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32.助けてソニア

 週末の近付く日、ティアは白衣の袖を握りながら、ベネディクトに頭を下げた。診療所の仕事を少しだけ早く上がらせてもらうことにしたのだ。

 申し訳なさはあったけれど、それでも、今日こそは解決しなければならない用事があったのだ。そして、どうすれば上手く解決できるのかを数日考え、浮かんだ相談相手に声をかけてよいものかということにまた、数日悩み――思い切って、花屋を訪ねた。


 通りに面した花屋、ソレイユ・フルールは、店先いっぱいに花が並び、夏の光の中で淡く揺れている。通りの中を近付くだけで、懐かしい香りが胸いっぱいに広がった。甘く湿った夏の匂いと、ソニアの声。

「ティア! 久しぶり!」

 店頭にいたソニアが、手にしていたブーケを水の桶に差しながら、ぱっと顔を輝かせた。二か月ぶりだというのに、まるで昨日も会っていたかのような笑顔に、胸の奥がほっと緩む。

 それでも用意していた相談は気恥ずかしい上に、気が引けもする。けれどここまで来たのだからと意を決して、声を絞り出した。

「あのね、かわいい服売ってるお店、知らないかな……?」

「かわいい服?」

 ソニアの目が瞬く。次の瞬間には、軽快な声が店の奥へ飛んでいった。

「いいよ、ちょっと待ってて。ママー! お店番頼んでいーいー?!」

 奥の階段の上から、いいよー、とソニアによく似た声が響く。

「よし、行こっか」

 ソニアはエプロンをさっと脱ぎ、畳んで机の上に置くと、こちらの腕を取る。あっという間の判断に、こちらの方が呆気に取られてしまった。服屋の名前か場所を教えてもらえさえすれば、一人で行こうと思っていたのだ。

「お店、いいの?」

「うん。一人でゆっくり見る方がいい?」

 首を何度も横に振る。店でもきっと、何をどう選べばいいのか迷ってしまう。一緒に来てくれるというのなら、とても頼もしかった。

「でしょ。困ってる顔してたよ」

 朗らかな笑顔に、不安が少しずつ溶けていく。手を引いてもらえるのはこんなに安心するのだな、と、今更知ったような気持ちがした。


 ソニアに連れられて入ったのは、通りの角にある小さな服屋だった。

 扉を開けた瞬間、鈴の音が小さく鳴る。ふわりと漂うラベンダーの香りに、思わず背筋が伸びた。木の棚には、白や薄桃色の布が風のように並んでいる。飾られたリボンやレースが光を受けて揺れ、どれも自分とは別世界のもののように見えた。

 そっと指先を絡み合わせる。こんな可愛い店に自分がいていいのだろうかと思えば思うほど、背が落ち着かなくなる。けれど、今日は逃げられない、逃げたくない。少しでもかわいく見られたいという思いを、どうしても、叶えたかった。

 奥からは、ふっくらした頬の女主人が顔を出した。

「いらっしゃい。何かお探し?」

 穏やかな声に、指先を意味もなく組み直してしまう。具体的にどんな服を買えばいいのか、見当はついていない。それでも、口にするのも恥ずかしい願望がひとつ、あった。

「あの、かわいく見える服が、欲しいです……」

 言葉に出してから、耳の奥まで熱くなった。どうしてこんなに恥ずかしいのだろう。胸のあたりがくすぐったくて、息の仕方さえ忘れそうになる。

「やだわ、何着ても可愛いのに!」

 女主人が明るく笑いながら背をぽんと叩く。思わず前のめりによろけて、小さく息をのんだ。

「そうだけど、それじゃ駄目でしょ」

 横からすっと入る声に振り向けば、ソニアは服の海を見渡していた。その横顔が、花屋で働いていたとき以上に、大人びて見える。

「方向性決めよっか。デート用だよね?」

「えっ……う、うん……」

 頬が熱くなって、言葉の最後が震えてしまった。

「いつもと少し雰囲気が違う方がいいんじゃないかな。普段のティアは元気で明るい感じだから、ちょっと変えてみてさ」

 ソニアは軽やかにハンガーを滑らせながら、いくつもの服を取り出していく。

「清楚系とか、逆にちょっと色っぽいのとか……」

 ソニアの指先が服を撫でるたび、光沢のある布がさらりと音を立てる。

 白、葡萄色、黒――色とりどりの布が宙を舞うようで、見ているだけで胸が高鳴った。その手の頼もしさに、じんと胸が温かくなる。

「ピュアなのと大人っぽいの、彼どっちが好きそう?」

「えっと……艶っぽいのは、あんまり好きじゃないかも……たぶん……」

「なるほどね」

 ソニアは微笑み、棚に目を走らせた。

「じゃあ、白とか淡い色にしよっか。肌がきれいに見えるし、ティアによく合うと思う」

 そう言って、女主人に声をかける。

「すみません、襟がすっきりしてて、肩のラインが柔らかいワンピース、あります?」

「あるわよ、ちょっと待っててね」

 奥へ消えていく背中を見送って、そっとソニアを見上げた。

「……ごめんね、忙しいのに」

「謝らなくていいよ。ティアが頼ってくれたの、嬉しい。大事な日なんでしょ?」

 ソニアは柔らかく笑って首を振った。その声音は、いつかリースを編みながらかけてもらった励ましと同じ響きをしていて、胸の奥がじわりと温かくなる。もし姉がいたならば、きっとこんなふうに笑うのだろうかとさえ思った。

「このあたりはどうかしら」

 戻ってきた女性が広げたワンピースは一枚、二枚――その三枚目に、あっと声を上げた。

 いつか、宝石箱のような仕立て屋のショーウィンドウに飾られていた、乳白色のワンピースだった。襟元と袖、裾を縁取る、淡い水色のレースを忘れはしない。布地の上で花のように煌めく細かなビーズも、あの日、憧れて眺めたもののままだった。

「これ? 素敵でしょ。ハーゲンさんがお店を閉めるとき、引き取らせてもらったの」

「似合いそう! ティアの好みとしてはどう?」

 鼓動が駆ける。春先のあの頃は、仕立て屋へこれを眺めに行くことすら、口実が必要だった。それに今、袖を通そうとしているのだと考えると、足は一歩をためらう。

 ソニアはワンピースを手に取って、胸の前へ当ててくれた。鏡には、可憐なワンピースと自分が映る。

「……ソニア、お願いがあって」

 ソニアは微笑んだまま、うん、と頷いてくれる。

「この服ね、私には……ちょっと、可愛すぎると思う」

 言葉を聞いても、ソニアは服を胸に当てたまま、じっと続きを待っている。否定もしないでいてくれることが、今は嬉しかった。

「……でもね、着たいんだ。背中、押して欲しい」

「絶対似合うよ! 自信持って!」

 言い終わるのに被さるように、明るい声が強く、背を叩いてくれる。ソニアの声に押された瞬間、胸の奥に灯がともったようだった。

 鏡の中で、ワンピースの淡い色が頬の赤みに溶けていく。花弁のように広がる裾は、少し震えながら光を返している。

 ――自分の中の願いを、誰かが笑わずに受け止めてくれることが、これほど前へ進む力になるとは知らなかった。

 鏡越しに目が合ったソニアが、いつもの調子で小さくウィンクをしてみせる。まだ恥ずかしかったけれど、少し笑い返せば、胸の中がふと軽く浮くような心地がした。



 店を出るころには、陽が傾きかけていた。紙包みを抱えた腕に、夕風が心地よく当たる。背中を押されたような温かさは、まだ胸の奥に残っていた。

 石畳に二つ並ぶ影を見ながらふと、言葉が口を突いて出る。

「相手が誰か、聞かないんだね」

「聞いてよかったの? すっごく気になってるけど」

 ふふ、と笑って、ソニアは顔を覗き込む。頬が熱くなり、紙包みを強く抱き締めた。今までとはまるで違って、誰かに聞いて欲しいような気持ちも、少しだけある。――けれど。

「デート……かわからないけど、お出掛けの後でもいいかな。話すの」

「うん、いつでもいいよ」

 楽しみ、と微笑むソニアの声が、やわらかな風に乗る。

「今日は、ティアが欲しいものを買えるのが一番だから。私よりティアの方が、彼の好みをよく知ってるでしょ。だから聞くのは、その後だなって思って」

 続く言葉も、どこまでもあたたかかった。胸をいっぱいにするそれに頷きかけてから、彼、という言葉が熱を持って心に引っかかる。単純に男の人を指す言葉なのか、恋人を指す言葉なのかに迷って、おずおずと口を開いた。

「あの、まだ付き合ってなくて……」

「そうなの? ま、そのうち付き合うでしょ」

 ――そうかな。そうだといいな。

 黙ってしまった一瞬にそんなことを考えたのが伝わったのか、ソニアは今度こそ、微笑ましそうに笑った。頬が熱くなってしまう。

 街が朱に染まり、暮れなずむ中、点灯夫が街灯に火をともしていく。

「デートの後、教えてね。ううん、デートの話じゃなくてもいい。お茶して、沢山話そ」

 うん、と頷くと、心の中にもひとつ、あたたかな光が落ちたように感じられた。


 夕暮れの風が花屋通りの香りを運んでくる。陽は傾き、石畳を照らす光が金色に変わっていく。

 抱えた紙包みに未来の重さを感じて、ふっと頬が緩んだ。


 長く伸びた二つの影は、まだもう少し、輝く夕暮れの中を並んで歩いている。


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