27.やきもちやき
忙しいのではなくて機嫌が悪いのだろうか、と気が付いたのは、カウンターから話しかけてしばらく経ったときだった。
アストンが作業に集中しているときは、生返事しか返らないことも、相槌すら戻らないこともある。けれど今日は、時々手が止まる。明らかに聞いているような風であるのに、口数が少なく、視線もこちらに寄らなかった。
「……何か、怒ってる?」
作業机の前に座る肩が、びく、と跳ねる。しばらくの沈黙の後、迷うかのように、ぎこちなく首が横に振られた。
「私、何か嫌なことしちゃったかな」
「いや、違うんだ。ティアが悪いわけじゃない。俺の問題で、」
「私が関係あるんだ?」
ぐ、と言葉に詰まったその目は、墓穴を掘った、と語っていた。やっぱりそうなのかと小さく息を吐く一方で、心当たりがまるでなく、戸惑ってしまった。昨日の夕方はいつものように、穏やかな声で、おやすみと告げて店頭から見送ってくれた。そして今日来れば、話す前からこの様子だ。
「すまない。態度が悪くて、不快にさせてしまった」
「それはいいんだけど、どうして? 悪いことしたなら、ちゃんと聞きたいよ」
いや悪くはない、でも関係あるのだろうと堂々巡りの押し問答が続いてから、焦れたのはこちらだった。カウンターまで呼び寄せて、きっかけは何なのかと迫れば、アストンの視線が斜め下へ泳ぐ。それを覗き込んで捕らえれば、とうとう、観念したように口が開いた。
「朝市にいただろう、黄色のひさしの店で喋って……あれを、見て、」
――朝市。記憶を辿ったところで、思わずあっと声が出た。
続いて、顔が赤くなる。たった今まで忘れていたような出来事であったし、別に後ろ暗くもない、はずだ。けれど見られていたとわかると、急に羞恥が込み上げてきた。
栗色の巻き毛とそばかすが目立つ、若い男性の店だった。
通りがかったとき、台に吊るされたベルトのうちの一本が色鮮やかで、つい目を留めれば、目ざとく捕まってしまったのだ。
「お姉さん、似合いそうだね。あ、でももっと近くで見せてもらっていい?」
「え、いや……」
人懐っこい笑顔と、ベルトの赤につられて、何だかんだでつい寄ってしまった。すると青年はベルトをこちらの前に当てて、続いて自身の額に手を当てた。
「あーやっぱり! このベルト、絶対君みたいな人のために作られてるんだよ!」
芝居がかった台詞と仕草につい笑ってしまうと、本当のことを言ってるだけなんだけどなあ、と追い打ちがかかってくる。
「買わない? 俺としては、毎日これつけて歩いてるとこ見たいけど」
「うう……でもちょっと、私には可愛すぎるかも……」
「なんで? お姉さんの可愛さにベルトがかすんじゃうかもしれないけど、逆はないない!」
商売上のおだてとわかっていても、可愛い可愛いと言われて悪い気はしない。実際欲しくはあったし――けれど、今日は、いい加減傘を買いに来たのだ。どうしても買わなくてはならないし、じきに遠出をすることを考えれば、衝動買いをしてはいけない。
「すみません、今日はどうしても、ほかに買うものがあるので……」
「あはは、残念。じゃ、また来てよ。今度は俺がもっと似合うの探してあげる」
手を振る姿に背を向け、少し機嫌よく傘の屋台を探しに行った――それが、今朝の話だ。
「野菜を買いに、たまたま……」
うろうろとさまよう視線がようやく戻ってくるが、今度はこちらが目を合わせられなかった。別に、口説かれようが――そもそもただの営業文句であったが、それにしても、気まずくなるような関係ではない、はずだ。けれど、言い訳をしたくなる自分がいた。
「見てから、自分でも、よくわからなくて……当たるようになってしまっていた。すまない」
「あれは、その、売りたいから可愛いとか言ってただけで、可愛いのはベルトだし……」
ぴく、とアストンの指先が跳ねる。
――妬いている、のだろうか。妬いている? アストンが? 穏やかで、あたたかで、落ち着いていて、時々かわいいところのある姿しか見たことのなかったアストンの中に、独占欲のようなものが?
先ほどの、自分でもよくわからなくて、という言葉が耳の中でこだまする。
花暦祭の夕刻、アストンは初めて、笑いかけてくれた。来年までいてくれるのか、と言って。それならもっと早く、まだいて欲しいだとか、いつ旅立つのかとか、口にすればいいのにと思いもした。それを言えないほど、ささやかな思いしか抱えない人だったのだ。
今まで見たことのない顔を、アストンの中になかった悋気を呼び起こしたのは自分なのだろうかと思うと、不意に鼓動が早くなった。
ふと、カウンターに影が落ちる。顔を上げれば思いの外そばにアストンがいて、心臓が大きく跳ねた。真っ直ぐな眼差しに、掴まれる。
「――俺じゃ、駄目だろうか」
かっと、耳まで熱くなる。悟られないよう俯いて視線を逸らせば、アストン自身も、はっと我に返ったように口元へ手を当てた。言うつもりはなかったというような仕草だった。
「……違う。間に合うのなら、秤にかかる機会を貰えないだろうか」
それでも畳みかけられて、頭の中が真っ白になる。欲しがる練習を、と言い出したのは自分だった。けれど、急に強く引き寄せるとは思わなかった。心の準備が何も出来ていないまま、攫われそうになる。
「待って欲しい。俺が、」
ぐ、と一歩、詰められる。エプロンに染み込んだ革と油の匂いに、アストンの香が混じって、くらくらと思考の端を溶かす。
「――うちの名にかけて、もっといいベルトを作ってみせるから」
「……何の話?」
「ベルトを見ていたんじゃなかったのか……?」
一拍置いてから、勘違いをしただろうか、とアストンは赤くなる。馬鹿だった。馬鹿馬鹿馬鹿。私も馬鹿。
返事が思いつかず押し黙っていると、アストンはしばらくおろおろとした後、恥ずかしそうにそっと作業場へ戻って行った。その背を見ながら、ベルトはまだ買っていないのだと告げれば、どんなものを作ってくれるのだろうかと意地の悪いことをつい考えてしまう。
けれど、そうやって振り回すにはまだ、こちらも経験値が全く足りず。ただ忙しない鼓動を鎮めながら、唇を尖らせるので精一杯だった。
ちなみに、その日夜、同じ言葉で口説かれる夢を見て羞恥で転がることになるとは、このときの自分はつゆほども予想しなかったのだった。




