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4.何かに繋がるあなたの/私の手

 ティアは、アストンの店の前で、意味もなく靴紐を結び直していた。

 理由のひとつは、アストンは店先にいるだろうかという緊張。もうひとつは、革手袋がどんな仕上がりになったのだろうかという不安だった。


 ――革手袋。あの日森で魔獣に食い破られた、自分のものだ。高いものではないが、ふるさとの数少ない名残として、ほつれても縫い直して使っていたものだった。

 直してもらえるなら、すぐにでも頼みたいとは思った。しかし一週間先の宿代すら危うい身では叶わない望みでもあったから、マルタに雑談のつもりでその話をした。

 すると。

「修理? 近くに寄るから頼んどくよ、お代は後でくんな」

 あっさりと持って出かけ、袋二つぶんの荷を提げて帰ってきた。石鹸に小箒(こぼうき)、砂糖などを次々と片付けながら、世間話のように言う。

「店主にねえ、修理の材料が違う色の素材しかないから、全体を違う色に染め直すか、それとも新しい部分を古いのに合わせて加工するかって聞かれたよ」

 どき、と鼓動が跳ねる。脳裏に浮かぶのは、この小さな手を幾分か立派に見せてくれていた、あの栗色だった。

「値段は同じだって言うから、せっかくだから新品みたいにぴかぴかにしてもらうように頼んだよ」

 からりとした声は夏の熱風のように吹き抜ける。ありがとうございます、と告げる声に痛みが(にじ)まないよう、たいそう気を払った。その甲斐あったのだろうか、明日には出来上がるそうだよ、と続ける声は朗らかなままだった。

 それが昨日の話である。

 今、右腕にかけた布袋は、その引き取りを口実に渡されたものだ。中には余ったおかずの陶器。まだ温かく、そのことにどこか違和感を覚えたが、理由はわからないまま受け取っていた。



 アストンの店だと教えられた、その看板を見上げる。

 アストラ・ポラリス。

 店名の上に、星の形をした、電燈のようなものが飾られている。――ような、というのは、もう薄暮の時分だというのに、明かりは灯っていないからだった。

 店の前に出された黒板には几帳面に角張った字で、修理の価格が記されている。その板の影が長く伸びているのに気付き、大きく息を吸った。

 日暮れの鐘が鳴れば、商店は一斉に閉まってしまう。いつまでも足元を眺めていても、仕方がないだろう。


 意を決して、青紺色の扉を押す。カラン、と鳴るベルの音に、心臓が大きく跳ねた。

 ――けれど緊張は、感嘆に溶ける。

 店内の机に、棚に、壁に並ぶのは靴に鞄に手袋に、革、革、革。それも値札に書かれているのは牛や蛇ではない、魔獣の名である。染められて艶やかに並ぶ、かつて生き物だったものたちに寄れば、油の匂いと革の香りが混じって届いた。

 カタ、と工具を置く音に、はっと視線を奥へ遣る。カウンターの向こうには、大きなミシンや加工前らしい革たち、鉄の小炉などに埋もれるようにして、古びた机があった。

 その前で立ち上がったのは、あの日の、青年だった。

「あの、」

 この前は、と言うより先に、カウンターの上に何かが乗せられる。目を落として、あっと叫びそうになった。


 手袋。私の、栗色の。


 年月を経て深まった色は、どこにも変わりがない。思わず手に取り、表と裏を確かめる。

 まるで食い破られた前に巻き戻されたように破れ目は見当たらない。それだけではない、どこが新しく継ぎ足した部分なのかもわからない。ああそれに、それに、左指の付け根も、右の指先も、自分で不器用に縫い直していたもの――そのままにしていたほつれまでもが、正しい姿に戻ったかのように、すべてきれいに縫い直されている。

「色……変わっちゃうって聞いていたのに、どうして」

「……クロノウサギに、ルオルグで、手入れをしているから」

 手袋の素材はともかく、手入れ油の名まで言い当てられて驚いた。それと同時に、少し恥ずかしくなる。三つ前の街で塗り直したこの油は素材の強度を上げるけれど、二度塗り直すだけで、この学生が持つような手袋を買えるほどの値なのだ。ちぐはぐな手入れをしていると思われただろう。

 それはさておいて、「から」の続きを待ったが、その先に言葉は続かない。

「染めにくいってことですか?」

 問い直すと、いや、と短く否定が返る。

「自分で縫い直した跡がそこかしこにあって……買い直した方が安いだろうに、長く大事に使っているもののようだから……この方が、良いかと思った」

 ひとつひとつ、箱の中から言葉を選ぶような声だった。

 そうして、手袋に落ちていた視線がすっと上がる。窓から差す西陽を受け、深緑の瞳が微かに淡い色を見せた。

「依頼通りではないから、気に入らないならやり直すが」

 先ほどまでとはまるで違う、淀みのない声だった。

 首を振る。勿論、横に。何度も振った。

 昨日からずっと胸の内を重く占めていた不安、預けたことへの後悔、マルタの善意にけちをつけようとする己への嫌悪感――それらがすべて、あたたかく溶け去っていくのを感じた。

 革手袋を両手で包み込み、頬に押し当てる。

 しっとりとした革のぬくもりと、油の微かな匂いが胸に沁みていく。肌になじむような柔らかさは、亡き母の手のようだった。

「嬉しい。ありがとう」

 あの日と同じように短く、そうか、と声が返る。

 けれどその瞳は少し柔らかく、微笑んでいるかのようだった。


 そこで、はっと思い出す。用事はこれだけではない。

「この前は、ありがとうございました。マルタさんも呼んでいただいたみたいで」

 返事の代わりに、何かを考えては、口にしようとして止めるような間があった。(しばら)くあってからようやっと、

「大丈夫なら、よかった」

 と一言あって、視線はまたカウンターへすいと落ちた。取り敢えず、用事は二つ目まで済んだ。最後のひとつである袋を、その視線の先に割り込ませる。

「マルタさんから、お惣菜って」

 袋を受け取る指先が、自分の手と微かに触れる。わずかな接触にすぎないのに、胸の奥で脈が跳ねた。

 故郷の男性は――女性も、もっと大柄だったから、ヒトの男性はみんな、小柄に見える。それでもアストンの手は職人らしく、大きくて、少し骨ばっていた。

 受け取ったアストンは陶器の蓋を少し開け、今日はきれいな魚だ、と呟いた。一拍置いてその意味に気がつき、かっと頬が熱くなる。コロッケかスープにしてくれると言っていたのに!

「ごめんなさい、あれ私が(さば)いたんだけども、もう上手くなったから、今日からは大丈夫!」

「そうか。少し待っててくれ、返す器がある」

 少し笑って、汚れたエプロンの裾が(ひるがえ)る。住居は二階にあるらしく、アストンは店の奥から続く木の階段を上って行ってしまった。


 店番をしているのは、ここの家の息子だからなのだな、と腑に落ちる。手持ち無沙汰になって改めて店内を見渡せば、日用品だけでなく、旅人の買うような鞄や靴なども多いと思った。この街は街道沿いにあるのだとマルタは言っていたが、鳥が季節ごとに羽を替えるように道具を入れ替えて、また旅立つ人も多いのだろう。

 ふとカウンターのそばに、獣の形の名残の見える革が吊るされているのが目に留まった。胴が覆い隠せるほどの大きさのそれは、鮮やかな黄色に染められている。端の不定形さに興味を惹かれ――

「触るな!」

 指先が跳ねる。振り向くと、階段を下りて寄るのは、叱責しておきながらばつの悪そうな顔だった。

 乾いていないんだ、とまるで咎めたことの言い訳のように、言葉が口の中で転がされる。勝手に触ろうとした謝罪をすると、また曖昧な返事が戻された。

「大切なものなんだ。……これは、ドンブクという生き物の革で」

 場を誤魔化そうとしただけの言葉だったのだろう。けれど、ドンブク、という名に心臓が跳ねる。

 それは、それこそは、自分がずっと捕まえてきた、捕まえざるを得なかった生き物の名だった。


 ドンブク、ああ、名前からして嫌だ。鈍足で警戒心も薄く、捕らえて提出をしたところで最低評価しか貰えない、けれど、このほかは何も仕留められなかった。同級生たちのように何かほかの魔獣をと思うのに、結局時間いっぱいかかっても捕らえられず、いつも最後に諦めて狩って帰った生き物。

 みすぼらしいE評価の根拠。


「これは、何かに使えるの?」

 声の端が震えることを、アストンは気付いていたかもしれない。けれど淡々とした声はただ、答えだけを返した。

「何にでも。手袋でも、靴の甲でも、ベルトでも、小銭入れにでも、」

 耳当ての裏地でも、と続けてから言葉を切った。

 不意に、革を見詰める瞳が細められる。

「……何になってもらおうかな」

 草の上にできた陽だまりのような、優しい声だった。



 自分の貧相な成果の行く末がどうなるのかなど、ティアは考えたこともなかった。

 生き物たちの生を引き取り、人々の生活を支える役割を与えるアストンの仕事は、尊いものだろう。――もしかすると、かつての自分の営みも、その価値に繋がっていたのだろうか。

 そう思うと、少しだけ歩みが軽くなる。


 夕陽が石畳を赤く染め、早春の気配を帯びた風が頬を撫でる。ティアはふと、足取りをゆるめた。そうして、几帳面に繕い直された手袋をはめてみる。

 夕刻の石畳を叩く蹄の音が、遠くやわらかく響く。行き交う人々の笑い声や、家々からの夕餉(ゆうげ)の匂いがあふれる。

 広い街の中で、それはまるで生まれた頃から探していた運命の人のように、手にぴたりと馴染んでいた。

 


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