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31.朝陽に駆け出す、恋

 時計は四時半を指している。宿屋の部屋の中は暗く、雨が窓硝子(ガラス)を叩いている。夕方なのか朝なのか迷った。窓を開けると、街の灯りはまばらにしか見えていない。――夜明け前だ。

 まだマルタも、他の部屋の客も眠っているのか、宿の中には静寂が落ちている。着替えてからそっと一階へ降り、目が覚めたこと、少し出掛けることを台所へ書き置いて、外へ出た。傘の開く音が、寝静まった街に小さく響く。


 空も街も暗く、街灯の灯りだけが光を灯している。所々、早起きがいるのだろう、二階の灯りのともる家もあった。

 この時間だから、まだアストンも眠っているだろうとは思った。

 けれどきっと、心配をかけただろう。生真面目なアストンのことだ、自分が市場に誘ったからだと気に病んだかもしれない。だから、二階の灯りがともるまで少し待って、顔だけ見せようと思った。


 けれど――ずっと遠くからでもわかる。立ち並ぶ商店の一階が寝静まる中、アストラ・ポラリスだけは、煌々と灯りがともっていた。

 叩きつけるような雨脚に、店の明かりが滲む。初めて目にする光景のように思えてから、その理由がわかった。雨音が苦手なのだと言って、いつも、カーテンを引いていたではないか。それがカーテンだけではない、扉まで開け放たれている。

 まだ店の前に黒板が出ていないのは、雨だからだろうか、夜明け前だからだろうか。車道を挟んだ向こう側へ渡ろうとしたところで、また、石畳が水に浸ってしまっていることに気がついた。

 宿屋の前と違い、整備された石畳には跳ぶ場所が見当たらない。昨日から一晩続いているのであろう雨のせいで、溜まった水はそれなりに深く見えた。

 ――どうしようか。ためらいながら、ふと、石畳から顔を上げる。


 そのとき、店の奥にいたアストンと、視線が絡んだ。


 弾かれたように、アストンが飛び出してくる。傘もささないせいで、髪が、シャツが、深緑のエプロンが、次々と濡れそぼっていく。靴の浸かるほどの水溜まりを前にしても、こちらへ駆けることに、一瞬の躊躇もなかった。

「ティア、……」

 掠れた声に、名を呼ばれる。揺れ動く瞳はまだ、これが現実だと飲み込めていないような色をしていた。そのことに胸が痛む。

「心配かけちゃったかなって思って。……あの、濡れちゃう」

 すでに髪からは雫が滴り落ち、エプロンの色は変わっている。それでも傘を差し出した。

 柄を伝い、冷たい水が指を濡らす。その上から、アストンの手が重ねられ、強く押し戻される。

 一瞬で、鼓動が跳ねた。濡らすまいとされたことにも――何よりも、ずっとカウンター越しに眺めていた、器用な手。するすると革に再び命を吹き込んでいく、節のある手。触れられてみたいと心のどこかで思っていたそれが、初めて重ねられていることに、頰が熱くなった。

 気遣う手はするりと離れ、駆ける鼓動だけが残されていく。

「身体は、大丈夫なのか」

「うん。あの、風邪ひいちゃうよ。お店、入ってもいい?」

 アストンは頷いてから、手を引く代わりに、何度もこちらを振り返った。まるで、目を離せば消えるとでも思っているかのような仕草だった。


 濡れたからだろう、裏口から家の方へ入るように頼まれる。扉の内に入れば、アストンの身体から木の床に雫が滴り落ち、音を立てた。濡れた髪をかき上げて、軽く息が零される。

「よかったら、タオルとか持って来ようか?」

「ああ、ありがとう。助かる」

 ほっと頷いたのを見て、先に階段を上がる。途中で背後から、あっ、と小さな声が上がった。振り返ると、アストンが口を押さえてこちらを見ている。

「……何でもない」

 そう言って、視線を逸らした。何かを誤魔化したような、少し妙な間が残る。

 寝室の扉を押し開けると、洗いたての布の匂いと、わずかに残る革の香に包まれる。タオルは、壁際の籠に、きちんと畳まれたものが見つかった。そのすぐ上の壁に掛かるのは、灰色の細い縞のシャツと、夏空のように爽やかな青のベスト。少し場違いなほど洒落た色合いに、思わず立ち止まった。

 タオルを抱えて階段を降りると、下からアストンが手を上げた。

「投げてくれ」

 言われた通りに投げるのは気が引けて、一段ずつ降りて手渡す。受け取ったアストンは、何故か一瞬、複雑な顔をした。眉がほんのわずかに顰められる。まるで、何かを言いかけて飲み込んだかのように。

「すまない。着替えてくるから、座って少し待っていてくれ」

 促されて、居間の椅子に腰を下ろす。雨音はまだ屋根を叩いている。針の進む音も、ミシンの唸りもない朝は、どこか不思議な静けさだった。


 やがて、寝室の扉が開く気配がして、アストンが戻ってきた。濡れた髪を拭きながら、いつもの白いシャツに、茶のベストを着込んでいる。先ほど見た服ではない。あれは外出用なのだろうかと思う一方で、失礼ながら、仕事ばかりのアストンにしては随分と洒落たもののようにも感じた。

「壁にかけてあった服、アストンのだよね?」

 軽い雑談のつもりだったけれど、問えば、妙な間が空いた。

「……うん」

 ややあって、幼い返事が返る。何かを誤魔化そうとしているような気配があった。

「違うの?」

「いや、貰ったから、俺のだ。……アンナさんと、アネッサさんから、息子のお下がりだと言って」

 辿々しく教えられたのは、肉屋と牛乳屋の婦人の名だった。

「別々に貰ったんだ? 色がよく合ってたから、まとめていただいたのかと思っちゃった」

「いや、まとめて貰った……なんか、示し合わせて……張り紙を、セーラさんが見て……」

 しどろもどろと話す内容を纏めると要するに、臨時休業の告知を見た近所の婦人に事情を問われ、ティアと遠出をするのだと正直に答えたらしい。するとそれが婦人たちの間で何やら噂になり、その日に着る服はあるのかと世話を焼かれたいうことだ。

 ――とてつもなく、恥ずかしい状況ではないだろうか。

 タオルを取りに寝室へ入ろうとするこちらを見て、あっと上がった声思い出す。躊躇した理由は、きっとこれだったのだろう。

 アストンはうろうろと視線をさまよわせ、それからこちらへ戻す。

「俺の服の話はいいんだ、身体はいいのか? 脚も、怪我していただろう」

「脚? あ、そういえば……大丈夫。なんてことなかったよ」

 階段の上り下りを止められたのはそのせいだったのかと気がついて、胸にぽっと熱が灯る。アストンは言葉を信用していないようだったから、立ち上がり、くるっと回ってみせた。

「ほら、元気元気!」

 ――弾みに、ぐう、と腹が大きな音を立てる。慌てて押さえたけれど意味はなく、かっと顔が赤くなった。

 アストンはふっと頰をゆるめた。からかうような顔ではない。零れたのも、安堵したような息だった。

「パンしかないが、よかったら食べて行くか? 俺も、朝食がまだなんだ」

 普通なら遠慮すべきなのだろう。でも、もう少しだけ一緒にいたくて、頷いてしまった。

 座っているよう言い付けられてしまえば、アストンの背を眺めるくらいしかすることがない。パンだけと言っていたのに、卵を焼いて、珈琲を挽いて、たっぷりのミルクと一緒に注いでくれた。

 好きなひとに、ご飯を作ってもらっている。

 その事実だけでくすぐったくて、なんだか、口数が少なくなってしまった。


 料理をしてくれている間、アストンは欠伸を噛み殺していた。それが朝食を終えてしばらくすると、とうとう目を擦り始める。

「ごめん、朝早くに押しかけちゃったよね」

「大丈夫だ、元々、寝ていなかったから……」

 眠そうな言葉に驚いたけれど、出かけた声をぐっと飲み込む。寝ずに夜を明かしていた理由を問うほど、馬鹿ではなかった。

「少し寝た方がいいんじゃない? お仕事で針とか使うんでしょ、心配だよ」

 うん、ともううん、とも判別のつかない相槌が落ちる。首が横に振られてからようやく、否定だったのだとわかった。

「寝たら、起きたとき、ティアが元気になったのは夢だったんじゃないかと思いそうで……」

 愛おしさに、ぎゅっと胸が締め付けられる。

 何か出来ることはないかと考えるうちに、脇の机にメモとペンを見つけ、手に取った。来た印を残せば、後で見返して安心できるだろうと思ったのだ。けれど、書くことが浮かばず、適当な花の絵を描いた。

「これ、置いていくから、ちゃんと寝てね」

 うん、といつもより幼い返事が返る。しょぼしょぼとした目で覗き込んだアストンは、そのまま紙を手に取った。

「また花だな」

 またとは、と疑問が浮かぶ。

 けれど言葉の意味を問うより先に――紙は、アストンの口元へ寄せられる。

 そうして、眠そうな瞳は甘く蕩け、ふっと笑った。


「リースと一緒に、取っておく……」


 その一言を、声色を、表情を五感が感じ取った瞬間、今まで覚えたことのないような気恥ずかしさが、稲妻のように全身を駆け抜けた。

 だからどう挨拶をして立ったのかもわからない。気付けば、家の外へ飛び出していた。


 花暦祭の前に渡した、手作りのリース。花屋のソニアからは、祭りが終わればリースは焚き上げてしまうものだと聞いていて、前に寝室で見かけなかったのもそのためだと思っていた。思っていたのに。

 それに、あんな、落書き。ごみのようなものを、取っておくのは、何故。どうして。

 好きなひとに、唇を寄せるようにされていた紙を思い出すと、恥ずかしくて、けれど――どうしようもなく胸はくすぐったくて、嬉しいのだと叫んでいた。

 頰が熱い。なのにその熱を、もっと抱えていたいとも思う。


 朝日の差し始めた石畳をしばらく駆けてから、傘を忘れてきたことに気がついた。けれど、もう要らない。いつの間にか、雨は上がっていた。

 眼前に伸びる石畳は濡れて光り、水面のように煌めく。鮮やかな色彩の家々も、シャワーを浴びた後のように、爽やかな顔をして並んでいた。


 朝の始まる街を、軽くなった身体で一歩、また一歩と前へ進むうちに、足取りは自然と跳ねる。雨に洗われた空気は透き通っていて、胸いっぱいに吸い込むと、少し笑みがこぼれた。

 そういえば、デートに着て行く服がない。どうしようか、と幸福な悩みを巡らせるその横を、風が通ってゆく。金の髪が一筋攫われ、光を受けて煌めく。

 それは、長雨明けと夏のはじまりを告げる、爽やかな風だった。


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