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36.最初はきみが

 夏の夕方は、まだ陽が残っている。

 空の端には金色の雲が溶けかけ、石畳には茜色の影が長く伸びていた。街を包む熱気はやわらぎつつも、遠くで子どもたちの笑い声がまだかすかに響いている。

 ティアは診療所を出ると、少し汗ばんだ手を拭いながら宿へ戻った。


 厨房の扉を開けると、鶏の焼ける香ばしい匂いが鼻をくすぐる。けれど、いつもカウンターの端に置かれているはずの、アストンに届ける包みが見当たらなかった。

「マルタさん。アストンの分、今日はないの?」

「客が多くってね。足りなさそうなんだよ」

「そうなんだ……じゃあ、お料理、手伝います」

 呟いた声に、残念さがあからさまに滲んでしまい、思わず視線を落とした。

 誤魔化そうとエプロンを取りに行こうとしたその背を、マルタの明るい笑い声が追いかけてくる。

「手ぶらでも顔見せに行ってやったらどうだい。待ってると思うよ」

 全部見透かされているのだろうか。そう思うと、頬に熱がのぼった。

 ――待ってる。待ってくれているだろうか。

 いつも自分が店に入ったときの、アストンのやわらかな瞳を思い出す。そうだったらいいな、と胸の奥で鼓動が跳ねた。

 けれどマルタの言葉に甘える前に、ふと足が止まる。

「あの……私が来る前は、こんなに毎日は持って行っていなかったって、アストンから聞いたんですけど……本当ですか?」

「んー? うん、そうだねえ」

「私、催促してるみたいになってませんか……? もしそうなら、自分で作ろうと思って……」

 鍋の蓋を開ける音が、台所に優しく響いた。香りがふわりと広がる。

「……アストン、最近よく笑うようになっただろ」

 マルタは鍋を見つめたまま、穏やかに言った。少しの間だけ、その背を見詰める。

 確かに、初めて会ったときのアストンは、深い森の奥のような印象があった。静かで、何を抱えているのかを、見て取れないような。けれど今は、葉を透かす木漏れ日のようなやわらかさがある。

 マルタの手元で、木べらが小気味よく動く音がした。

「昔はあんな子だったんだよ。人懐っこくて、うちの息子たちも弟みたいに可愛がってた」

 懐かしそうに笑いながら、鍋の中身を確かめる。その言葉を聞きながら、胸の奥に、かすかな痛みが広がった。

 ――いつか寝室で聞いた、アストンの過去を思うと、切なさに身が絞られる。

 それでも、笑顔が、また少しでも戻ってきたのなら。そう思うと微かに役立てたようで、胸が温かくなった。

「行ってやってくれるなら、それがいいんだよ。ありがとうね」

 マルタが皿を取って、湯気の立つ料理を盛りつける。慌てて首を振った。

「い、いえ、そんな……私、何も――」

 言いかけたところで、振り返る目が、いたずらっぽく細められる。

「まあ、私が作るよりティアの手料理の方が喜ぶのは間違いないだろうけどね」

 頬に一気に熱が上がった。

「そっ、そんなこと……!」

 マルタの笑い声が、油のはぜる音に溶ける。恥ずかしさを隠すように視線を落としたけれど、胸の奥では小さく弾むような気持ちがあった。

 アストンがマルタに大切に思われていること、それが何より嬉しかった。

 火を弱めながら、ふと柔らかい声が落ちる。

「あんたも仕事があるだろ。ついでだからいいんだよ。おかずのことは気にしなくていい。私の楽しみみたいなもんだからね」

 その言葉にほっと息をついた。ずっと心のどこかにあった引け目が、ゆるやかに溶けていく。ありがとう、と伝えた声が、あたたかな湯気と混ざる。

 夕暮れの光が台所の窓から差し込み、マルタの白いエプロンをやわらかく染めていた。



 夕方のアストラ・ポラリスには、革の匂いとともに、昼間の熱がまだわずかにこもっていた。

 扉の向こうから、金具の鳴るかすかな音がした。鐘を鳴らして入ると、奥で手を動かしていたアストンが作業台から顔を上げた。

 一瞬、目を瞬かせ――それから、ふっと表情をやわらげる。その微笑みに、胸の奥がきゅっと鳴った。

 ――マルタさんの言った通り。前より少し、嬉しそうに見える。

 そう思うと、なんだか自分のほうが照れくさくなって、視線を泳がせてしまう。

 革の焼ける匂いと、磨き布の擦れる音が静かに混じり合っている。その間を、カウンターへ向かって通り過ぎようとしたところで、ふと商品棚に目が留まった。平台の上には、財布や鞄にまじって、ひとつだけ場違いなものがあった。

 淡い空色の革で作られた、リボンの髪飾り。縁には白いレースが縫い込まれ、中央には、小さな硝子(ガラス)のボタンが夕陽を受けて光っている。

「これ、どうしたの?」

 立ち止まって奥へ問うと、工具の音が止まる。ひと呼吸ほどの間があって、気恥ずかしそうな声が落ちた。

「……作った」

「アストンが?」

「やってみたくて……しばらく、いくつか置いて、反応を見ようかと」

 思いに合う言葉を、道具箱の中から何とか取り出したような声だった。何をやってみたいのか、本当は気になった。けれど、言葉がたどたどしいのは、まだ形にならない思いを抱えているのか、それとも、すでに形はあるけれど、誰かに見せるには早いと思っているのか。

 それなら、今はまだ、深く尋ねまいと思った。

 触ってよいかと尋ねると、アストンは軽く頷く。指先でリボンの端をそっと撫でると、ひんやりとした革の表面は、驚くほどやわらかかった。

「きれい……かわいい色だね。空みたい」

 アストンは、そうか、とだけ答えた。けれど、その短い言葉に、仄かな安堵が混ざっているように感じられた。

 可愛らしいリボンは、一緒に出掛けた日の空を思い起こさせるような、軽やかな色。髪に留めてみたいという思いが、胸に灯る。

 けれど先程の、反応を見ようと思って、という言葉が、その火を指先でなぞるように静めた。宣伝を兼ねているのなら、すぐに買ってしまうのは、少し図々しいかもしれない。誰か別の人が気に入ってくれるかもしれないし、それをアストンが嬉しそうに見るのも、きっと素敵なことだろう。

 そう思おうとしたのに、胸のどこかが小さく痛んだ。

 ――誰かに買われたくない、なんて。そんなこと、思ってはいけないのに。


 いつしか夕暮れを告げる鐘が鳴り、ゆっくりと店を後にした。

 外へ出ると、茜色の空に一番星が瞬きはじめている。夕風にさらわれた髪のひと筋が、アストラ・ポラリスの方へ揺れる。歩き出した足が、少しだけ、石畳の上で立ち止まった。

 鐘が鳴りやんでも、胸の奥のさざめきは静まらない。何度も深呼吸をして、空を仰いでみても――思い出すのは、あのリボンの空色。革のやわらかさ。アストンの、少し不器用な声。

 気づけば、足は勝手に動いていた。


 石畳を踏みしめる音が、夕風に溶けていく。息を切らして店の前に戻るころには、扉の向こうで灯りがひとつ、ゆるやかに消えかけていた。

「アストン!」

 慌てて声をかけると、エプロンをかけた背は振り向き、少し目を見開いた。

 棚の上を拭いていた手が止まる。

「どうした?」

 胸に手を当て、ひとつ大きく吸い、息を整える。

「やっぱり……あのリボン、買いたくて」

 言葉が出た瞬間、頬が熱くなった。我ながら子どもみたいだと思う。それでも――そう言わずにはいられなかった。

 アストンの目が瞬く。手が棚を離れ、ゆるやかな笑みが零された。

「……そうか」

 その声には、静かな温度があった。安堵と、どこか照れくささのようなものが溶け合い、店に満ちる空気がやわらかくなる。二人の間にランプの灯りが揺れ、革の香りが、微かに甘く感じられた。

「包まなくていいか。……つけていくか?」

 声が、やさしく胸の奥に届く。言われるままに後ろを向くと、アストンの気配がすぐ背後に近づいてくる。

 息を呑むほどの近さ。指先が髪に触れた瞬間、とりまく空気が小さく震える。

 指が迷うように一度止まり、位置を確かめるように動く。革のリボンが耳のあたりでそっと揺れ、ひんやりとした感触が残った。

 いつも器用な手は、驚くほど丁寧だった。留め終えると、アストンは少し離れて見下ろす。そうして、ふっと息を吐くように言った。

「やっぱり、似合う」

 穏やかな響きが、灯りの中に溶けていく。

 何か言おうとしたけれど、言葉がうまく出てこない。ただ、胸の奥がぽうっと熱を帯びていくのだけを、感じていた。


 外に出ると、夜空には群青の風が流れていた。 通りの灯がぽつりぽつりとともされはじめ、アストラ・ポラリスの明かりが、遠くからでも温かい。

 手で髪を撫でると、耳のそばでリボンがかすかに揺れた。革の感触がまだ指先に残っている。 アストンが何をしようとしているのかは、まだわからない。

 けれど、この飾りは、きっとどこかへ進もうとしている一歩なのだと思う。

 そしてそれを自分がもらえたことが、どうしようもなく嬉しかった。

 同時にふと、先ほどの言葉が胸の中で灯る。

 ――やっぱり、似合う。

 やっぱりとは、どういう意味だったのだろう。浮かべると、頬のあたりがまた熱を帯びた。 


 風が髪を撫でていく。リボンがかすかに揺れるたび、胸の奥で、アストンの言葉が何度も響く。

 答えのない問いをめぐらせてゆっくりと歩く石畳の上を、夏のあたたかな夜風が、空へと渡っていった。


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