42.学びの旅路
今日は宿泊客が多いから、アストンのところへ持って行くおかずがない――とは、朝のうちに聞いていた。だから診療所の仕事からの帰りは、そのまま真っ直ぐにアストラ・ポラリスを目指した。
けれど、秋の日は落ちるのが早い。通りを渡るころには、半月が淡い紫の空に浮かんでいた。点灯夫はまだ街灯を点けに回っていないのか、工房の前は看板の星だけが仄かに光る。窓からは灯りこそこぼれているけれど、厚い扉を隔てているせいで、足元は薄暗くおぼつかなかった。
けれど、その明かりの先に自分を迎える声がある気がして、ティアはそっと扉を押した。
真っ先に視界に入ったのは、作業机の上。そこに裾の折り返されたブーツが見え、思わずあっと声を漏らした。が、近づいてよく見れば、それは革ではなく厚紙である。
「それ、もう形になったの?」
問いかけると、アストンは針ではなく定規を手にしていた。
「展開図がひとまずできた。厚紙で立体にして、折り返しや厚みの干渉を確認している」
そう言いながら、仮組みの靴を傾け、光の下で縁を確かめている。薄い紙がふっと影を作り、その向こうに、完成の輪郭が見えるようだった。
「新しく作るのって、時間がかかるんだね」
「……そうだな。ただ、これができれば、あとは早い。一緒に考えてくれたお陰だ」
口調は淡々としているのに、どこか息が弾んでいるようでもある。
きりのいいところまで進めたいらしく、申し訳なさそうに、もう少しだけ続けてもいいかと尋ねてきた。
「うん、もちろん」
笑いかけて、カウンターに腰を下ろす。今日はそのまま提げてきた鞄からノートを取り出すと、机に置いた。
紙の重なる音が、夜の工房に静かに落ちる。ノートを開くと、昼間の陽射しの白さがふっと脳裏によみがえった。診療所の窓辺には乾かした薬草が吊るされ、硝子瓶の中で、陽を透かして淡い影を落としていた。
ページの端に走り書きした文字をなぞりながら、昼間のベネディクトの声を思い出す。
――煎じすぎると、苦味が増すだけで効能はむしろ落ちるんですよ。
昼の光の中で、白髪まじりの眉が少しだけ動いた。
煮るほど成分が強く出るわけではない。時間は、必要な成分が逃げすぎないためにある。
その言葉を反芻しながら、散らばっていた草ごとの煎じ時間のメモを表にまとめ直す。昼間は薬草の名を聞くたびに迷い、背後から静かな声が導いてくれるのを待った。けれど、いつまでもそうしてはいられない。
ページを開くたび、紙の音がやわらかく響く。書きつけるごとに、言葉のひとつひとつが自分の内側を並べ直してくれる気がした。
昼の声を思い返しながら、静かな夜にもう一度、誰かのぬくもりをなぞる。
そうして鉛筆の先で線を引いていると、不意に影が差した。
顔を上げると、アストンがすぐそばで覗き込んでいた。思わず鼓動が跳ねる。集中していたぶん、近すぎる距離に息が詰まりそうだった。
「……終わったの?」
「ああ、きりのいいところまで」
軽く笑って、アストンはノートを見詰める。
「仕事の記録か?」
「うん。今日、教わったことの復習」
「すごいな、教科書みたいだ。自分で書いたのか」
純粋な瞳で称賛を向けられるのが、やけに気恥ずかしかった。
書いた、と言ってもすべて人から教わったことであるし、字は丁寧でもきれいでもない。珍しくも、好奇の目で興味を持って覗かれて、少し頰が熱くなった。
「書くだけなら、別に……覚えられてるかが心配」
ためらいながらもノートを差し出して、手書きの表を指差す。
「左の頁のここ、薬草をいくつか読んでくれる? できれば、順番はばらばらで……」
「ここか? ラナトール?」
「うん。時間を言うから、合ってるか見てほしいな。ラナトールは7分」
アストンは頷き、エプロンで手を拭ってからノートを受け取ってくれた。
「ミルサン」
「11分」
「ヴェルド草」
「半端だったんだよね……6……4分半」
「カレドリ」
「……9分?」
「6分」
つい唸れば、喉の奥で笑うような声が上から降る。それが珍しくて、ぽうっとして見上げてしまった。アストンは目を細めて、ノートを返してくれる。
「だいたい覚えてるじゃないか」
「まだ全然……時々テストしてもらおうかな」
少しだけ下心が出て、そんなことを口走ってしまう。
カウンターの上に置かれたノートと、向かい合う人。指先で紙の端を撫でると不意に、強い懐旧の情に引き寄せられた。
脳裏に浮かぶのは、いつかの夕方の教室。薄暗い窓辺からは、橙の光が差していた。
木の机を挟んで座り、向かい合う友達の顔。互いに問題を出し合いながら、上手く覚えられなくて、語呂合わせを考えては笑い転げた。
声を潜めた笑い声が、長い廊下に響いていったあの頃。
そのことに思い当たった瞬間、胸の奥がふっと温かくなって、そして少し痛んだ。
「ティア?」
名前を呼ばれ、はっと我に返る。アストンが心配そうに覗き込んでいた。
「……昔、こうやって、友達と試験の勉強をしていたことがあったの」
自分でも驚くほど自然に、言葉が零れた。
「……そうだ、友達がいたんだ」
声の端が微かに掠れた。
人の足を引っ張ってばかりで、何の役にも立てなかったあの頃を思い出すたび、今でも胸が締めつけられる。だから故郷のことは、ずっと記憶の底に閉じ込めてきた。
「でも……楽しいこともあったんだなって。最近、やっと少しずつ、思い出せるようになってきたの」
微笑もうとすると、喉の奥が少し震える。
アストンは穏やかな瞳で、そうか、とだけ言った。その声には、詮索も咎めもない。ただ、静かな受容のあたたかさがあった。胸の奥に、じんと灯るような温もりが広がる。
思えば、かつての教室でも、今この瞬間も。誰かがそばにいる。
そのあいだに流れる静けさや、紙の音、問いかけの声。そういったものが、ずっと自分を支えてきたのかもしれない。学ぶというのは、孤独なようでいて、本当は小さなぬくもりに囲まれた時間だったのだろう。そうした延長に、今の自分がいる。
「……ありがとう。聞いてくれて」
思わず零れた言葉に、アストンは目を細めてくれる。
「これくらい、いくらでも」
短い言葉であるのに、染み込んだ優しさがあたたかく伝わり、口元がほころんだ。ノートを閉じ、鞄へ片付ける。続いて小型の辞書も仕舞おうとすると、アストンの目が留まった。
「これも覚えるのか?」
「これ? ううん、辞書だよ」
古本屋で買ったものだけれど、こちらではあまり一般的ではないのだろうか。ぱらぱらとめくって見せても、全くぴんとこない顔をしている。
「言葉の意味を調べるのに使うんだよ。えっと、例えば、『懐かしい』って胸がきゅっとなる感じだけど、もっとうまく説明したいとして」
頭文字を探し、めくっていく。二文字目、三文字目と合わせながら頁を行き来していると、低い呟きが紙に落ちた。
「……もう戻れない場所の焚火が、今に熱だけを伝えている感じ」
紙を滑らせる手を止める。見上げれば、アストンは小さく首をかしげる。その心から出た言葉を、無機質な表現に直してしまうのは野暮な気がして、指を挟んだまま辞書を閉じた。
「それでいいと思う……」
「いや、何て書いてあるんだ」
「かつて親しみ馴れた人・物・事を思い出して、心に慕わしさを覚えるさま……」
読み上げたのは味気のない文字列だったけれど、へえ、と声を上げて、アストンの目がほんの少し丸くなる。
「面白いな、人によってずれがあるのか。何でも書いてあるのか、『寂しい』は?」
身を乗り出して真っ先に挙げた単語に、どきりと胸が跳ねた。アストンの頭にまず浮かんだ語がそれであったことに、意味はなかったのかもしれない。けれど一瞬黙ってしまい、それを誤魔化すように口を開いた。
「……一人ぼっちで、胸がきゅっとなる感じ。アストンは?」
「さっきもきゅっとなってなかったか? ……温もりを探し求めても、手の先に誰も触れない感じ」
言い合い、答え合わせのように、頁を開く。
「あるべきはずのものが欠け、心の虚空なさま」
なるほどな、と明るい感嘆の声が上がる。まだアストンの目を通した世界を見ていたいというのに、そこで、無情な夕刻の鐘が鳴った。長く響き渡る音に、こちらとは違う意味で名残惜しそうな視線が落ちる。
「気になるなら、これ置いていこうか?」
辞書を押しやると、アストンはわずかに逡巡してから、我に返ったように首を横へ振った。
「いや、今読み耽るとまずい。……が、そのうち、借してくれ」
新しい玩具を手放す子供のような目に、つい笑ってしまった。
熱中するところのあるものだから、貸せば、針や革に向かうときの真剣さのまま、頁をめくり続けるのかもしれない。
文字どおり枕元、ベッドの上にまで本の転がっていた寝室がよみがえる。ランプに灯りをともして、眠る前に寝転がって読み耽るのだろうか。行儀の悪さとアストンがうまく結びつかなくて、けれど想像すると、なんだか楽しみが増えるようだった。
――でも、アストンのことばが矯正されてしまったら、とても残念かもしれない。
悩むうちにも、宵の街を渡る風が、開いたページの端をふわりとめくった。窓の外では、半月が雲の切れ間にかかっている。後ろ髪を引かれながらも立ち上がり、鞄の重みを肩にかけた。
明日の自分のために、覚えておきたいことがまだたくさんある。夜はまだ終わらない。それはきっと、アストンも同じだろう。
ふと振り返ると、ランプの灯が二人の影を長く伸ばしていた。
同じ光を分け合いながら、別々のものに向かう。距離はあるのに、不思議と寂しくはなかった。
先ほど、アストンは言った。寂しいとは、温もりを探し求めても、誰も手の先に触れない感じだと。
そして、靴の仮組みを見遣りながら、こうも言っていた。――一緒に考えてくれたお陰だ、と。
ひとりきりの家で過ごす彼の中の寂しさも、幾分かぬくもりの中に溶けていればよいと思った。
扉を開けると、ひんやりとした夜気が頬を撫でる。
月の輪郭が雲の合間に滲み、遠くで犬の声がする。息を吐けば、温みはやわらかくほどけて空に消えた。
「おやすみ。今夜は晴れているから、気を付けて」
見送る声に手を振って、いつの間にか明かりの灯されていた道へと歩き出す。
明日もまた、誰かの声がある。それだけで、夜の静けさがやわらかくなる気がした。




