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41.秋よりずっと前から君を

 通りを抜けた角の掲示板に、金色の紙が風に揺れていた。

「収穫祭」の文字が、夕陽に照らされてきらりと光る。葡萄や麦の絵柄が縁取りに踊り、紙の端には来月の日付と、「飲食部門」「制作部門」の文字。

 ――秋の祭りだろうか。

 胸が弾むと同時に、春の祭りの、出店が街中に立ち並ぶさまがよみがえる。

 夕暮れの風は、夏の名残をわずかに抱きながらも涼しく、店の軒先では干されたトマトが薄くしわを寄せていた。通りからは、荷馬車の輪の転がる音がかすかに響いてくる。

 ティアは立ち止まり、紙をもう一度見上げる。

「大賞には賞金……」

 呟き、並ぶ数字の桁を思わず数える。春を祝う祭りは街中に花がかかり、皆で季節の到来を楽しむような、のどかで鮮やかなものだった。収穫祭とは、それとはまた雰囲気が違うのだろうか。

 情報の少ない紙はかえって、この街では馴染んだ行事であることを語っているようだった。



 祭りへの想像を膨らませながら宿に戻ると、厨房には香ばしい匂いが漂っていた。

 油をはねさせながら、マルタが大鍋のスープをかき回している。窓から射す光が橙色に傾き、刻まれたハーブがまな板の上でほのかに揺れた。

「ただいま。ね、マルタさん。さっき収穫祭の貼り紙を見たの」

「ああ、今年もそんな時期かい。商店街が張り切ってるね」

 木杓子で味を確かめながら、マルタは笑った。

「広場で店を出したり、腕に覚えがあれば大会に出したりね。うちは宿屋だからねえ、食べ物の屋台だけなら何度か出したけど……まあ、本職の料理屋には敵わないよ」

 湯気がゆらりと上がり、鍋の中で野菜がやわらかく沈んでいく。窓の外では、早くも虫の声が始まっていた。胸の奥が、切ないほどに温まっていく。

「はいよ、出来上がり。アストンのところへ持ってってくれるかい」

 マルタが蓋つきの木皿を包みながら言った。煮込みの香りに、焼けた肉の匂いが混じって、厨房の空気がいっそう温かくなる。

 受け取りながら、思わず唇が尖った。

「大会、出たらいいのに。マルタさんのご飯、おいしいのになあ」

「まあ、嬉しいこと言ってくれるね」

 マルタは器を渡しながら、ひとつ肩をすくめた。

「でも、大会は若い者の舞台だからね。そうだ、ティアちゃんが出てみたらどうだい? 手伝うよ」

「えっ?! 場違いですよ」

 宿屋どころか、今は薬剤師だ。軽口とは分かっているけれど、包みを抱えたまま首を大きく横に振った。

「大丈夫、大丈夫。上の方は本職の戦いって感じだけど、うちみたいに料理人じゃないもんも賑やかしに出してるよ。この筋の肉屋なんて、去年は九つのお嬢ちゃんの料理を出してたんだから。せっかくの祭なんだ、楽しまないと損だよ」

 マルタの笑い声に背を押されるようにして、宿を出た。

 ――それなら、気軽に参加してみようかなあ。

 そう浮かべながらも、先週、炭にしてしまった魚がよみがえる。どうしようかと悩むのも、また楽しい時間だった。

 外はもう薄暮で、通りに並ぶ店の二階にひとつ、またひとつと灯りがともりはじめていた。風がひんやりとして、どこからか焼いた栗の香りが漂ってくる。

 遠くの空には、金色の雲が細く伸びていた。



 アストラ・ポラリスの扉を開けると、革と油の匂いがこぼれ出た。作業台の前で、針を持つ手が止まり、顔が上がる。

「こんばんは。今日はトマト煮込みだよ」

「ありがとう。そこに置いておいてくれ」

 アストンは針の先を布でぬぐう。その手元には、靴の木型。縫っているのは先日話していた新しいブーツなのだろうか、それとも普段の商品なのだろうか。手元を見ても、自分には想像もつかない。アストンの頭の中には完成形も、そこまでの展開図もあるのだろうと思うと、不思議な心地だった。

 広い机に散らばる革の端切れを何となく眺めながら、口を開いた。

「そういえば、収穫祭のポスターを見たよ。大会もあるんだよね、楽しみだね」

「そうだな。街の工房から沢山出るはずだ」

 アストンは短く答え、縫い目を指で押して具合を確かめている。光が傾き、糸の影が細く机に落ちていた。

「アストンも、出たことあるの?」

 問いかけると、手が一瞬止まる。

「……いや。去年までは、そんな気分でもなかったから」

 それ以上は言葉を足さなかった。

 アストンが針を針山に刺すのを見届けてから、少しだけ目線を落とす。初めて訪れたころの、閉じた巣のような空気が、肌に思い出された。カウンターの向こうで、静かに、長く、息が吐かれる。

 一拍置いて、アストンの顔が上がった。

「でも、今年は出るつもりだ」

「そうなんだ、いいね!」

 反射的に笑顔になる。花暦祭のときも店を開けていたけれど、広場での出店となれば、もっと祭りの輪に加わることになる。楽しいことに加わる気になるというのは、よいことだと思った。

「私、何かの大会なんて久しぶり。楽しそうだね。にぎやかで、わいわいする感じで」

 アストンは少しだけ口元をゆるめたが、その笑みはどこか硬い。

「……そうだな。まあ、楽しむというよりは」

「……よりは?」

 問い返した言葉に、アストンは目を伏せた。

「覚悟が要る」

 静かな声だった。指先が、革に縫い込まれた糸の跡を辿る。

「選ばれる側か選ばれない側か、評価が審らかにされる」

 その横顔を見つめながら、胸の奥が絞られるように感じた。


 マルタの何気ない言葉の端がよみがえる。

 ――上の方は、本職の戦いって感じだけど。

 その「上の方」とは何であるのかを、ようやっと理解した。自分にとっての大会は、ただの楽しみだった。けれど、アストンにとっては。親の代から続く生業への矜持と結びついたものであるのだ。

「……そっか」

 気づかないうちに声が小さくなっていた。立ち上がったアストンの、こちらへ寄る気配がする。影がカウンターへ落ち、木の肌へ滑らされた手の甲が視界に入った。

「――だから、出てみたい。やっと出られる気がしている」

 顔を上げる。熾火のような熱の灯る瞳を見詰め、胸の奥が絞られるように感じた。


 ――「でも」出てみたい、ではなかった。だから、出てみたいと言った。

 晒されることを知っているからこそ、アストンは参加をするのだと言う。

 その言葉に、胸の奥が熱くなった。

 窓から舞い込む風は、秋の匂いを運んでくる。革の匂いと混ざって、胸の奥にほのかな熱を残すような、静かな夕暮れの香りがした。カウンターに落ちる夕陽の色を、ぼんやりと眺める。光が少し傾くたび、アストンの手の甲に影が走った。


 ふと、その指先に小さな傷がいくつも増えているのに気づいた。前に見たときよりもずっと、細かい切り傷や刺し傷、火傷の痕が目立っている。

「……手、痛そう」

 思わず言うと、アストンは視線を落とし、少し苦笑した。隠すように、拳を握りこんでしまう。

「見苦しいな。ステッチの練習をしてるんだ。そのほかにも、色々」

「練習?」

「手縫いが不得意なんだ。縫い幅が均等にならない」

 先日、一足目の試作を合わせたときも、縫い跡を見て同じことを口にしていたのを思い出す。

「避けていたんだ。時間をかけると、作る数が減り、単価が上がる。買い手のことを思えば、そこに手をかけるのは我が儘に思えて」

 ふっと、短く息が吐かれる。

「それを言い訳にして、修練を怠っていた」

 淡々とした表情で、そう言い切った。

 心の中では首を振りたかった。怠っていた、ということはないだろう。自分が訪れるわずか三十分ほどの間こそ、時折こうして手を止めるけれど。店を訪れたときに休憩をしている姿を見たことは、この半年ほどの間、たった一度もない。誰もが店を閉める、休日の午後でさえ。

 ただ一人で店中の商品を作り、修理を引き受け、店番をして、帳簿をつけ、家事を片付け、もう誰にも教えてもらえない技術を本で補い。その中で目を瞑っていたものがあったとしても、誰も咎めはしまい。

 ――アストン本人以外は。

 それが何よりも、大事なことなのだろう。自分で自分を認められないことの痛さは、よく、知っている。だから、アストンの発言を否定しまいと、出しかけた言葉は飲み込んだ。

「……でも、今作りたいものは、曲線も飾り縫いも多い」

 そう続け、掌がゆるやかに開かれる。節と傷だらけの手。無意識に撫でるように、指先が擦り合わされる。

「思いどおりのものを完成させたいというのもあるが。……それ以上に、出来る自分になりたいと思う」

 胸を突かれる。その目に宿る熱が、工房の空気を変えた気がした。

 窓の外では、夕陽が金の残光を空の端に残し、沈みかけている。橙の光の中で、針山に刺さる銀色がまた一度、静かにきらめいた。

「そう言えるの、素敵だね」

 口をついて出てから、少し頬が熱くなる。けれど少し視線を上げれば、戸惑うような顔があった。

「今のは……前にティアが言っていた言葉なんだが……」

「えっ?! やだ、そんなこと言ったっけ、いつ?」

 自画自賛が恥ずかしくて頬に手を当てれば、半年ほど前、と小さく答えが返った。逆算をすれば、ここに来てまだ間もない頃だ。

「そんな前のこと、どうして覚えてるの……?」

 熱がのぼったまま尋ねれば、アストンは虚をつかれたような顔をする。そうして目を瞬かせたあと、ふっと笑った。

 その表情に、胸の奥の照れが、違う熱に変わる。夕陽の光が、窓辺に吊られた革を淡く照らしている。針のきらめきも、アストンの眼差しも、どこか同じ色に見えた。


 自分は、この工房の中では何もできない。

 靴づくりの手助けも、技の支えにもなれない。

 けれど――あの傷だらけの手の痛みを、少しでも和らげることなら。


 窓の外では、夕暮れの色がいっそう深まっていく。橙と群青の境に、針の光がひときわ細く瞬いた。


 明日は、傷によく効く塗り薬を持ってこよう。

 それが、今の自分にできる一番の応援だと思った。


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