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23.境界線を越えない

 手に職が出来たのなら、どこかに部屋を借りてもよいのではないか、と言い出したのはマルタだった。

「気持ちを抜きにしても、毎日一部屋埋めてくれるうえに手伝いもしてくれるんだから、そりゃあいてくれたら嬉しいんだけどね。でも、宿代だって馬鹿にならないだろ」


 その話をアストンにすると、いいんじゃないか、とあっさり答え、街の中には二階の一室を貸している店もあると教えてくれた。あまりにも平然とした言い方に、胸の奥がかすかにざわついてしまう。

「よくあるの?」

「探せばすぐ見つかるんじゃないか。うちも空いているし」

 言いながら、革に線を引いていた手がはたと止まる。そのまま固まって、二秒。

「いや、今のは決して誘っているわけではなく……いや、嫌なわけではないんだが、そんな非常識なことを言おうとしたんじゃなくて、その、空き部屋はよくあることと言いたくて……」

「大丈夫、わかってるから、大丈夫!」

 みるみる赤くなる耳を見て、言葉を途中で遮る。こちらまでなんだか熱くなってきたのを手で煽ぎながら、どうしてこの人は、こうも簡単にこちらを落ち着かなくさせるのだろうと思った。

 宿から出れば、こうして総菜を届けるという口実で来ることも、二人きりで話すことも、きっとなくなるだろう。アストンはそのことをわかったうえで、いいんじゃないか、と言っているのだろうか。

 自然と尖りかけた唇をきゅっと引き結ぶ。

 まだしばらくは、マルベリー宿にいよう。そんな小さなわがままを、胸の奥でそっと決めた。


 そうと知らないアストンは、革に印を打ちながら続ける。

「宿代が浮けば、ほかのことにも使えるんじゃないか」

 それは確かに、一理ある話だった。

 先日失くした傘も、結局今は宿の忘れ物――去年、旅の人が置いていったというものを借りている。新品でなくてもいいから、自分のものを買いたい。もう少し貯まれば、遠出もしてみたかった。

「汽車に乗ったことないから、お休みの日に出かけてもいいなあ。海とか、しばらく見てないかも」

 口にしてから、胸の奥に冬の海がよみがえる。切り立った崖の下で、冷たい風に吹きすさばれる灰色の波――あれは寒々しくて、長居できるものではなかった。けれど、夏ならどうだろうか。陽に煌めく波や、白い砂の匂い。きっと、まるで違う景色なのだろう。その想像だけで、胸が少し高鳴る。

「海か。見たことがないな」

「ないの? そんなに遠くないよね」

 この辺りの地図を思い出すが、そもそも生魚が市に並ぶのだから、きっと遠くはない。けれど汽車に乗るとなれば、往復だけで一、二日分の稼ぎが消えてしまうだろう。一人分なら思い切って出せたとしても、家族三人分となれば。アストンの父や母も、そうして諦めてきたのかもしれないと思った。

「逆に、汽車には乗ったことがあるんだ。仕事の手伝いで、遠出をしたことがある」

 作業を続ける横顔を見遣り、ためらう。

 ――誘ってもいいのだろうか。唐突すぎないだろうか。

 言葉を探すうちに喉が渇き、指先は落ち着かずに組み直される。

「行ってみたかったら、そのうち連れて行ってあげようか? 行きたい?」

 息を詰めて、答えを待つ。聞き流されるのではと不安で、心臓の音ばかりがやけに大きかった。

 アストンの手が止まる。

 そのまま落ちる沈黙は、会話の間としては長すぎて、胸の奥をじりじりと焦がした。

「……行けたら、いいんだろうが」

 その続きを待つ。けれど、革ミシンの低い音が重く積み重なるばかりで、言葉は落ちてこなかった。

 が、店が忙しい?

 が、金銭的に余裕がない?

 が、二人では嫌?

 出されなかった先の言葉を勝手に探し、密かに溜め息がこぼれる。せめて、行きたいが、とさえ言ってくれれば、それだけで気は晴れたというのに。


 アストンは、いつだってそうだ。花に触れるかのように優しくしてくれる。耳を赤らめる仕草に、思わずこちらの鼓動が乱れることだってある。だから時折、もしかしたら、と淡い期待を抱いてしまう。

 けれど一方で、強引に引き寄せることはおろか、こちらに願いを押し付けてくることもない。間に境界線が引かれているかのように、先には決して踏み込んでこない。


 あと一歩だけ踏み込んでくれたならば、この曖昧な気持ちはきっと、たやすく恋に傾いてしまうのに。

 そう浮かべた瞬間、胸の奥でかすかな羞恥が熱を灯した。

 アストンに惹かれつつあるくせに、結局は自分からは一歩も近づこうとしない。ただ相手に委ね、答えを待つばかり。

 そうやって、他人にこの気持ちを決めて欲しがる自分はきっと、卑怯だ。


 まだ名のついた関係でもないのに、遠出に誘った自分の口の軽さも恥ずかしく、胸の奥に淡い痛みが残っていく。

 反省と、まだ消えぬ期待と、その狭間で揺れている自分が苦しくて、エプロンの結ばれた眩しい背から目を逸らした。

 夕刻の鐘はまだ鳴らない。ミシンの低い音に、雨音が静かに重なる。ただカウンターの木目だけを見詰める自分もまた、境界線を越えられない、臆病者だった。

 


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