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24.だから、行かないで

 分厚い革に刃を立てたが、力を込めても、するりと逃げてゆく。その軽やかな拒絶に、胸の奥で小さな無力感がざわめいた。

 刃を立てても、釘を当ててもびくともしない。かつてのアストラ・ポラリスでは仕入れていた革だとなめし工房からは聞いたが、一体どうやって父は扱っていたのか。記憶の底に尋ねても、答えは返ってこなかった。

 仕入れの見本にと、なめし工房から革の一部を貰ったのは、数日前のことだった。工房の大きな裁断機でようやっと刻んだという革は硬く、靴底に向いているだろうと思った。しかしそれは、加工できれば、の話である。


 棚から古い帳簿を引き出してみる。父と共に仕入れに行ったときの記録が残っているかもしれないと、熱っぽい頭を揺らしながら紙を繰る。けれど並ぶ数字も薬品の名も、意味を結ばずに目の前を通り過ぎていくばかりだった。

 喉に残るざらつきに、咳がこぼれる。肩に掛けたブランケットがずり落ち、慌てて掻き寄せた。厚いカーテンの向こうでは、雨の降り続く気配がする。作業場のランプを曇らせるほどの湿り気を帯びた空気が、肌に纏わりつくようだった。

 それでも父はきっと、この革を従わせたのだろう。自分の手には余るそれを、どうにかできるはずもなくただ見詰めていると、工房の空気までもが重く沈んでいくように思えた。

 帳簿を閉じ、手近に置いていた、母の遺した本――革の加工に関する書物を取り上げる。厚手の革の表紙は擦れて色を失っているが、指先に残る手触りだけは妙に馴染んでいた。


 幼い頃から、仕事は見て覚えろ、触れて覚えろと叩き込まれてきた。実際に手を動かしてこそ、身体に経験が染み込んでいくのだと。だから寄る辺のない今であっても、活字に縋らざるを得ない己を、ひどく恥じていた。


 しかし、色褪せた頁を(めく)れば、細かな図と手順が並ぶ。名も顔も知らぬ誰かの経験と知恵が、紙の上には刻まれている。

 ティアの輝く瞳がよぎる。ひとつの傘で歩いたあの日、語っていたではないか。本で知っていれば、次にどの薬草を選べばよいのか見当がつく、と。無論、実地で触れなければわからないこと――ペダルはどれほどの重さで踏み込めばよいのか、染料はどの温度で漬ければよいのか、そういったことは無数にある。けれど一方で、こうして頁の上に載る文字を、机上の空論という言葉で片付けることは、愚かなのだろう。

 指の腹で紙の図をなぞる。この革を、自分自身の手で扱う道があるのかもしれないという期待を出来るだけで、胸の内が少し軽くなる。熱で痛む頭にも、僅かな明かりが差したような気がした。


 そうして読み込むうちに、いつしか塔の鐘が鳴っていた。

 低く重たい音が、降り止まない雨脚を伝って響いてくる。六つ――夕方の刻限。

 本から顔を上げる。ティアが来るとしたら、もうとっくに扉を開けている頃合いである。けれど、今日はまだ影もない。

 来ない日があるのは知っている。頭ではそう思っていても、胸の奥に小さな空白が残るのを止められなかった。

 重たい足を引きずりながら、扉を押し開けた。途端に、湿った風が頬に触れる。雨脚は細かく、地面を濡らしながら、街全体を灰色に沈めていた。

 肩に掛けたままの厚手のブランケットの端を握る。熱のせいで身体の芯は火照っているのに、外気に触れる皮膚は妙に冷たく、汗が冷えては肌に貼りついてゆく。街路の灯りはぽつりぽつりと灯されはじめ、雨粒を透かして滲んでいた。夏前の雨は、昼よりもずっと冷たく感じる。熱のある身体には、なおさら堪えた。

 それでも、この雨の向こうに、誰かの足音を探してしまう自分がいた。


 滲んだ灯りを眺めるうち、いつの間にか胸中に、既視感がよぎる。熱のせいで揺らぐ景色が、いつかの雨に重なっていった。

 ――そうだ。前にも、こんな風に熱を出して、雨に煙る景色を眺めていたことがあった。


 まだ二年。もう二年。あの日も視界の端で、他所の家の窓灯りが水の膜に滲み、揺らめいていた。世界そのものが、水の向こうへ霞むかのように。

 ――今、自分はこうして本に(すが)る。不器用に回り道をしている。

 ――父がいないせいで?

 ――父がいないのは、天災でも不運でもない。

 他でもない、己のせいだ。


 あの日、自分のせいで、父は馬車に乗り、川向こうの農園へ出かけていった。

 戻らなかった。濁流に呑まれた馬車は見つかったが、父の姿は二度と引き上げられなかった。


 まだ、生きたかったはずだ。

 生きて、もっと靴を作り、もっと多くのものを教えたかったはずだ。

 それを断ち切ったのは、他でもない自分だ。馬鹿馬鹿しい願いが、二度と消えない穴をこの家に穿った。

 胸の奥に鉛が沈み、膝の力が抜けていく。

 二年が経っても、思い出すたび喉は焼けつき、全身を締め付ける。

 あのとき、あの一言を口にさえしなければ、今も隣にいて、大きな手で革を縫って、叱って、鍋いっぱいの夕餉を作って、嫌がる頭を無理矢理撫でてくれたのかもしれないのに。


 ブランケットを掴む手が震える。

 雨に滲む灯りは、ただ静かに揺れている。暗く深く、音もなく落ちていく心とともに、視界が酷く歪んでいった。



 扉の鐘が小さく跳ね、雨の匂いと一緒に、弾む声が店内へ飛び込む。

「診療が長引いて遅くなっちゃった! まだ開けててくれたんだね、よかった」

 濡れた髪を払いつつ、ティアはぱっと笑みを浮かべて中へ踏み込む。こんな時刻まで店先を片付けずにいるのは珍しい。待ってくれていたのだろうかと淡い期待に胸を弾ませながら、カウンターの奥、作業机に視線をやる。

「アストン? 寝てるの?」

 机に突っ伏した背が見える。居眠りなんて初めて見た、と浮かべながら、そろそろと近寄る。

「ね、お待たせ。届けに来た、よ……」

 足を進め、横顔を覗き込んだ瞬間、言葉が喉に凍りついた。頬は赤く火照っているというのに、唇は血の気を失って青白い。額には汗が滲み、息は浅く荒い。

「アストン、ねえ、わかる……?!」

 思わず机に手をつき、肩に触れる。熱い。触れただけで指先がびりつくほどの熱が籠もっていた。訪ねることが遅れた自分を責めると同時に、胸の奥に焦りが広がる。

 ティアは慌ただしく支え、どうにか二階の寝室へと連れて行った。重たい体をベッドに横たえ、額の汗を拭う。

「ちょっと待っててね。先生に、熱冷ましとか……そうだ、食べるもの、オレンジとか持ってくるから」

 部屋の出口を見遣り、立ち上がろうとする。その瞬間、強く、袖越しに手首を掴まれた。

「……行かないでくれ」

 低く震える声に、胸の奥がどきりと跳ねる。

 けれど振り返ったアストンの表情には、熱に浮かされた笑みも、弱った甘えもなかった。

「何も、欲しくない」

 緑の瞳は濡れたように潤み、瞬きを拒むように見開かれている。そうして、水の膜が溢れ落ちた。

「……だから、行っちゃ駄目だ」

 悲痛な声に、ティアは息を吞む。


 縋るように引き留められた手首だけが、切ないほどの熱を抱える。

 雨音は遠ざかり、狭い寝室には、荒い呼吸と微かな嗚咽だけが満ちていた。

 


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