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3.鮮やかな街

 通りを馬車が走り、荷台にぎっしりと詰まれた籠や樽が揺れる。馬蹄(ばてい)が石畳を打つたび、湿り気を帯びた光がきらめいた。通り幅は馬車がすれ違えるほどの広さがあり、吹き通る風が心地よい。ティアは店先の花や果物に視線を遊ばせながら歩いた。

「ここは街道沿いだから、汽車の駅までずっとこうだよ。川の方へ下れば、家や畑ばかりになるけどね。さ、着いたよ」


 マルタが営んでいるという宿屋は、通ってきた家々と同じように、木の骨組みが鮮やかな建物だった。けれど漆喰(しっくい)の壁は、まるで陽の光をそのまま閉じ込めたような、ひときわ華やかな黄色。おかみさん、という言葉が似合いそうなマルタに、たいそう似つかわしい明るさだった。入り口には「マルベリー宿」の看板と、一泊の値段が掲げられている。

 お金は足りるだろうかと浮かんだところで、ティアは、はっとポケットを探った。命の次に大切な、小さな革袋が指先に触れる。安堵しながら反対のポケットに手を入れると、お金の入った袋もちゃんとそこにあった。

「朝食はやってないんだけどね。まだ他に客もいないし、お腹空いてるなら何か出すよ」

「ありがとうございます。代わりに何か手伝います、力仕事でも、何でも」

「じゃ、後で何か頼もうかね」


 遅めの朝食を取る間、マルタは色々なことを教えてくれた。この街は旅人や荷馬車がよく通る街で、商店が栄えていること。マルタの旦那さんも運送業に従事していること。だから、この宿はマルタが一人で回しているということ。

 たいそうよく喋るものだから、何よりも気になっていた、自分を助けてくれた――あのアストンという青年のことを尋ねる隙間がなかった。

「晩は食事もやってるんだよ。下準備をするから、(さば)くのを手伝ってくれるかい」

 ティアが食べ終わるのを待って、マルタはそう言った。それに二つ返事をして答えたのは、肉の解体ならば少し自信があったからだった。

 ティアのイヌミー族は、魔獣の駆逐や狩猟を生業にする者が多い。そうでなくても都市部へもたびたび小さな魔獣が紛れ込んでくるものだから、学校でも対処の仕方を教えられてきたのだ。捌く練習なら、沢山してきた。鶏や牛のようなものなら、ナイフの扱いに心得はある。

「できます! やれます」

「お、頼もしいねえ。じゃあ、これなんだけどね」

 どん、と調理台へ乗せられた籠に積まれていたのは、魚、だった。

 思わず、身体が固まる。――魚、は捌いたことがない。水生生物は捕まえることがなかった。勿論(もちろん)食べたことはあるけれど、ずっと寮生活で食事も出ていたから、料理もさほど手慣れてはいないのだ。

 自信ありげに返事をした手前、包丁を入れようとしたが、手を止める。つまらない矜持をぐっと飲み込み、胃に落とした。

「あの、すみません。魚、捌いたことがなくて」

 教えてもらってもいいでしょうか、と正直に告白をする。呆れられるかと思ったけれど、マルタはひとつ大きく笑ったきりで、見てな、と軽く言って一匹を手に取った。

 包丁が魚の上を滑る。うろこが取られ、腹が開き、あっという間に身が切り分けられる。最後には、尾のついた中骨だけがきれいに残った。

「やってみて、わかんないところがあれば聞きな」

 何もかもがわからなかったが、真似をして、魚に包丁を押し付ける。うろこが調理台の下へ飛び散る。刃を入れれば身がぼろぼろと削れる。細かく刃を前後させるから崩れるのだと思い、力を入れれば勢いよく包丁が滑り、ひやりと嫌な汗をかいた。

「包丁は立てるんじゃなくて、寝かせて骨に沿わせるんだよ」

 刃を滑らせるようにね、と言われたとおりにしたつもりが、身の端が不格好に千切れる。マルタは折々で助言をくれたけれど、頼まれた二尾は結局、ぼろぼろと身を崩しただけになってしまった。

 その間にマルタは、残りの五尾をさっさと捌いてしまっていた。長く続けているからだろうか、それとも手先の器用さが最初から違うのだろうか。


 カウンターに脱いでいた革手袋が視界に入り、ふと、アストンの姿が脳裏に蘇る。

 染料と油の染み込んだエプロン。まだ朝早くから仕事着を着ていた彼は、一階にある店の方から上がってきた。何かの作業の途中だったのだろうか。


「初めてにしちゃ上出来だよ。味は変わらないんだから、スープかコロッケにしようかね」

 上出来だなんてとんでもなかった。ああ、それに、それに、これだけはできると思ったのだ。上手にこなして、すごいねと、言われたかった。

 作業を始める前の自分の、そんな馬鹿な妄想を思い出して、頬が熱くなる。

「夕方にまた、追加の魚が届くんだけどね。そっちも手伝ってくれるかい」

 ティアは弾かれたように顔を上げた。まだ、チャンスがある。二度頷いてから、手を拭いていたタオルを握り締めた。

「あの、書くものを貸していただけませんか」

「手紙かい? メモならそこにチラシがあるよ、いくらでも持っていきな」

 礼を言いながら、忘れないうちに、マルタの言葉を走り書いた。うろこは尻尾から頭に向かってなでるように。お腹を開けるときは、内臓を潰さないように浅く。骨は切らずに、刃を骨に当てて滑らせる。

 そうして、夕刻までは読み返そうと思った。けれど、疲労のせいか――安堵のせいか。二階の部屋へ辿り付けばそのまま、泥のように眠ってしまった。



 夢の中で、ティアは教科書を開いていた。頭に刻み込むように、ノートにペンを走らせる。実技は及ばなくても、座学は、時間をかければ何とかなる。

 ――座学がいくらできたって。

 止まったペン先に、インク溜まりが、黒々とした染みを作った。



 頭は重かったけれど、幸いにも支度の前には目が覚めた。宿には客が着いているようで、隣の部屋からは賑やかな声がする。急いで階段を下りると、マルタはエプロンで手を拭きながら、よく眠れたかいと尋ねてくれた。

 この優しい人に、もう魚はやらなくていいよ、と言われたくないと思った。言わせたくないと思った。

 だから、握り締めて寝ていたメモを傍に置きながら、刃に集中をする。片面の身が離れ、切り口がつるんと光る。

「お、たいしたもんだね。すごいじゃないか」

 マルタの感嘆の声に、内心でそれほど胸を撫でおろしたか。心の奥に居座っていた氷がようやく解けたように、ほっと息が零れる。

 結果が出せた。そうしたら、褒められた。

 そんな馬鹿みたいに単純な感想を持ちながらも、そろそろと、残りの魚も捌いていく。また、たいした数は捌けなかったけれど、それでも先ほどよりは、ずっと肩の荷が下りた心地だった。


「仕事がいるんだって? これなら、ここいらの店に紹介してみようかね」

 ティアの魚と自分の魚を混ぜて、塩を振りながら、マルタは言う。思わず問い返した。

「魚を捌く仕事があるんですか?」

 マルタは、捌きたいなら料理屋に聞いてみるけど、と笑った。

「これだけ熱心にやってくれるなら、どこにでも紹介できるってことだよ。このあたりは商店街だからね」

 その言葉に、胸の奥がじわりと温かくなる。姿勢なんてものを褒められるとは、つゆにも思わなかった。面映ゆくて、それでいて涙腺が緩みそうなほどだった。


 商店街――と耳にした途端、その温もりの中に、またあの青年の姿がよぎる。

 店では手袋を売っている、修理もできると言っていた。アストンは、何の店の息子なのだろうか。店に赴けば会えるのだろうか。

 マルタに問おうとした声は、魚を揚げる音に遮られ、機会を失った。

 明日は、明日こそは、必ず。

 心の中にはまだ、あの色とりどりの染みのように、判別のつかない感情が居座っている。




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