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30.愛したい

 マルベリー宿の二階。夕闇の中、窓を叩く雨音が、止む気配もなく続いていた。

 寝台にはティアが横たわっていた。掛け布の端からは包帯を巻いた脚が覗いていた。

 ベネディクトは小さなランプを手元に寄せ、静かにティアの脚を確かめる。

「塞がりかけていますね。損傷していないんじゃない、治りかけている傷口です。血色も悪くない。こちらは薬を塗っていればよいでしょう」

 皺の刻まれた声が、雨音に溶けるように低く響いた。マルタは小さく息を吐いて頷く。しかし、老医の顔はすぐに曇った。

「問題は、意識ですね」

 ティアの額に手を当て、まぶたをそっと押し上げる。

「瞳の反応も、脈も問題ありません。頭を打ったかもしれないとのことでしたが、すぐに命がどうこうということはないでしょう。様子を見ましょう。何かあれば、夜中でも構わず呼んでください」

 そう言って立ち上がると、ベネディクトは薬箱を手に部屋を出ていった。

 入れ替わるようにして、マルタの夫が階段を上がってくる。

「魔獣の行商人の話、聞いたか。あいつ、やっぱり密猟者だったらしい。先の街で憲兵に捕まったってよ」

 それを聞いても、アストンは動かなかった。

 窓際の椅子に座ったまま、血の気の引いた顔でただ床を見詰めている。医者が話していたときも、ずっとそのままだった。 握りしめた手の節が白く浮き上がっているのを見て、マルタは胸の奥で思う。――ティアも父親の二の舞になるのではと、怯えているのだろう。

「私が見てるから、あんたは店に戻りな」

 わざと明るく言って、手をひらひらと振った。

「目が覚める前に店が潰れちゃ、ティアに怒られるだろ」

 アストンは小さく首を振り、何か言いかけてやめた。その肩に、マルタの夫が手を置く。

「そうだ、頼みたい修理が山ほどあったんだ。雨で馬具から靴まで、傷んじまってなあ。運ぶのを手伝ってくれ」

 ――一人で帰らせるのが心配だった。修理品を口実に、店まで一緒に連れ帰るつもりなのだ。

 マルタは寝台のそばで、まだ眠るティアの髪をそっと撫でる。外では、雨脚がさらに強まっていた。


 二人が出た後、マルタが一階へ降りると、帳場にはまだ灯がともっていた。

 ベネディクトは帰る支度もせず、来客と向かい合っている。客の肩は濡れており、顔は赤く、目の端は涙で濡れている。ジョルジョ――あの魔獣を仕入れてしまった、張本人だった。

「……こんなことになっちまって、嬢ちゃんに申し訳が立たねえよ」

 ジョルジョは鼻をすすりながら、抱えてきた厚い本を卓上に置いた。革の装丁は擦り切れ、ところどころに紙片の栞が挟まっている。

「嬢ちゃんがあれの名前を教えてくれたんです。ほら、ここ……先生、なんとか治せませんか」

 ベネディクトは頁を繰る。手元のランプが、古い文字をゆらりと照らした。

「夢喰い……古い記録ですね。人を昏睡させ、夢を見せ続ける」

「そうなんです! この下に……」

 ジョルジョが指で文字をなぞる。老医は並ぶ文字列を、低く読み上げた。

「昏睡した人々は、たいてい安らかな夢を見ていたという。夢だと気づけば目を覚ませるが、長く夢に留まれば、身体は渇き、衰え、やがて命に危険が及ぶ……」

 店の奥の柱時計が、ぼんやりと時を打った。雨音が、いっそう強まる。

 マルタは言葉を失い、ただティアの寝顔を思い浮かべる。よい夢を見ているなら――どうか、そこで迷わず、戻ってきておくれ、と。

 ベネディクトはそっと本を閉じた。

「……目を覚ます術は、彼女の中にしかありません」

 ジョルジョはうなだれ、嗚咽をこらえるように唇を噛む。

 マルタはその背を静かに撫でながら、軒から滴り落ちる雨音を、共に聞いていた。



 どこか遠くで雨音の聞こえた気がする。首を傾げると、頬をくすぐる風が、やけにやわらかかった。

 顔を上げれば、雲一つない空が広がっている。石畳は陽を返して白く輝き、通りの向こうには色とりどりの屋根。人々の声が、穏やかに混じり合っていた。

 立ち上がった瞬間、ふと違和感を覚えた。視界が高い。腕を振ると、驚くほど軽い。花の香を孕んだ風が頭上で何かをくすぐり、思わず手をやる――そこに、柔らかな毛並み。

 足を一歩、前へ出す。靴底が鳴るたびに、周りの人がこちらを見て、笑顔で声をかけてくる。

「さすがイヌミー族の嬢ちゃんだねぇ」

「頼もしいね。また手伝っておくれ」

「あんたがいれば、安心だよ」

 誰の役にも立てる。誰からも必要とされる。

 ティアは笑い返しながら、胸の奥があたたかく満たされていくのを感じた。

 診療所での仕事は、まだ日が浅いながらも、充実感はあった。以前よりも、人の役に立てている。自分に少しだけ、自信が持てる。けれど、この身体ひとつで立つ軽やかさはそれよりもずっとずっと、鮮やかだった。


 通りの窓には自身が映る。金色の耳が陽に透けて、眩しく輝いている。

 知っている――こんな自分は、現実にはいない。

 それでも、夢だと知ってもなお、頬をなでる風は心地よい。呼吸は楽で、胸の痛みも、冷たい夜も、もうどこにもなかった。

 覚めなくていい。先のない、閉じた幻想でも、もう手放したくない。ここで何もかも終わったって、よいとさえ思った。


 通りを進むうちに、鮮やかな街並みの向こうに、青の屋根が見える。小走りで駆け、扉を開ける前に、呼吸をひとつ。カラン、と軽快な鐘の音と共に押し開ければ、中では革ミシンの低い音が響いていた。

 陽の光がやわらかく差し込む中、店の奥でアストンの視線が上がる。ふっと目元をゆるめ、カウンターへ座るように視線で促してくれる。その後はまた、真剣な眼差しは手元へ戻り、ミシンの音が再開した。白いシャツの背に、交差する深緑の紐が映える。それを眺めながらふと、耳に触れた。

 ――自分は、アストンからの称賛が欲しかっただろうか。


 今でもまだ、わからない。アストンはどうして、自分をやさしい瞳で見てくれるのか、その理由が。

 だって、仕事の手伝いをしているわけでもない。料理を届けているけれど、作っているのはマルタだ。何の役にも立っていないのに、どうして。どうして、ただ私というだけで、好いてくれているのか。


 街の人からの称賛は、涙のにじむほどに嬉しかった。子供のころから欲しくて、届かなくて、いくら泣いても駆けても得られなかったもの。

 ――けれどこれは、耳に向けられた声だ。私自身に向けられたものではなかった。


 マルタは、不器用なりに少しでも上手く捌きたいと思う自分を、 「これだけ熱心ならどこへでも紹介できる」と褒めてくれた。

 ソニアは、拙くても懸命に働こうとする自分に、「やる気のある子は大歓迎」と笑ってくれた。

 ベネディクトは、失敗を繰り返しながらも進もうとする自分を、「明日も待っていますよ」と認めてくれた。

 この街に来てから、耳がなくても、私は何度もティアとして見てもらえていたのに。 どうしてそれを忘れていたのだろう。


 いつの間にか、窓の外は雨が降っていた。 意識を失った瞬間の、続きのように。

 このまま目が覚めなければ、アストンは悲しむだろうか。そんな考えが、ふと浮かんだ。けれど自分だって、すぐに打ち解けられたのだ。また他の誰かが、自分と同じようにアストンにご飯を持って行って、寂しさを埋めてあげるのではないだろうか。そうして何年か経てば、アストンはその誰かと結婚しているかもしれない。自分にはきっと、代わりがある。

 それに、耳があれば、皆が自分を褒めてくれる。自分も役に立てるのだと、ようやく思える。


 ――けれどそれは、属性への称賛だった。自分ではなくても、構わない言葉。


 ミシンの音が止まり、アストンが糸を切る。

 上がった緑の瞳と視線が合い、いつものようにやわらかく微笑まれる。

 胸が、苦しいほどに締め付けられた。


 欲しかったのは、誰かからの称賛じゃない。ただひとりの人に、必要だと思ってもらえる自分だ。

 いや、それも違う。

 必要とされたいのではない。私が、この人を必要としたかったのだ。


 不意に、明け方の寝室が脳裏によみがえる。カーテン越しに仄かに光る朝の気配の中、ベッドの縁に座るアストンと交わしたのは――一緒に海に行こう、という約束だった。

 あれは、ただの気晴らしではない。望むことを恐れずに生きるという、再出発の約束だった。


 耳が欲しかったのは、誰かに選ばれて愛されるためだった。

 でも、今は違う。耳がなくても構わないから、この人と望みを語り合って生きたい。

 この人と一緒に、この先を望みたい。


 ミシンの音が再び動き出し、革が滑るように送り出されていく。

 踏み板を押すアストンの足先がわずかにリズムを変えるたび、針の光が跳ね、航路を示す星のように煌めいた。


 ――私が、この人と生きたい。

 この気持ちをきっと、恋と呼ぶのだ。


 胸が引き絞られる。込み上げた熱が瞳から零れる。

 アストン、と叫ぶのに呼応するように、景色が光の粉となって崩れてゆく。

 眩い白の中で、何かがふっと軽くなる。呼吸の感覚が戻り、指先がかすかに震えた。



 ――あれ、と思うより先に、頬を伝う温もりに気づいた。

 泣いている。

 自分でも理由がわからないまま、胸の奥が痛くて、あたたかくて、どうしようもなく涙が溢れていた。


 目を開ければ、まだ夜明け前の深い青が、窓の隙間から差し込んでいる。静かな部屋の中に、自分の息づかいだけが響いていた。


 ああ、そうか――と、思った。

 私は、アストンが好きなんだ。


 そう思った瞬間、またひと筋、涙が頬を滑り落ちる。

 それは痛みではなく、夜明けの訪れを告げるような、穏やかな熱だった。

 


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