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39.故郷の/異国の服

 休日の午前、夏の名残を抱えた風が通りを渡っていた。空はどこか高く、陽射しはやわらいでいるのに、石畳の上にはまだ熱の気配が残っている。

 買い物の帰りに、ついでのような顔をしてアストンの店に寄った。扉を開けると、革の匂いと乾いた音が迎えてくれる。アストンは作業台いっぱいに色とりどりの革を広げ、木槌で軽く叩いていた。


 そのリズムを聞きながら、他愛もない話をしていたところに、修理を受け取りに来た婦人が入ってきた。肉屋の奥さんだ。

「あら、ティアちゃん。今日、市場に行った?」

 声をかけられて首を振ると、奥さんは目を輝かせた。

「イヌミーの行商人が来ててね、珍しい雑貨や服を売ってたのよ。面白かったから、見に行ってみたらいいわ」

 朗らかな声を残して帰っていく。扉のベルが軽やかに鳴り、外の光がふわりと差し込んだ。

 ――イヌミーの、行商。以前なら避けていただろうけれど、今は純粋に、見に行ってみたいと思った。

 昼になったら行商は帰ってしまうかもしれない。そう思いながら、ちらちらとアストンの様子を窺うと、カウンターの向こうの瞳がこちらを見上げた。目が合った瞬間、気づかれたと悟って、思わず視線を逸らす。

「気になるが、作業が中途半端なんだ。行けたら、俺も後で行ってみる」

「ううん、仕事中なら無理しないで」

 歯切れの悪い言葉は、申し訳なさそうな声音だった。慌てて言葉を返しながら、並べられた革の色合いを見つめる。栗色や橙、深い青――それぞれが光を受けて、かすかに艶を返している。これがどんな部品になるのか、自分は見てもわからない。けれどアストンの頭の中にはきっと、完成した姿があるのだろう。それに向けて手が調子よく動いているのなら、それが一番だった。

「せっかくだから、服とかあったら買おうかな」

 何気なく呟くと、アストンは手を止めてこちらを見た。

「故郷の服は、何か違うのか?」

「うん。雰囲気とか、少し違うかも」

「そうか。……もし買うことがあれば、着たところを、そのうち見たいな」

 アストンは穏やかに言葉を継いだ。ふっと笑って、視線を手元に戻す。不意を突かれて、胸の奥が熱くなった。

 いいよ、と答えた声は小さすぎたかもしれない。けれど、アストンの瞳は少しだけゆるんでいたから、きっと届いたのだと思う。

 外に出ると、風が少し涼しくなっていた。街路樹の影が石畳にまだらに揺れ、夏の終わりを告げるように、遠くで教会の鐘が鳴る。

 小さく息を吸って、通りの先にある市場へと歩き出した。



 着くと、行商はすぐにそれとわかった。

 荷馬車の前に敷布が広げられ、布地や小物が陽を受けて光っている。年配の夫人や若い娘たちが布を手に取り、笑い声が風に混じって届いた。

 商人の若い女性は、金色の獣耳を揺らしながら客と話している。耳の根元で結われた髪が風に光り、通りがかる人々も足を止めて見入っていた。


 今までなら、ほかのイヌミー族を見かけるたびに、反射的にフードを被り、耳のない頭を隠していた。

 けれど今は違う。自分の頭には、あの日アストンに留めてもらったリボンがある。かわいらしいものを、自分で選んで身につけられるようになった証であり、この街で、大切にしたい人と良い関係を築けている証。

 この小さな革のリボンは、今の自分の誇りだった。だからもう、頭は隠さなくていい。胸を張って歩ける。風が髪をすくうたびに、リボンの結び目がそっと鳴る気がした。


 近づくと、懐かしい色と模様が目に飛び込んでくる。草の汁のような緑、陽を含んだ琥珀、群青を洗い流したような青――どれも遠い故郷の光を閉じ込めた色だ。草と香の匂いが風に混じり、心が引き寄せられた。

 ふと、夏の終わりだけれど、夏服が欲しいと思っていたことを思い出す。薄着の人が少ないこの街で、風を通す服が恋しかった。そうして見渡していると、荷馬車の陰に吊られた布の間から、軽やかな色が目に入る。

 それは昔、憧れていたショートパンツだった。


 思い出すのは、寮の上級生が穿いていた姿。すらりと伸びて見える脚が格好良くて、印象に残っている。あのころの自分は、鈍くさくて似合わないと思い込んで、手を伸ばせなかった。

 でも今なら、いいと感じたものは、自分でも着てみたいと思える。


「いいでしょ。これ、いくつか種類があるのよ」

 差し出された布地は、水色がかった灰、麦の穂のような黄、藍を洗い流したような群青。どれも柔らかく、風を通す軽やかさがあった。

 目移りをしたけれど、後ろポケットに金糸の刺繍が入ったものを見たとき、思わず息をのんだ。草花の模様が、見る角度で光を返す。淡い灰青の布は風をはらんで揺れ、海辺の夕方のようでもあった。

「これがいいです! これ、お願いします」

「はい、まいど。たくさん穿いてね」

 掌に乗る布の感触は、さらりとしていて、懐かしい手触りに胸が温かくなった。



 宿へ走って帰る足取りは軽く、早速、鏡の前で試しに履いてみた。

 布地は思っていたよりも柔らかくて、脚に沿うというより、空気をはらんで軽く揺れる。くるりと回ると、スカートのようにまとわりつく裾がなくて――それだけで、世界が少し広くなった気がした。

 スカートも好きだけれど、これはこれでいい。ひざ上に当たる風が新鮮で、部屋の中を歩くだけで心が弾む。姿見の前に立つと、窓からさす陽の光を反射して、刺繍の金糸がきらりと光った。

 思わず笑みがこぼれる。


 ――アストンに、見せに行こうかな。

 胸の奥が、また少し早くなる。

 窓の外に目をやると、眩しい石畳を通るジャケットの背に、目が吸い寄せられる。一拍置いてから、アストンだ、と気が付いた。エプロン姿でないから反応が遅れて、慌てて窓辺に手をつき、身を乗り出した。

「アストン!」

 振り返った顔はしばらく背後を探し、ややあってから二階のこちらに気が付く。大きく手を振ってから招く仕草をすれば、意図が伝わったのだろう。少し笑って、宿へ入ってくるのが見えた。

 玄関からは話し声。昼食の用意をしているマルタと喋っているのかもしれない。そうしてすぐ、トン、トンと階段を昇る音が聞こえた。軽く、ノックの音が響く。

「どうぞ。ね、見て見て! 買っちゃった」

 開いた音と共に、駆け寄って迎える。アストンの視線が新しい服の方へすっと落ち――

 一歩跳び退き、入り口の小棚にぶつかり、乗せてあった荷物ごと派手な音を立てて転んだ。

 ろうそく立てや金属のカップが転がって、散らばる。陶器やガラスがなかったのが幸いだけれど、脚をぶつけたらしく、うめくアストンの方が心配だった。

「大丈夫……?」

「ああ……いや、あの、えっ……?」

 かろうじて出てきた声は、喉の奥でかすれている。何か言おうとして、けれど言葉の形を探しきれないまま、扉の枠で身体を支えるようにしてよろよろと立ち上がった。視線が、行く場所をなくしたように泳いで、それから慌てて逸れる。

 アストンの頬に熱がのぼっていき、その反応に何かを問うよりも、階下から声が近づく方が早かった。

「大きな音したけど、大丈夫かい」

 マルタの昇ってくる音に、アストンの顔が弾かれたように上がる。勢いよくジャケットが脱がれ、押し付けられる。

「服、着っ、」

「何か割れたり……」

 ひょいと覗いたマルタの言葉が止まる。視線が、ジャケットを抱えたこちらの顔から足元までを辿り、固まるアストンを眺め、ふっと逸れる。

「あんたら、ドア閉めてやりな……」

「違う、違うんだ、誤解だ……!」

 下りて去っていく背に叫ぶ顔が、赤く染まっていく。何となく察してしまったけれど、要するに。

「この服、だめってこと……?」

「いや……駄……故郷のものを、こちらの感覚で、どうこう言うのは……」

「外行っても大丈夫?」

 首が激しく横に振られる。

 細身のズボンも、短いスカートも見かけないと思っていたけれど、つまり。脚を見せるのは、よくないということなのだろう。

 ――脚。脚くらい、だめかなあ。お腹ならともかく。

 しおしおと萎れてしまったのが顔に出てしまったのだろう。アストンは半端に開けたドアの端に額をつけた。

「ティアの故郷では構わないのは、それはそうだと思う……誰かに迷惑をかけるものでもないから……ここの勝手な規範で、着たいものを我慢するのは、違うと思う」

 たどたどしくも、丁寧に選んでくれた言葉に、胸が詰まる。おかしいから着ない方がいい、と一言で片づけてもよいところを、言葉を尽くそうとしてくれるところが嬉しかった。

 それだけで、もういいと思った。

 少し残念だけれど、外を歩けなくてもいい。穿いただけで、あの頃の自分の寂しさはもう、浄化されたのだ。それに、部屋着にして、自分のためのお洒落にするのだって、きっと素敵なことだ。

「ただ、その……不埒……邪な目で見られる懸念は避けられなくて……本当に申し訳ない……」

「あっ、いいよ、ごめんね、ありがとう」

 耳まで染めながら最後まで説明をしてくれる姿に、こちらの方が申し訳なくなってきた。相変わらず視線は合わないし、なんだか、こちらが虐めているような気にすらなってしまう。

「見たがったせいで、余計に買わせてしまったみたいで、本当にすまない……」

「それはいいんだけど……」

 高いものでもないし、軽やかだからペチコートの代わりにしてもいいかもしれない。ただ一つだけある心残りが、喉に詰まる。言いさして止めたことに気が付いたのか、アストンの瞳がようやく、こちらを向く。それを見詰めたまま言うのは恥ずかしくて、今度は、こちらから目を逸らした。

「褒めてくれるかなって、ちょっとだけ、思っちゃった……」

 言葉のあと、静けさが落ちた。

 アストンの喉が、小さく鳴る。うっと詰まったように口を開きかけて、すぐ閉じる。そのまま、眉間を指で押さえながら、何かを考え込むように俯いた。

 視線がまた迷う。足元と、床の一点と、こちらの裾の境目を行き来して、どうしても上がってこない。

 やがて、少し息が吸われる。

「……川面の影みたいな色で、いいんじゃないだろうか」

 その声は、かすかに掠れていた。それから、恐る恐る顔を上げる。頬にまだ赤みを残したまま、ほんの一瞬だけこちらを見て、目を逸らす。

「涼しげで……? 煽……いや、その服は、一般的には、どういう印象のものなんだろうか……」

「健康的っていうか、活動的な感じかな、動きやすいし」

「そうか。それなら、よく似合うと思う」

 ほっとしたような息が吐かれる。それから、ティアらしいんじゃないか、と呟きが落ちた。

「落ち着きがないから?」

 冗談だったのだけれど、アストンは慌てて首を横に振る。よく働くがそうではなくて、と否定から入り、少し考え込んだ。幾度か静かに瞬いた後、視線が真っ直ぐに合う。

「……生き方の話だ。……何にだって精力を傾けて、新しい道にも進み続けられるだろう。近くにいるだけで、生きる背を押されるように感じる」

 不意に、心臓が跳ねた。思いも寄らなかった言葉の数々に、返事が喉に詰まる。

「新しいものを作る気になったのも、ティアのお陰だ。……今言うことではないかもしれないが」

 やわらかく笑う瞳の奥に、あたたかな光の灯るのが見える。頬が熱くなって手元の布を抱き寄せてから、それがアストンのジャケットであることを思い出して、ますます熱がのぼった。

 ここまで褒められるほど大したことなんて、何もしていない。それでも、アストンの帆を押す風のひとつになれたのなら、とても嬉しかった。

 その想いの余韻の中で、ふと今朝の光景が脳裏によみがえる。作業台に広がっていたのは、さまざまな革。その中のひとつに刺繍が入りかけていたのを思い出し、はっと顔を上げた。

「そうだ、これね、大きな刺繍が入ってて。アストンが何か作る参考になるかなって」

「そうなのか」

 先ほどまではあんなにしどろもどろとしていたのに、急に職人の顔になるのがなんだかおかしい。興味深そうな目は、前ポケットの縁の刺繍を見て、これか、と尋ねた。

「ううん。後ろのポケットだよ」

 くるりと振り返り、尻側を見せる。真面目な視線が刺繍の辺りに吸い寄せられて、一拍。

 ――じわり、と、その耳まで熱がのぼっていく。

「あの、いい、やっぱり、よくない……違うんだ、決して……ただ、節度……」

 額に拳を当てて、らしくもなく、手に触れた言葉をそのまま並べたような口ぶり。なんだかいたたまれなくなって、笑うしかなかった。

「じゃあおしまい。着替えるから、ちょっとだけ待ってて。お昼ご飯、下で食べようよ」

「ああ、うん。そうする」

 あからさまにほっと息をつく姿に、思わず苦笑がこぼれる。このパンツは外に出るためのものではなくなったけれど、自分の心を、もう一歩外に向けるためのもの。そう思うと、心が軽くなった。


 窓から舞い込む風が、カーテンを膨らませる。

 その軽やかな揺れに誘われて外を見遣れば、抜けるような晴天が、どこまでも広がっていた。

 もうじき、新しい季節が静かにやってくる。


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