬かせた。すぐに、胸が躍る。言われる前から、履いてみたくて仕方がなかったのだ。

 アストンは椅子を勧めてから、片膝をついて靴を差し出してくれる。指先が器用に紐を結んでいくのを、胸のどこかがくすぐったいような気持ちで見つめた。

 立ち上がると、靴は足に吸い付くように馴染んだ。

 一歩、二歩。踵がやさしく支えてくれる。

 その感触に、自然と息がこぼれた。

 心が明るくなる色。爪先が少し上を向いて、軽やか。鏡もないのに、自分の足元から弾むような空気が立ちのぼる気がした。何かを始める勇気まで、この靴がくれる気がする。

「すごい、かわいい!」

 くるりと回る。スカートの裾がふわりと揺れ、折り返した柄布がちらりと光った。アストンが少し笑う。まるでこの靴が、新しい季節を連れてきてくれたみたいだった。アストンはしばらく足元を眺めていたけれど、やがて、ほっと息を吐いた。

「気に入ってもらえたなら、よかった。またしばらく履いてみて、具合を教えてくれるか」

 声が少し掠れている。言葉の端に、安堵が混じっていた。

「もちろん! かわいい、履けて嬉しいな」

 答えると、アストンはふっと笑った。そのままふらりと作業椅子に座り、靴を見詰める。張りつめていた糸が切れたように、肩の力が抜けて、瞼が重たそうに見えた。

「大丈夫? 昨日、寝てないんだよね」

「まあ……。パンだけ買いに行ったら、寝ようかな……急ぎの修理もないんだ」

「私が買ってくるよ。寝てたら?」

「いいのか?」

 アストンは一瞬迷ったようだったけれど、奥に引っ込むと、財布と鍵を持ってきた。

「使い走ってすまないが、これを。家の鍵だ。勝手に開けて置いていってくれ」

 一瞬、言葉を失った。

「家の、鍵……?」

「ああ、すまないが、寝入ってしまっているかもしれない」

 あっさりと言われて、かえって胸の奥がざわついた。そういう無防備なことを言うのは、信頼なのか、単に眠気のせいなのか。どちらにしても、妙にどきどきとしてしまう。

「……じゃあ、行ってくるね」

「ありがとう。丸いやつがいい」

 アストンは片手を振りながら、パンの形状らしいことを付け足した。口調はふわふわと少し幼いし、その動きも鈍い。だいいちパンはほぼほぼ丸い。

 二階へふらふらと上がっていく背中を見送りながら、鍵を手の中でそっと握った。金属の冷たさが、心の温度を確かに教えてくれるようだった。


 店を出ると、朝の光が、靴の爪先をやわらかく照らしていた。昨日までと同じ街路なのに、歩くたびに景色が澄んで見える。足元の靴はまだ革の香りが微かに残っていて、踵を鳴らすたび、胸の奥にその音が響いた。

 ――自分が履くことが、アストンの目指すものの手助けになればいいな。

 そう思うと、嬉しさと照れくささが一緒に込み上げてきて、つい足取りが弾んだ。



 パン屋で買い物を済ませるころには、すっかり心が躍っていた。

 袋の中からは、仄かに甘い匂い。まだ帰るのは惜しい気がして、思い出すように、ソニアの花屋へ向かった。


 角を曲がると、店先に並んだ鉢植えが陽に光っている。小さな木の看板には、ソレイユ・フルールの文字。店頭を覗き込むと、すぐに草花の青い香りがふわりと広がった。

「あ、ティア!」

 カウンターの向こうで、ソニアが笑顔を見せた。

「今日はどうしたの? パン屋さんの帰り?」

「うん。ついでに、お花を一輪買おうかなって」

 そう言いながら、並べられた花の中から、迷った末に小さな白いバラを選んだ。

 包んでもらう間、ふと視線が足元に落ちる。ソニアが気付いて、新しい靴かと目を丸くした。

「うん。前に話してた、アストンの新作なんだ」

 その言葉に、ソニアの表情がぱっと輝いた。

「えっ、見せて! どんなの?」

 少し恥ずかしくなりながらも、裾を持ち上げて足元を見せた。秋の光を受けて、革がしっとりと艶めく。折り返し口の柄が鮮やかで、気持ちまで華やぐようだった。

「わあ……かわいい! ティアっぽい!」

 感嘆の声を上げて、ぐるりと回り込んで眺めてくれる。決して、自分のために作ってもらったわけではないけれど、似合っていると言われるとどうしても口元がゆるんでしまう。

 ソニアはひとしきり褒めてくれてから、思い出したようにこちらの腕の中を見た。

「パン、たくさん買ったね。平日忙しいの?」

「え、あ、うん。これは……アストンのお使いで」

 答えると、目をいたずらっぽく細められる。からかわれる予感がなんとなくして、気恥ずかしくなった。ソニアは包み紙を軽く折りながら、ちらりとこちらを見る。

「アストンくんの中では、もう付き合ってるつもりなんじゃない?」

 花のリボンを結びながら、そんなことを言った。思わず首を何度も横に振る。

「ないよ、ない、それはないと思う」

「そうなの? でも職人さんって、まだ完成前のものを誰に見せるかは、結構こだわるでしょ。ティアを選んだ時点で、もう答えは出てる気がするけど」

 その言い方が冗談めいていても、心のどこかを突かれたようで、胸がきゅっとなる。

 ――まさか。そんなはず、ない。だって、指一本触れられていないのに。

 それでも、あの手が自分の靴紐を結んでくれたときの温度が、まだ足元に残っている気がした。

「ちがうよ、ほんとに。試し履きなんだってば」

 慌ててそう重ねると、わかってるって、とソニアは笑った。そのままカウンターの奥へ引っ込む。そうしてすぐに戻ってきたときには、両手に紙袋を抱えていた。

「じゃーん、うちの畑で採れた野菜! これでご飯作ってあげなよ。絶対、喜ぶから」

「えっ、そんな、悪いよ」

「いいのいいの。ティアの恋の応援セット。新鮮だから今日中にね!」

 冗談めかして言うソニアの声が、店の中に軽やかに響いた。

 あたふたしながらも、結局その袋を受け取ってしまう。胸のあたりがくすぐったいような、少し熱いような気持ちになった。

「ありがとう、ソニア」

「がんばってね。職人のハートも、時間かければちゃんと仕上がるから!」

「もう、からかわないでよ」

 二人で笑い合うと、通りから秋風が吹き込んできた。包装紙の端がふわりと揺れる。


 店を出ると、通りの向こうで金木犀の香りがした。

 両腕の袋を抱えたまま、もう一度、足元を見下ろす。陽に透ける革の光が、小さな勇気のように見えた。

 ――この靴で帰ったら、何をしよう。

 そう思うと、胸の奥がそっと高鳴った。腕に抱えた袋を見下ろすと、パンの香ばしい匂いと、ソニアからもらった野菜の青い香りが混ざり合っている。そのどちらにも、ほんのりと花の香りが重なっていた。


 扉の鍵をそっと開けると、家の中はしんとしていた。

 靴音が木の床を軽く叩く。こつ、こつ、と乾いた音が広がる。二階からは寝息のような静けさが降りてきて、思わずふっと頬がゆるんだ。

 居間のテーブルの上には、昨夜の名残りがあった。冷めた珈琲のカップ、糸屑の光、削り粉の匂い。それらがまだ、彼の時間の温度を宿している。

「少しだけ、借りるね」

 誰にともなくそう呟いて、袖をまくる。袋から野菜を取り出し、刃先で刻みはじめた。包丁がまな板を打つ音が、静けさの中に小さく弾ける。

 火を入れると、鍋の中から湯気が立ちのぼった。人参の赤、葱の緑、じゃがいもの白。色彩が熱にほぐれてゆく。湯気が光をまとうのにつれ、家の中が、ゆっくりと温まっていくようだった。

 ふと、足元を見下ろした。新しい靴の爪先が、タイルの上できらりと光を返す。その煌めきが、まるで背中を押してくれるようだった。

 ――この靴を履けば、どこにでも行ける。

 そんな思いが、胸の奥に静かに灯る。


 鍋をかき混ぜる手は、いつの間にかやさしくなっていた。火を止めると、スープの香りが広がる。ラッピングも何もないけれど、眠る人への、ささやかな贈り物だと思った。


 母親らしい人の肖像画の傍で埃をかぶっていた花瓶を洗い、花を生ける。白い花びらが湯気に揺れ、ひととき、光を纏った。

 ――おやすみ。お疲れさま。

 声に出すことはなく、心の中でそう囁いた。


 見上げた時計は十二時ちょうど。靴の底が、タイルを軽く鳴らす。

 小さな音は、その先に続く新しい時間を告げるように、部屋の静けさにほどけていった。


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