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40.ドンブクを追って

 朝の光が、湿り気を帯びた土を照らしていた。

 夜の露は、麦の穂先にまだしっとりと残っている。風が吹くたびに、畑の青い匂いがふわりと漂った。ティアはブーツの底で泥を確かめながら、一歩ずつ畦を進んだ。

 その先で、農具を手にした年配の男が腰を曲げ、地面の罠を覗きこんでいる。陽を受けて、鉄の輪がどす黒く光った。

「おはようございます」

 声をかけると、男は顔を上げ、笑みを浮かべた。

「おお、来てくれたのか。悪いな、休みの日に」

 近くに寄ると、錆びついた罠が壊れたまま並べられていた。金具の継ぎ目がぐずぐずに腐食していて、触れれば崩れ落ちそうだ。

 その様子を見ながら、昨日の診療所での会話を思い出した。


「ドンブクが作物を荒らしに来てよ。あいつら、鉄を腐らせるんだ。一晩で罠が三つともボロボロでよ、おまけに金具が跳ねてこのざまだ」

 そう言って、包帯の巻かれた手を見せながら、男は困ったように嘆いていた。

「猟師に頼んだら『北の森の熊が先だ』って言われちまってよ。今年はどんぐりが減ったからだろうなあ、あっちもこっちも出やがる」

 だから、思わず口をついて出たのだった。

「よければ、明日行きましょうか。私、イヌミー族の街で育ったんです」

 言い切って告げたとき、心臓はうるさいほどに鳴っていた。


 朝露を踏みしめながら、肩にかけた荷の重みを確かめる。

 今日は獣を退ける日。そして、アストンが作ってくれた靴の試しの日でもある。

 ブーツの革は薄い栗色で、靴紐の下、羽根の部分には鮮やかな黄色の革が縫い留められている。爪先近くには、細やかな飾りの粒が陽を受けて光る。昨日の夕方、アストンは靴紐を締めてくれながら言った。

「土台の革は水や泥に強いが、染料が入りにくいんだ。代わりに、模様の目立つ革を中央に縫い込んだ。縫い糸にも色を入れてみた」

 縫い目の歪みが目立つがひとまず目を瞑ってくれ、と悔しそうに口にした。その様子を見ると尚更、沼に踏み入るのは申し訳ないし、惜しかった。けれどそれを断片的に伝えると、迷いのない瞳で首を振られたのだった。

「いや、いい。何度でも作るから、気にせず履き潰してくれ。耐久性や動きやすさも見たい」

 それならば、試すのは今しかない。

 胸の奥に静かな火が灯る。風が吹き抜けて、沼の方で何かがぱしゃりと水を跳ねた。どうやら、もう来ている。

「見てくれよ、泥の跡が増えてる。ほら、こっちの畝の端にも」

 男性の指さした先に、丸い足跡がいくつも並んでいた。小さな前足と、ずんぐりとした後ろ足。深さがまちまちで、足跡の向きが散っている。

 ――ドンブク。

 沼地に巣を作り、夜になると活動をする魔獣。臆病で行動も鈍いが、泥を吐きかける習性がある。その成分が金属を錆びさせ、人の肌にも刺激を与えるのだ。

「頼まれてた弓はこれだが、仕留めても森からどんどん来るぜ。どうするんだ?」

「一匹仕留めれば充分です。それの臭いに細工をして焚けば、群れを追い払えます」

「追い払ってもまた戻ってくるんじゃないのか?」

「いえ。縄張りを乗っ取られたと思って、離れていくんです。臆病なので」

 男は目を丸くしてから、ほう、と息をついた。

「前はドンブクよけの薬を買ってたんだよ。時期はずれで売ってなかったんだが」

「その薬も、中身はドンブクの臭い袋ですよ。材料があれば、自分でも作れます」

「頼もしいこと。そんな洒落た靴履いて大丈夫かと思ったが、期待できそうだ」

 男性は笑う。それに小さく頷いて、弓を担ぎ直した。陽は高く、空はどこまでも青い。湿った風が吹くたび、足もとで水がきらりと光る。

「では、行ってきます」

 アストンの作ったブーツを泥に踏み入れた。栗色の革が濡れ、陽に照らされて深く光る。その感触を確かめながら、作物の陰で、静かに弓を構えた。風が止む。沼の奥で、何かがぴちゃりと水を打つ音がした。

 丸っこい胴体に黒褐色の毛並み。鼻の先にまだ泥がこびりついていた。

 息を詰め、矢を番える。

 記憶の底からE評価の文字がふと浮かび、弓を引く腕がわずかに震えた。狙いを定めようとするたびに、矢尻がかすかに揺れる。

 落ち着いて、焦らず。自身に言い聞かせ、一拍、二拍。

 獣が泥の中で足を取られた瞬間――弦が鳴った。乾いた音が空気を裂く。だが、矢は狙いよりも浅く入り、獣の肩をかすめた。

「しまっ――」

 唸り声。ドンブクが跳ね起き、泥を蹴って逃げようとする。とっさに足を踏み出した。

 滑る。泥が跳ねる。それでも構わず、もう一本の矢を掴む暇もなく腰の短槍を引き抜いた。

「逃がさないっ……!」

 突き出した槍の先が、泥を割って獣の喉元をとらえる。

 一瞬、ぬるりとした抵抗。そのあと、獣の体がぐったりと沈んだ。息を吐き出す。

「……は、当たった……」

 肩で呼吸しながら、泥に沈んだ槍を引き抜いた。

 手のひらが、かすかに震えている。男性が駆け寄ってくる。

「で、どうするんだ、このあと。火を焚けばいいのか?」

「はい、お願いします」

 獣の首元から、小さな袋状の腺を取り出す。それと、持ってきた薬草を焚き火の中にくべると、焦げた匂いに混じって、独特の臭いが立ち上った。ほどなくして、森の奥から鳴き声。

 群れのほうがざわめき、やがて一斉に引いていく。

「……すげえな。ほんとに効いた」

 静寂が戻る。弓を拾い、ぐるりと辺りを見渡しても、水面にはいくつかの波紋が残るだけ。雲が切れて、日差しが強くなった。

 ――退けられた。

 密かに、長く、息を吐く。そうしなければ、涙が滲んで零れてしまいそうだった。今更、恐怖で手の力が抜ける。

 ドンブクが怖いのではない。イヌミーだと明かしたうえで、何もできず、役立てないのが怖かった。ああ、けれど、拙く、矢の先もぶれたけれど。

 知識だけではない。傷を負い、息が上がり、それでも獣を追い掛けた過去が、こうして誰かの役に立った。そのことに、瞳の奥が熱くなった。

 見下ろせば足もとでは、アストンのブーツが泥を弾いて鈍く光っている。

 一緒に駆けてくれた靴は、動きを邪魔することもなかった。泥の中で引っ掛けたのか、装飾のビーズを留めていた糸が一箇所だけ切れていたけれど、そのほかは縫い目にも布地にもほつれはない。

 遠くで風が木々を揺らす。気配が消え、かわりに、土と草の匂いだけが満ちていた。


 報酬は断るつもりだったけれど、思い直して、仕留めたドンブクの皮を工房でなめしてもらうための代金を出してもらうことにした。

 それだけでは悪いと、男性は野菜を山ほどくれた。荷の詰まったずだ袋を両腕に抱えると、少しずっしりして、心もあたたまる。そうして、草と土の匂いが心地よい道を戻っていった。



「ビーズは泥が詰まるな。もっと裾側に上げるか」

 昼過ぎ、ざっと洗ったブーツを提げて店に赴けば、アストンはいつになく険しい表情を見せた。

 作業台の上には、いくつもの縫いかけの革。その横に置いた革靴の表面を指先でなぞりながら、眉間に皺を寄せている。

「私は、たまたま泥に浸かっちゃったから……」

「いや、雨の日も泥は付く。飾りのために都度洗う羽目になっては、本末転倒だろう」

 金具がかすかに鳴り、光が革の表面を滑る。不備を指摘してしまったような気まずさがあって黙れば、乾きかけた泥の匂いが、微かに届く。けれどアストンは気にも留めないようで、さっと顔を上げた。

「女性用にしては厚めの革なんだが、重くなかったか? 男性用よりは薄く叩いたんだが……」

「私はこのくらいがいいよ。でもヒトの女性は非力だからなあ……。ほかの靴屋さんで重さ見てこようか?」

「助かる。ありがとう」

 アストンは言いながら、革の端を指の腹で撫で、光に透かすように眺めた。

「……やっぱり薄く叩くと波打つな」

 悔しそうに唇を噛み、低く呟く。そんな横顔を見ていると、何か褒めたくて仕方がなくなった。言葉が口を突いて出る。

「でも、見た目はとってもかわいいよ。模様の部分が革になったのも、アストンらしくていいと思う」

「休日も、仕事の日も履けそうか?」

 問われて、息を詰める。とっさに、頷けなかった。

 休日は履ける。仕事の日だって、本当は履きたかった。足元でこの靴が煌めいていればきっと、嫌なことがあっても、失敗をしても、背を押してもらえると思った。

 一方で。

 ――そんな洒落た靴履いて大丈夫か。

 男性の何気なくこぼした言葉がずっと、棘のように、胸の奥に刺さっていた。

「……靴が悪いわけじゃないの。私がもっと最初から、頼り甲斐があればよかっただけだから。ただ、それが理由で、仕事のときは履かない人がいるかも……ごめん、こんなこと言って」

「いや。ありがとう」

 アストンは一度だけ頷いて、しばらくブーツを見つめた。自分が作った靴を、少し申し訳なさそうに指でなぞる。

「飾り部分を外せるように……いや、面倒だな」

 革の手触りを確かめながら、ふと顔を上げる。

「そうだ、それなら、履き口を折り返し構造にして、裏地に模様を貼ろう。折り返せば裏地が見えて華やかになるし、隠したいときは伸ばせばただのブーツになる。どうだろうか」

「いいと思う! 色んな服にも合わせやすくなりそう」

 アストンの瞳がゆるみ、それから、光が灯る。よし、と一度頷いて、もう片方の靴を手に取った。

「なら、舌革が折り返しに干渉しないようにしないとな……」

 思考に落ちたのを表すように、その声が途切れる。革を撫でる指の動きが止まり、視線は靴の甲に沈んでいった。店内には、窓から射す光と、革の匂いと、静けさだけが残る。その横顔と、手を見詰める。

 今日小さく刺さった棘は、心の持ちようでしか避けられないものだと思っていた。

 けれどアストンはそれを、靴を変えることで、解決しようとしてくれた。単に手が器用で、技術力があるというだけではない。この性根が、彼が職人であるということの証のようだった。

 胸の奥が熱を持ち、横顔の眩しさに目が逸れる。それに、自分の拙い言葉が、ほんの少しでも役に立ったのなら、それも嬉しかった。

「それじゃあ、頑張ってね。根を詰めすぎないで、ちゃんと食べてね」

「……うん」

 靴から視線は外れず、生返事が戻る。つい苦笑がこぼれて、包みをカウンターに置いた。

「お昼の残りだけど、晩に食べてね」

「うん」

「容器二つあるけど、赤い方は私が作ったからね」

「うん。……えっ、何て」

 顔を上げて、どっちだ、と問い直しながら寄る反応がなんだか恥ずかしくて、俯いてしまう。するとアストンも何か思うところがあったのか、包みを覗かずに、またそろそろと作業机に戻ってしまった。けれど、エプロンの端を意味もなく弄んでいる。

「……赤い入れ物の方。私が作ったから、マルタさんみたいに上手じゃないんだけど……」

 ぱっと顔が上がり、食べる、ありがとう、と短い言葉が勢いよく被せられる。

「いや、昼食がまだだったから……食べる……」

 急に言い訳めいた口ぶりに、少しだけ鼓動が速くなった。先程までの真剣な横顔とは違う、年相応のような表情が、胸の奥に熱を置いていく。アストンは所在なさげにエプロンの裾に触れ、何か言いかけては黙り込んだ。思考に合う言葉を、まだうまく見つけられないかのように。

「……しっかり食べて、頑張ってね」

 つられて、そんな何気ない言葉を出すのにも、声が少し震えてしまった。


 店を出ると、昼下がりの光が白く揺れていた。

 朝は気づかなかったけれど、初秋の空は驚くほど高く澄み、風がやわらかく頬を撫でていく。


 扉を押して外に出ると、ひと筋の風が頰を撫でた。店の中から流れ出る革と油の匂いが、外気に混じってほどけていく。その向こうには、初秋の干し草や、土の香が立ちのぼっていた。

 好きな匂いだと思う。手のひらに残る温度のように、少し温かなにおい。

 石畳の上を歩き出す足音は、空の澄んだ青さに溶けていった。


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