25.曇天に描く青
父の手の甲が、額に触れる。大きくて、節くれ立った手だった。
「熱上がってんなあ。先生呼んでくるか」
「いいって。寝てれば治る」
もう十六だった。半端な年齢は、仕事の上でも、生活面でも、まだ到底一人前ではない。しかし子供と呼ぶには大きすぎる。大丈夫だと続けた声は少し掠れていて、声が変わったばかりの頃を思い出した。
「欲しいものとかあるか?」
けれど、だからこそ、風邪の十六歳にかける父の声は、優しかった。
母が亡くなった原因が病であったことと無関係ではなかっただろうが、それよりもきっと、背の伸びつつある息子を甘やかせる、数少ない機会だったからだろう。
「……じゃあ、林檎」
その機会を密かに嬉しく思ったのは、自分も同じことだった。
林檎は元々好きなわけでも、そのとき食べたかったわけでもない。ただ、いつも器用に革を縫い上げていく父の手が、するすると林檎の皮を剥いていく。その様を見たかっただけだった。
そんな、馬鹿な理由だった。
「樽で買って来て、林檎のうさぎで集落でも作ってやるかね」
「いらん。一個でいい」
父は笑って、帽子を被って出て行った。
後で気付いたことだったが、家の玄関には、父の濡れた傘が残されていた。近所の果物屋まで行き、休業であるのを見て、一度帰ってきたのだろう。そのときに目が覚めていれば、川向こうまでは行かなくてよいと言えた。
もう十六にもなる子のために馬車を走らせながら、父は何を考えたのだろうか。
「農園まで行ってきたんだぞ。ありがたく食べろよ」
そんな冗談を笑って言いながら、恩着せがましさに渋い顔をする息子の枕元で、林檎の皮を剥いてやる光景だったのだろうか。
そんなあたたかで誇らしい父の、これから先も続くはずだった営みを断ち切ったのは――馬鹿な望みを口にしたのは誰だ。
あの日から、胸に生まれようとする小さな望みは、息を覚える前に消してきた。泡を指先でひとつ、ひとつと潰すように。
――もうこの先ずっと、何も欲しくなどない。自分に何を与えられることも望みはしない。
だから、だから、どうか。大切な人から何かを奪うことだけは、どうか。
煙る雨脚の向こうにも、見上げる星の海にも、誰もいない。
それでも、声にならない祈りだけがずっと、胸の奥で痛いほどの熱を孕み続けていた。
泣き疲れたのだろうか。アストンは深い眠りに落ちたようで、ベッドのそばを歩いても、もう静かな寝息が小さく聞こえるだけだった。
傍らに膝をつき、枕元へ寄る。赤くなった目元が視界に入り、胸が締め付けられた。
ひとりで日々を営み、かつて命だったものを縫い上げて新たな生を吹き込み、気丈に生きる姿を見てきた――つもり、だった。けれどその内側にはずっと、崩れかけた、脆い心があったのだろう。
初めて踏み入った、アストンの部屋を見遣る。枕元にまで雑然と積まれている本は、仕事に関わるものばかりで、走り書いたメモが所々に挟まれている。心を休める余白を、自ら作らないでいるようにも見えた。
一方で、春の終わりに――仕立て屋で沢山のボタンやレースを入れて貰った紙袋は、恐らく開けもされないまま、机の端に置かれていた。通った居間には、恐らく母なのだろう、女性の小さな肖像画と花瓶が置かれていた。けれど花瓶には、花も水もなかった。
この家は、生き延びるためのことのほかは視界に入れようとしないアストンを、体現しているかのようだった。
縋り付くように布団を抱える手を見下ろす。指先のかさついた手には、革を裁断したときについたのだろうか、治りきっていない細かな傷がいくつもある。所々硬くなっている皮膚は、黙々と仕事だけを重ねてきた日々が表れていた。
つい先日、自分はアストンのことを、こちらに要求をしてこない人だと考えた。
けれど、アストンの語ったことを顧みれば、それは本質ではなかったのだろう。
望みを持たないのではない。持っていても表に出さないのでもない。
願いが浮かんでも打ち消し、手の中に形として残さないようにしているのだ。
窓辺に寄り、カーテンの隙間から夜空を見上げる。厚い雲に覆われたままである今日の空に、星は見えない。けれど、見えずともそこに光るポラリスに、自分はずっと焦がれていた。
届かなくても、遠い煌めきを追い掛けて、駆ける先の目印として己に火をくべてきた。
望みを持つことを苦しむアストンに、それを押し付けるのは違うのだろう。けれど――それでもやはり、何も望まないまま、灯りのない空の下を歩き続けるというのは、どれほど胸を切られるものか。そんな生き方は、あんまりだろう。
自分に何ができるのかは分からない。だからせめて、今はここにいようと思った。
布団の端を直し、額に貼り付いた髪をそっと払う。
アストンがまた夢の中で誰かを失わずにいられるように、と願うことだけが、自分にできる全てだった。
傍らの床に座り込み、ベッドの端に頬を預けるうち、いくつかの夢を見た。そのうちの一つは、あの、花舞う祭りの夕刻の再現だった。
花を贈ってくれたことが、こちらの人生においてどれほど価値のあることだったのかを、きっとアストンは知るまい。
それでも、このあたたかく、不器用で、やわらかな人に何かをしてあげたいと、夢の狭間であぶくのように浮かべた。
「……ティア、」
掠れた声に呼ばれる。肩に、遠慮がちに触れる手がある。浮上した意識の中、顔を上げると、戸惑いと申し訳なさを煮詰めたような顔があった。
は、と窓を見遣る。仄かな光は、明け方のものだろう。床で夜を明かしてしまったことへ謝罪を言われる前に、口を開いた。
「具合、どう? 少しだけ顔色よくなったかな」
「ああ、うん。だいぶ、楽になった。……すまなかった、みっともない――」
まだ続きのある言葉を途中で打ち切ったような、不自然な間があった。視線が斜めに逸らされ、深緑の瞳が揺れる。
「熱も落ち着いたから、もう、大丈夫だ。ありがとう」
笑ってみせて、起きようとする。その足が床へ着くより先に、玄関先まで送ろうとしているのだと気が付いた。
昨晩を忘れている表情ではなかった。無かったことにしようとしているのだろう。
弱い部分も、幼い心も、罪――実際には罪ではないにせよ、アストン自身がそう思い込んでいるものも、望みたいという本心も、本当は、表に出す筈ではなかったに違いない。
――けれど。
「ね。……迷惑かもしれないけれど、私は、聞かなかったことにしたくないよ」
ひとりで抱えて生き続けるのならばきっと、果てなく心を擦り減らし続ける。
ならば、自分が隣で、少しずつでも望むことを手伝えないだろうか。
「私に何か、お願いしてほしい。どんなことでもいいから」
日々の些細な願いで構わない。それを一緒に叶えていけば、いつかまた、望めるようになるかもしれない。
――これは、望みを持たせたいという、一方的な願望ではない。この小さな手でも、どうかアストンの望みを守らせてほしいという、祈りだった。
アストンの瞼がわずかに震え、言葉を探すように唇が動いた。
「……じゃあ、水を……持ってきてもらえるだろうか」
掠れた声は、躊躇と羞恥を抱えていた。それでも、願いとして口にされたことが、ひどく愛おしく思えた。
「うん。待ってて」
スカートの裾を翻し、台所の流しの隅に置かれていた陶器の水差しを手に取る。夜の間に冷たさを纏った水を、カップへ注ぐ。
戻って枕元に差し出すと、アストンは両手で受け取り、喉を潤すようにゆっくりと飲み下した。ごくり、と水の通る音が小さく響き、頬の赤みが僅かに和らいだ気がした。
「ありがとう」
そう言ってカップを置いたアストンに、そっと問いかける。
「……ほかには?」
その問いに、睫毛が微かに震えた。視線が掠めては逸れ、影のような思いが表情に浮かんでは沈む。言葉は形にならず、唇だけが動いて止まった。
骨ばった手が、布団の端を握り直す。その仕草の後に落ちた沈黙は、ただ一呼吸ほどの間であったのに、ひどく長く感じられた。
やがて、首が横に振られる。
「……いや。もう、大丈夫だ」
それすら望みを覆い隠す癖のように見えて、痛みに似た感情が胸を打つ。
アストンは一瞬、光を目で追っただろう。それを直視できるようにと祈り、静かに笑みを添える。
「いいよ。教えて。私にできることなら、なんでも」
差し出した言葉が静けさに溶けて、さらに深い沈黙が降りた。
雨の音が重なり、時間が折り重なるように流れた後。
――ようやく、微かな声が滲み出した。
「……本当は、一緒に、海に行きたかった」
その瞳がそっと上げられ、迷いを宿したままこちらを見詰める。
以前に誘われたとき、頷けなかった後悔が、震える吐息とともに滲み出ていた。
「嬉しい。うん、行こう」
少し笑ってそう答えると、アストンの瞳が驚いたように揺れる。やがて唇の端がゆるみ、体温を取り戻したかのような息が零れた。
「……そうか。それを考えるだけで、随分、楽になる」
窓の向こうでは、明け方の雨がまだしとどに降り続いている。
曇天の下、街は濡れた灰色に沈んでいるけれど、胸の奥では不意に、陽に煌めく波が立ったように思えた。
次に訪れる景色を思い描くたびに、呼吸が深くなり、体の芯に静かな熱が差し込んでくる。
ベッドに腰かけたアストンの横顔は、淡い光に照らされ、幾分か穏やかに見える。それを見守るように、静かに瞬きを繰り返した。
まだ雨音しかない、明け方の部屋。それでも胸の内では確かに、まだ見ぬ潮騒の響きが広がっていた。




