35.アストンのおふろ
――アストラ・ポラリス二階、13時。
仕事の手を止めて台所へ行くと、水が出なかった。蛇口の前で待てど暮らせど、音もしない。
断水ならまだしも、家のどこかが壊れたのなら厄介である。思案に暮れつつ、ひとまず状況を確かめるためにも、壺を抱えて外へ出た。
夏の陽の光は白く、路地に落ちる影との境界線が眩しい。革の匂いに慣れた鼻に、土と石の焼ける香が刺さる。日陰から日陰へと辿ってゆけば、井戸のある広場には、すでに人が列を作っていた。自分の家だけではなかった、というところに、ひとまず胸を撫で下ろす。
「明日の朝までかかるんですって」
「暑いのに困るわねえ」
洗い桶や水瓶を手にした婦人たちが口々に語るのが聞こえる。料理屋や肉屋などはたいそう困るだろうが、不幸中の幸いか、こちらは革道具屋である。明日の朝くらいまでならばどうとでもなるだろう。
列が少しずつ進むたびに、井戸のつるべの軋む音が遠くで鳴った。壺を抱えた腕が汗ばみ、背にじりじりと陽が焼きつく。空を見上げると、染料を撒き散らしたような青には雲ひとつない。
――風呂をどうしようか。
ふと、そう浮かんだ。どうしようも何も、公共浴場へ行くしかない。水の出所が違うのか、幸いにもあそこはいつでも動いている。この暑さの中を往復するのはやや気が滅入るが、日が暮れるほどに混雑もするだろう。
それに、夕暮れには、店にいたい。必ず来るとは、限らなくとも。
少し早く切り上げて行くか、と決めて、額の汗を乱雑に拭う。列の先、井戸の向こうには、あの日のワンピースのように白い入道雲が、眩しく湧き上がっていた。
浴場へはまだ日の白いうちに向かったものの、すでに湯は混みつつあった。そうはいっても、湯に浸かるのは久々で、足を伸ばせば身体の芯がほぐれていく。のぼせない程度に和んでゆこうかと長く息を吐いた。
そのときだった。湯の中を滑るように、影が寄る。視線を遣れば、チーズ屋の主人だった。目が合い、軽く目礼をする。
「……見たぞ。いつから付き合ってんだ」
「……は?」
「俺も見た見た、マルタんとこの嬢ちゃんだろ。先週の休みな!」
洗い場で背中を磨いていた酒屋の旦那が振り返り、話に混じってくる。逃げるように肩まで浸かれば、いつからだ、と肘でせっつかれた。
「付き合って、ない……」
「嘘つけ。洒落こんでニッコニコでデートしてただろ」
「にっ……出掛けたけれど、本当に……まだ、付き合ってない」
口にしてから、その「まだ」に自分でつまずいた。何が、まだ、なのか。顔が熱くなる。
が、その答えはかえって信憑に足るものだったらしい。男たちは顔を見合わせて、呆れたような息を吐いた。
「お前なあ、いい歳してんだから、すぱっと決めろよ」
「そういうところは親父さんに似ねえなぁ。あいつは毎週のように嫁さんに花贈ってたのによ」
花。そうだ、春先に赤い花を贈ってしまったのも、父が花を絶やさなかったせいだった。今から思えば、花暦祭の日もきっと毎年母に赤い花束を贈っていたのだろうが、年がら年中渡していたものだから、そこに特別な意味があろうとは思いもよらなかったのだ。
「女っつうのはな、煮え切らない一番より、熱烈な二番を取るもんだぞ」
「一番……ティアは、そう思っていないかもしれない……」
「それを聞けよ」
ため息交じりの後に、そうか名前はティアちゃんというのか、と声をかけてくる。余計な情報を与えてしまったことを後悔したが、もう遅かった。いつから聞き耳を立てていたのか、織物屋の主人までが洗い場から割り込んでくる。
「いいか、直接聞いちゃいけねえぞ。俺は好きだがお前はどうなんだって聞くんだ」
「おっ、さすがだな。あとはあれだ、会いたいとか会えて嬉しいとか、そういうのを挟んでいくんだよ。普段思ってることなんかあんだろ、どうだ」
のぼせてきたのか、段々と目が回ってくる。常々から抱いていて、けれど口にはできないことも、するまいと決めていることも、山のようにある。
考えようとするほど、言葉が溶けていく。
「星……星のようだと思う……いつも道を照らしていてくれて……そこにいてくれるだけで安心する……」
「おお……急に言えるじゃねえか。なんだ、やっぱ親父さんに似てんな。それ、いきなり言わずに小出しにしていけよ」
反応が腑に落ちないが、最後まで付き合っていれば倒れてしまう。とうとう湯から上がろうとすれば、後ろから声が追ってきた。
「とにかくそれを口で言え。態度でわかると思ってたら大間違いだぞ」
「そうだそうだ、こいつんちも昔それで大喧嘩になってんだぞ」
やいのやいのと外野は盛り上がるが、これ以上構われてはいられない。ますます混んできた湯から逃げ出す頃には、顔も胸の内も、すっかりと火照ってしまっていた。
浴場を出ると、川を渡ってきた風が頬を撫でた。空の端はほのかに暮れかかり、熱の籠った肌に、夕方の冷えが心地よい。のぼせた頭の中に、ようやく隙間ができるようだった。
「――アストン! 来てたんだ」
鈴の鳴るような声。
振り向けば、夕陽を背にしたティアが、いた。
湯上がりのせいか、普段と違って下ろされた髪が、光をまとっている。丸みのある頬はばら色に染まっていて、よく笑った後の姿に似ていた。春の清流のように澄んだ瞳が瞬く。
かわいい、と思った。頭の奥でそう浮かんだ瞬間、また顔が熱くなる。
「断水で……。ティアもか」
今更首元のボタンを慌てて留めながら、なんとか声を出した。ティアが首を横に振るのにつれて、髪が肩に擦れてさらさらと音を立てる。
「うちは大丈夫だったんだけど、ソニアに誘って貰ったから来ちゃった」
陽を抱いたような笑みが眩しい。先程まで湯の熱にのぼせていた胸の奥が、またあたたかくなる。何か言うべきことがあったような気がするのに、蝋燭を火にかけたかのようにたちまち消えて、掴めなくなってしまう。
気の利いた返事のひとつも浮かばず、意味もなくシャツの胸元を触った。その袖に、ティアの目が留まる。
「ボタン……この前の?」
はっと見る。そうだ、木製の青いボタンは、先日ふたりで遠出をしたときに貰ったものだった。取れてしまったから代わりに――というには早すぎる。身に付けておきたくて、早速わざわざ付け替えたのを知られてしまった。
羞恥が湧いて頬が熱くなる。
ティアはひと呼吸ぶんボタンを見詰めてから、すっと手首を上げた。
「……おそろい」
内緒話のような声。はにかみながら、添えるように寄せられたティアの袖口には、同じボタンがあった。
ぐっと胸が詰まる。
言葉がいくつも浮かぶ。かわいい、とも、うれしい、とも、好きだとも。
本当は、まだ言葉を交わしていたかった。できたばかりの遠出の思い出を一つずつ拾い上げてもよかったし、今日の些細な出来事も聞きたかった。ティアの声を通せば、どんな他愛のない話でも、不思議とあたたかな光を帯びてゆく。
自分はと言えば愉しい話のひとつも差し出せず、気の利いた返しも、上手い相槌すら渡せてように思える。
それでも夕刻のあの僅かなひとときを毎日待ち焦がれているし、叶うのならば、ひとときでなくなればよいと思っている。
そのときふと、ティアの少し後ろに、女性が待っていることに気がついた。浴場へ誘ったという人だろう、いつまでも言葉に詰まっていてはいけない。
――言葉にしろ、という先ほどの助言の数々が、頭を回る。万感の想いの全てを伝える気など微塵もないが、欠片くらいは、口に出さねばならない。せめて、いつだって来訪を心待ちにしているのだと。
心臓が早鐘を打ち、声が掠れる。
「夕方……早く来てくれると、嬉しい」
絞り出した言葉に、ティアの目が二度、瞬く。耳まで熱い。
あたたかな夕暮れの似合う瞳は、ふっとゆるんで、微笑んだ。
「お風呂入るとお腹空くよね。じゃあ、マルタさんに早く作ってもらうね」
軽やかな声は、ほほえましそうに跳ねる。機嫌よく翻る髪はするりと眼前を擦り抜け、待つ女性の元へと駆けてしまった。
後ろで、先ほどの男たちが苦笑を漏らすのが聞こえる。
「こりゃあ、まだ駄目だな」
冗談めかした声に、肩がわずかに跳ねる。そのまま、夕風が熱を冷ましていくまで、しばらく動けなかった。
胸の奥にはまだ、かすかな熱が残る。
一番の座を目指すには、まだ当分、修行が必要なようなのだった。
とっくに一番なのに……。
今話で初夏編は完結し、次話から初秋編になります。
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