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34.ふたりきりの一日

 人の賑わっている方へ歩いていくと、通りの先が急に開け、色とりどりの布の日よけが連なっていた。青空市らしく、木の台の上に陶器や香料、海の貝殻で作った飾りなどが並んでいる。自分たちの街の朝市のように魚や野菜を売るのとは違って、祭りのような、どこか浮き立った雰囲気が溢れていた。

 潮風に混じって甘い匂いがする。焼き菓子か、それとも砂糖と煮詰めた果物か。ティアは目を輝かせながら、立ち並ぶ屋台を見て歩いた。アストンは、慣れない人混みにやや面食らいながらも、歩調を合わせてついてきてくれる。


 角を曲がると、射的や輪投げの屋台が並んでいる一角があった。子どもたちの歓声が上がり、誰かの投げた輪が金属の棒に軽く当たって、からん、と乾いた音を立てる。

「あれって景品かな」

 指さした先の屋台の景品棚には、陽を受けてきらめくガラスボタンが掛けられていた。指の先ほどの、丸く透きとおる青。

「きれい……氷みたい」

 思わず声が零れる。隣を仰ぐと、アストンは目を細めてこちらを見ていて、少し鼓動が跳ねた。

「やってみたらどうだ?」

 頷いて、屋台の主人にコインを渡し、三つの輪を受け取る。

「二つ入れば当たりだよ!」

 威勢のいい、陽気な声に気合が入る。

 一投目。軽く放ったつもりが、輪は的の列を飛び越え、向こうの布の影に消えた。

 二投目は慎重に投げたが、今度は手前で落ちて、輪は棒の根元をくるりと回って止まる。

 三投目、息を整えて投げる。輪はわずかに軌道を変え、的のひとつにふわりと掛かった。

「一個! 惜しいねぇ、姉ちゃん!」

 渡されたのは、流木の欠片のような木彫りのボタンだった。小さな貝の模様が彫られ、淡い青に染められている。

「これもきれいだね」

 袖に縫い付ければ、きっと見るたびに、今日の海を思い出せそうだった。それでも、一投しか入らなかった、という子どもっぽい競争心で、ついガラスボタンを見詰めてしまう。するとアストンが不意にぽつりと呟いた。

「俺もやってみる。……二つだな」

 言いながら袖を少しまくり、さっさと代金を渡してしまう。

 ――取ろうとしてくれている、と勝手に受け取るのは、自惚れだろうか。単純に、隣で見ていて、アストンも遊びたくなっただけに違いないと、すぐ熱くなる頬を手の甲で冷ます。

 一投目、軽く投げた輪がすっと飛んでひとつの棒に掛かった。

 二投目はわずかにずれて外れる。

 三投目が手から離れようとしたところで、店主が調子のいい声を上げた。

「兄ちゃん頑張れよ! ――彼女が見てるぜ!」

 びく、とアストンの肩が跳ねる。手がぶれ、輪はあらぬ方向に飛んだ。からん、と乾いた音を立てて落ちる。

「残念! 仲良くおそろいだね!」

 木彫りのボタンを二つ並べられて、アストンは少しだけ耳を赤くする。つい笑いをこらえきれずに、少し肩を揺らしてしまった。


 手のひらに残る木の温もりを感じながら、人の流れに紛れて歩き出す。陽はますます高くなり、夏の濃い影は短くなってくる。

 パンの屋台が並ぶあたりまで来ると、香ばしい匂いが潮風に混じって流れてきた。海老を挟んだサンドイッチや、焼き立ての惣菜パンなど、普段の街では見かけないものが並んでいる。選びきれずにいつまでも迷っていると、隣でアストンが少し笑うのが恥ずかしかった。

「二人分、ティアが選んでくれ。半分ずつ食べる」

「そんな、アストンも好きなの選んでいいよ」

「全部おいしそうだから、どれでもいい」

 本当かな、と思ったけれど――今日はアストンから貰える好意は遠慮をしないで全部、花束のように抱えておきたい気分だった。

 飲み物も買って、屋台の近くの段差に腰を下ろし、紙包みを広げる。潮の匂いと焼きたての香ばしさが混ざり合い、どこか遠い国に来たような気がした。

 海を眺めながらかじっていると、白い鳥が一羽、足もとに舞い降りてくる。パン屑を狙っているのか、すぐにもう一羽、またもう一羽と増えていき、あっという間に群れになった。

「わ、来すぎ……!」

 羽ばたく音がばさばさと響き、笑いながら身を引く。隣から、あっ、と声が上がり、見遣ればアストンのカップが石畳に倒れていた。おまけに、いくつものくちばしが木のカップをつついて転がしていく。

「こらーっ! しっしっ! 大丈夫、濡れてない?」

 水鳥たちを追い払うと、いたずらの見付かった子どものように、一斉に羽音を立てて飛び去って行く。

「ああ、すまない。油断した。パンしか見ていなかった」

 顔を見合わせて、思わず苦笑が零れてしまった。

 カップの中身はほとんどこぼれてしまったが、服は濡れずに済んだのが幸いだったのかもしれない。アストンは拾い上げながら、飲み物がなくなってしまった、と呟いた。もう半分以上食べ終わってしまっているから、飲み物だけ買い直すほどでもないぶん、半端で困ってしまうのだろう。

 自分のカップを見下ろし、浮かんだ提案に爪先がもじもじと揺れる。これは善意、と自分をごまかして、手元のカップを差し出した。

「……飲みかけだけど、飲む?」

 黒髪の端が風に揺れ、頬の端が陽に透けて見える。丸くなった瞳は一瞬逸れて、迷うように揺れる。ひと呼吸ほどのわずかな沈黙の後、アストンは唇の端を引き結んでから、赤くなって頷いた。

 ――けれど、結局最後まで口をつけることはなかった。こちらが飲み干してしまったときの、アストンのほっとしたような、残念そうな表情が、かえって気恥ずかしかった。


 パンと果実の甘い香りを抜けると、通りの端に、革の匂いが漂っていた。晒された陽の下でも乾ききらない、少し甘くて渋い香り。アストンは自然に吸い寄せられかけてから、我に返ったように振り返った。見てきたら、と笑うと、少しばつの悪そうな顔をする。店先の台には、革の端切れを束ねたものや、ベルト、手袋が整然と並んでいた。

「この革、何ですか? クレイバンにしては薄いというか、芯が締まって……」

「おっ、目がいいな。アザレクジラだよ。塩気を含んでるから、クレイバンより湿りに強い。でも厚みが出にくい分、扱いはちょっと難しい。あんた、職人さん?」

「はい。内陸で、魔獣の革屋を。これは靴にも?」

「靴には薄すぎるな。伸びが利くから手袋とか、航海士の袖口に使う。これな、塩を抜くときに熱をかけすぎると波筋が死ぬんだ。こっちにもあるから見るか」

 横で聞いていた会話は、あっという間に理解の及ばない場所へ飛んで行ってしまった。今日は少し忘れていた、職人としての真面目な横顔が見えて、どきどきと鼓動が早くなる。一方でどこか、新しいおもちゃを見つけた子どものような目でもあるのが、なんだか可愛らしく思われた。

「困っちゃうわね、男の人ったら、夢中になっちゃって」

 いつの間にか、隣にいた店主の奥さんらしき人がにこにこと笑いかけてきた。

「彼女さん、こっちも見てって。その髪飾りも革? 素敵ね、似合ってるわ」

「かっ……」

 彼女。思わず言葉が詰まる。否定するべきか迷ったけれど、アストンが聞いていないのをいいことに、口を開かないでおいた。

 今この瞬間だけは密かに彼女になって、革細工を差し出される。並ぶのは、海色に染めた小袋や、編んだ革のブレスレット等々。折角だから、診療所で使う手帳のカバーを買ってしまおうか。そう思って手に取ったとき、店主と話を終えたアストンがこちらを振り向いた。

 視線が合った瞬間、わずかに眉が寄る。

 ――あ、まただ。

 どこか不機嫌そうな、拗ねたような眼差し。朝市でベルトを眺めたあの日も、同じ目をしていた。


 ――俺じゃ、駄目だろうか。

 ――間に合うのなら、秤にかかる機会を貰えないだろうか。


 謙虚ながらも熱烈な言葉がよみがえり、頬が熱くなる。

「……いいものがあったのか?」

 いつもは穏やかであたたかな手触りの声に、少し、熱が籠る。それを嬉しく思ってしまってはいけないのに、どうしても、口の端がゆるんでしまいそうになる。

「ううん。見てただけ」

「……そうか」

 でも、少し足取りが軽くなってしまうのだけは、許して欲しかった。



 通りを抜けるころには、潮風がまた強くなっていた。夕暮れにはまだ早い時刻。マルシェの喧噪が背後に遠ざかるにつれ、潮騒の音がゆるやかに戻ってくる。小さな駅舎の屋根の上を、群れ鳥がかすめて飛んでいった。

 やがて青空の下を滑り込んできた汽車は、市場や工場の帰りらしい人々で、席が所々埋まっていた。行きとは違って隣同士に座ると、腕が触れそうになる。拳ひとつぶんほどの間を空けているというのに、体温が伝わりそうで気恥ずかしい。

「ちょっとすみませんね、詰めますよ」

 ――と、三人がけの端に、母親とその幼子がぎゅっと座る。押される形で間が詰まり、腕どころか、身体がぴたりと触れた。どちらともなく沈黙が落ち、気恥ずかしさに車窓へ視線を遣る。

 窓の向こうには、まだ白く泡立つ波が細く続き、その先で海と空とが溶け合っていた。窓枠に頬杖をつくと、ガタン、ゴトン、と繰り返す振動が心地よい。昼間の賑わいが夢のように遠く、胸の奥だけが、あたたかく名残を留めている。 触れた身体がふと身じろぐ。隣を見ると、アストンが少し背を伸ばし、ひとつ息を吐いて窓の外を見つめていた。

「……いってよかった」

 ふと、低い声が車輪の音の合間に落ちる。アストンは遠くを見るような目で、穏やかに微笑んでいた。

 ――薄暗い寝室で、絞り出すように願いが口にされたときのことを、思い出す。

 今の言葉が「行ってよかった」なのか「言ってよかった」なのかは、判別が付かなかった。もしくは、どちらでもあるのかもしれなかった。

「私も。楽しかった」

 言葉に乗せると、胸の奥にゆるやかな波が広がっていく。

 窓の外では、陽が海に傾きかけている。日差しが波間を撫でるたび、きらきらと砕け、車内に淡い光を散らした。アストンの横顔にもその色が映り、静かな影を縁どっている。

 汽車は揺れながら、ゆっくりと内陸へ進む。どこか遠くで汽笛が鳴った。



 宿に戻るころには、空の端は金色に沈み始めていた。マルタは食堂から顔を出し、二人の姿を見るなり目を丸くする。

「おや、夕ご飯までに帰ってきたのかい。そのままどこかで食べてくるのかと思ったよ」

 その言葉に、一瞬むせそうになった。けれど、マルタは悪びれもせず、朗らかに笑う。

「アストンも食べていったらどうだい? 今日は鶏のシチューだよ」

「ね、そうしよ。手伝うから、着替えてきますね」

 そう言って階段を上がろうとしたところで、マルタが手を振って止めた。

「いいよ。せっかくおしゃれしてるんだから、アストンが帰るまではそのままでいな」

 言葉の端にからかいが混じる。思わず立ち止まり、耳まで熱くなった。アストンも何かを言いかけたけれど、結局、ベストの端をいじるだけだった。

「じゃあ、俺が手伝う」

 そう言って、代わりに台所の方へ行く。しばらくは向こうで何やら音と話し声がしていたけれど、さほど経たずに戻ってきたときには、どこか肩を落としていた。

「役に立たないと追い返された……」

 その表情があまりに真面目で、思わず笑ってしまう。アストンもつられて苦笑し、ふっと空気がゆるんだ。

 湯気の立つ皿を前に、二人でスプーンを取る頃。陽の落ちた外では、やわらかな夜風が通りすぎていた。

 こうして、少し気恥ずかしくて、確かに楽しい一日が終わった。



 ――アストラ・ポラリス二階。

 開け放たれた窓を夜風が抜け、まだ湿りの残る黒髪を撫でていく。外では家々の明かりがまだ灯り、暮らしの音が遠くからかすかに届いた。


 ティアが今日挿していた、花の髪飾り。帰りの汽車の中でそれとなく出所を尋ねると、七、八年前に、故郷近くの出店で買ったのだと言っていた。その言葉が、印象に残る。

 口には出さなかったが、記憶の底に、あの花飾りがあった。

 幼い頃は、重みのある革と同じほど、繊細な細工や淡い光沢、色とりどりの刺繍が好きだった。母と並んでそんな飾りを作っていたことを思い出す。

 そしてあの頃――ちょうどティアが言った頃合いに、産業交流の催しでイヌミー族の街のそばへ、家族で出店をしに行ったことがある。

 まさか、遠い地で昔売った品を、誰かがいまだ手元に置いていてくれるとは思わなかった。朝に見たときは、似た別物だろうと考えたのだ。

 が、ティアがイヌミー族であるのならば。あのとき、自分の拙い商品を買って行ってくれたのは、ティアだったのかもしれない。


 壁に掛けたズボンのポケットから、木のボタンを取り出す。春の終わりに仕立て屋で貰ったきりであった、飾りボタンも並べる。手のひらに載せると、冷えた木肌の中に、微かな艶が残っている。

 幼い頃に抱いた感情と変わらないまま、やはり、きれいだと思った。


 母が亡くなり、父と二人になってからは――ましてや、父がいなくなってからは、残された仕事に背を向けないよう生きてきた。同じ形、同じ革、同じ手順で。

 けれど、ずっと道を選び取り、歩み続けてきたティアのように。自分もまた、自身で北極星を定めてみようか。

 ――かつて好きだった、鮮やかなものを、もう一度。


 ふ、と長く息を吐く。

 自分のこれから先の話はそれとして。

「かわいかったな……」

 呟けば、どっと頬に熱が舞い戻った。下ろした髪に、今まで着ているのを見たことがない、よそ行きの服。時折恥ずかしそうに髪の先を触って、かと思えば色々なものに目を輝かせ、こちらを見上げて笑って。自分がもし教会の壁画を描くことになったならば、今日のティアを見本にするだろう。そんなことを浮かべてから、理性の方の自分が、飛躍し過ぎだと叩きに来る。

 心が勝手に駆けてゆき、頭はまだ追いつけない。どうすればよいのか、こればかりはまだ、誰かに手を引いてほしい心地だった。

 夜風が、熱い頰を冷ましていく。見上げた夜空ではポラリスが、初心な自分を笑うように瞬いていた。

 


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