28.商売繁盛、恋愛成就
毎朝、診療所で見せてもらっている新聞によれば、そろそろ長雨明けは近いらしい。
アストラ・ポラリスの扉に貼られた臨時休業の予告も、湿気で端がくるくると巻き始め、そろそろ剥がされたがっているように見えた。
相変わらず雨の日は窓にカーテンを引いていて、外からは店内の灯りが見えづらい。黒板を出しているからかろうじて開いているとわかるけれど、今日は扉の向こうから珍しく、話し声が聞こえた。
扉を押し開けると、カウンターの椅子に腰かけているのは、壮年の男性。アストンはいつものように店の奥にいるから、顔なじみの客なのだろうか、と思ったところで、男は振り向いた。
「お、塩の嬢ちゃんじゃねえか!」
陽気な声に一瞬きょとんとして、すぐに思い出す。春先のこと、通りがかりの荷馬車から塩袋が転がり落ちたとき、一緒に荷台へ積み直した男性だった。
「あのときの……! 腰は大丈夫ですか、私、手際が悪くって……」
「あんなの次の日には治った治った! あれから花屋で見かけねえと思ったんだ、どこにいたんだよ」
「今は診療所に……マルベリー宿に住んでいるので、夜はそちらの食堂にもいます」
働き者だねえ、うちの末息子に見習わせてやりてえわ、と歯を見せて笑う。寄ってきたアストンに、この人がダンデさんだ、と名を教えられて、どこかで聞いた名だと記憶を辿る。
よみがえったのは春先、仕立て屋からの帰り道だった。あのときアストンから聞いたのだ。父親がいなくなってからは、それまで他所へ頼んでいた修理をすべて、うちへ回してくれるようになったのだと。
「嬢ちゃんも修理かい」
「あ、いえ……。今日はおかずはないんだけど、代わりにお菓子をもらったから、おすそ分けに」
「ベネディクト先生から?」
菓子の出所を尋ねられて、首を横に振る。
それは、今日の帰り道のことだった。
患者が少なく、薬の補充も要らなかったおかげで、いつもより少し早く診療所を出られた。そうして岐路に立ち並ぶ商店を少し眺めながら歩くうち、一軒の雑貨屋に目が留まった。
前から雑多な商品が並んでいるのが気にはなっていたけれど、今日はショーウィンドウの布袋、草の詰まったようなものの横に、やけに大きな札が立っていたのだった。
そこには赤いインクで――惚れ薬、と書かれている。
薬効に惹かれたわけではない。薬学書をほとんど丸暗記しているけれど、魔獣の毒やキノコならともかく、薬草でそんなものは聞いたことがない。ただ、薬草の一種なら、煎じる練習に使えるかもしれないと思ったのだった。
扉を押せば、ベルの音につられるように、白い口髭を蓄えた男性が奥からやってくる。恰幅の良い身体に、朗らかな笑顔だった。
「これ、中はどんな薬草なんですか?」
「おっ、気になるかい? 南方の珍しい草でな、水と一緒に沸かして、一緒に飲めばいいそうだ」
布袋の一つを開けて見せた店主は、花も入っている、とそのとき初めて気が付いたように声を上げた。嬉しそうに胸を張るのを横目に、草を凝視する。
「……お茶じゃないですか?」
「え?」
「カモミール、メリッサ、リンデル。種はフェンネルですよね」
安眠薬としてならまだしも、惚れ薬と掲げて売るのはいかがなものか。心の安らぐ茶を一緒に飲めば仲が深まる、ということならばおまじない程度として許せもする。しかし、札に書かれた値が相場の倍ほどとなれば、話は別だった。
いたいけな少年少女から巻き上げるつもりかという怒りを込めてじろりと睨んだが――店主の反応は、想像とは違っていた。
「そんな……!? じゃあ、もしかしてこれも……?」
もう一つの袋を差し出され、ティアは開けて確かめる。
「セージ、アニス、タイム、喉には効きますけど……あ、人参の葉」
「人参……?!」
衝撃を受けたような声に、思わずふっと笑い声が零れてしまった。
その後、心底がっかりした顔の店主に頼まれ、いくつかの袋を開けて簡単に仕分け、正しい名と簡単な説明をメモ書きつけてあげた。詐欺を見咎められたから芝居を打っているのではないか、とも疑った。けれどそれならそれとして、しばらくは帰りに通い、また袋を混ぜ直して売っていないかを見張ればいいだろう。
夕刻の鐘が鳴らないうちに帰らなければと思い、さっさと引き上げようとすると、店主は慌ててこちらを呼び止めた。
「仕分けの礼だよ。持って行ってくれ」
籠に積まれていた商品――焼き菓子のようなものをひとつを取って、そのままくれた。甘く、ほのかにスパイスの香りがする。その包み紙にはまたうさん臭く、商売繁盛の文字が踊っていた。
そうしてティアは、今、その包みをアストンの前に置いている。話が終わると、先に笑い声を上げたのはダンデだった。
「絶対ジョルジョの店だな! 大丈夫だ、あいつ、仕入れ下手で有名だからよ。そんであの店は金物屋だ」
言われてみれば確かに、天秤が並び、棚には金物が積まれていた。それならショーウィンドウに金物を置けばいいのに、と思ったのが顔に出たのだろうか。ここらのもんはみんな金物屋だって知ってるよ、とダンデは膝を叩いた。
「本業の金物は一級品だが、寄り道が多いんだよな。珍しいもんがあると、つい仕入れちまう。空飛ぶ石とか、燃えないマントとかよ」
「空飛ぶ石……」
「悪いやつじゃねえんだ。秋祭りの寄付だって一番に出すし、市場の修理だって道具を貸してくれる。行商人のカモにされてるけどな」
褒めているのか貶しているのかわからない陽気な声に、つい失笑が零れる。そばに立つアストンを見遣ると、何とも言えず、困ったような顔をしていた。
「俺が、店を継いだ最初の年、税金なんかを気にかけてくれた人だ。……あの人なりに、良かれと思って売っただけで、騙そうとしたわけではないと思う」
慌てて二度、三度と頷く。アストンに庇われてしまうと、疑ったことが申し訳なくなった。
そして同時に、アストンを大事にしてくれる大人が何人もいるということに、心の奥が少しあたたかくなる。それは、アストンを遺していった父親の気立てが良かったからかもしれないし、何よりアストン自身が誠実で、仕事に真面目だからこそなのだろう。
「あんな小さな店に惚れ薬なんて卸すわけねえのにな。実際にありゃあバカ売れだろうよ」
ダンデが笑いながら言う。アストンはカウンターの上を片付けながら、首を傾げていた。
「あっても買うか? そのうち効き目が切れるんだろ。意味ないんじゃないのか」
「効いてるうちに、既成事実を作るんじゃないの?」
既成事実、と疑問を含んだ音で小さく復唱され、口が滑ったことを自覚した。頰がじわじわと熱くなり、聞こえなかったふりをして無視をする。
「……既成事実とは?」
素朴な声に再び問われた瞬間、顔から火の出る気がした。隣を見遣れば、ダンデは肩を震わせて笑いを堪えている。
「その……何だろうね……」
説明しようにも言葉が出てこない。アストンは少し考えるように目を伏せ、ふと何かに気付いたように「そうか」と呟き、それから「いや、そうではないか」と首を傾げた。ダンデは腰を曲げて笑いを押し殺している。
「何が『そうか』なんだよ」
「効いているうちに付き合う言質を取っても、切れてから別れられるだけなのではないかと思って……」
真面目な顔で言うものだから、ダンデはとうとう耐えきれずに笑い転げた。
顔を真っ赤にして俯く。アストンはますます首を傾げて、こちらとダンデを見比べていた。
「お前、ほんっと悪いこと思いつかねえやつだな」
ダンデが涙を拭いながら息を整える。アストンはまだ納得していないような顔をしていたけれど、これ以上引っ張られてもこちらが恥ずかしいだけだ。気まずさを誤魔化すように、包みをカウンターに差し出した。
「とにかく、商売繁盛かはわからないけど、よかったら食べて」
「そうか、ありがとう。ダンデさんも食べますか?」
「おっ、いいのか。じゃあ、あやかっていこうかねえ」
中身は何なんだとダンデにせかされ、アストンの手が包みを解く。香辛料の甘い香りが漂い、拾い上げたのはジンジャーブレッドだった。
――ハート型、の。
「おっさんがあやかってもしょうがねえな、こりゃ! 若えもんで食ってくれや」
ダンデが笑い転げながら帽子を被ったところで、夕刻の鐘が響き渡る。恥ずかしい話を打ち切ってくれた鐘の音に紛れて、ティアはそっと安堵の息を吐いた。
傘を開いて、夕暮れの小雨の中。ダンデが口にした、悪いこと思いつかねえやつだな、という評が胸に残っていた。
商売人としては、もしかすると一概に良いとは言えないのかもしれないけれど――それでも、そんなところに惹かれている。そして誰かほかの人もアストンをそう思ってくれているということが、誇らしかった。
ふと、小さくなりつつあるアストラ・ポラリスを振り返る。まだ片付けをしていたのか、それとも見送ってくれていたのか。アストンは扉の傍にいて、大きく手を振ってくれた。
鼻先にはまだ、ジンジャーブレッドの甘い香が残っている。




