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22.うそつきさん

 雨がちの日々が続くようになり、濡れた木と草の匂いが、石畳の街路にふわりと満ちていた。日没にはまだ早いはずであるのに、初夏の雨は細かく降りしきり、街全体を早くも夕闇の色に染めてゆく。


 アストラ・ポラリスの窓はカーテンが引かれ、店内には灯りだけが温かな色を落としている。営業中であるのによいのかとティアが尋ねると、アストンの手が止まった。

「……あまり、雨の音が好きではなくて」

 革を裁断する音がまた店内に落ち、被せるように、遠くから鐘の音が微かに聞こえる。閉店の時間だ。

 アストンが店の前を片付けるのと一緒に、ティアも出て傘を差そうとして――あっと声を上げた。ない。扉の外、小さな空き樽に入れていた傘が、盗まれている。

「すまない、閉めていたから……見えないと思って盗まれたんだな、申し訳ない」

「そんな、アストンのせいじゃないよ。でも困ったなあ」

 間に合わせで買った中古品であるけれど、なくなったとわかると寂しくなった。それよりも、目下の困りごとは帰路だ。唇を尖らせて空を仰いでも、厚い雲はどこまでも重く、ため息だけが漏れた。

 まだ止まないよね、と呟くのを嘲笑うように、雨は未だ足元に無数の波紋を広げている。

「俺の傘があるから、差して帰ってくれ」

「傘、ほかにあるの? 明日も雨でしょ」

「なんとかするから、いい」

 それなら走って帰る、いや持って行けと押し問答が続く。なら、と言い出したのはアストンの方だった。

「宿まで送る。帰りは傘を貰って帰る、それならいいだろ」

 どきん、と大きく心臓が跳ねる。そのせいで、少し待っているよう言いつけられても、二度三度と頷くことしかできなかった。

 ひとり頬を押さえ、熱くなっていないかを確かめる。

 ――一緒に、傘に入っていくということだ。

 そのこと自体よりも、その提案がまさかアストンの口から出たというのが思いもよらず、鼓動が駆けた。親しくなっているとは思う。けれど決して身体の触れる距離には寄らないし、何かを受け渡すときのほかは、手の触れたこともない。それはきっと、節度を保とうと意図してくれているのだろう。

 誰かとひとつの傘に入ったことなどないけれど、目にしたことくらいはある。恐らく腕は触れる距離であるし、傍目にはどう見えるのだろうか。どう見られても、よいのだろうか。

 考えが巡って仕方がなく、額を窓硝子に押しつける。ひやりとした感触が、熱っぽい心臓の鼓動を微かに落ち着けてくれた。

 不意に、トン、トンと階段を小走りに駆け降りる音が響き、また心臓の拍が早くなった。窓の外から視線を逸らし、振り返る。

「よし、行くか」

 アストンは、ほのかに汗ばむ時分だというのに、外套を羽織っていた。傘をこちらに手渡すと、自分はそのフードを頭に被り、雨の中へ出ようとする。

 衝撃のあまりしばし見詰めてから、慌ててその腕を引き留めた。

「えっ、待って、待って、濡れるよね……?!」

「上着があるから、問題ない」

「あるでしょ、一緒に入って行ったらいいんじゃないの……?」

 はっとした顔を見て、なんだか気が抜けてしまった。一拍置いて、先走った気恥ずかしさが頬に舞い上がりそうになり、そっと息を吐いて静める。けれど外套を脱いだ下から現れたのは、初夏らしい軽やかなベスト姿で、また何故か鼓動の歩調が速くなってしまった。



 傘の外では、雨脚が石畳を細かく叩き、ところどころに小さな水溜まりを作っていた。馬車の車輪が通れば波紋が揺れ、そこに灯りが映って淡く滲む。

 ひとつの傘の下に身を寄せ合えば、想像よりも遥かに近かった。雨粒が布を叩く音がすぐそこにあるというのに、狭い空間に落ちる、互いの息づかいがやけに耳に残る。

 歩調を合わせれば、肩と肩がかすかに触れそうになる。わずかに避けては、また近付く。その繰り返しに、胸の鼓動がいっそう騒がしくなってゆく。

「大丈夫? 濡れてない?」

「ああ。ティアも濡れていないか」

 隣を見遣ると、喉仏が上下に動くのが目に入り、慌てて視線を逸らした。そんなところに目をやるつもりなんてなかったというのに、気を取られてしまった自分が恥ずかしい。

「仕事は、少し慣れたか?」

「うん。まだまだ失敗して叱られもするけど、楽しいよ。先生にね、薬学書も貸していただいたんだ」

「そうか。……リースと違って、薬草は持って帰れないから、大変だな」

 相槌のようについ頷きかけてから、言葉が少々引っかかった。宿では実際に薬草を扱えないから代替で本を読んでいる、というわけではないのだ。

「えっとね、咳に効く薬草はいくつもあるんだけど、同じ成分を持つ草は、ひとつが効かなかったら、ほかも効かないことが多いの。でも、別の成分を持つ草なら効くかもしれないんだ。そういうのは、触ったり眺めたりするだけじゃ気付けなくて……本を読むと初めてわかるんだよ。私はそれがすごく面白くてね、」

 変に緊張したせいで、喋りすぎてしまった。自分の仕事のことは、今はどうでもよくて、本当はアストンの話をもっと聞きたかった。いつもは作業の傍らであるから――最近は少し手を止めることも多くなってきたけれど、それでもこちらが一方的に話しかけることが多い。折角なのだから、ちゃんと、声を聞いていたいと思った。

「アストンは今日、何を作ってたの?」

「靴だな。……雨の時期になったから、革を替えて」

 返る声に、雨音とは違う温度を感じて、胸の奥がかすかにあたためられる。

「何の革?」

「クレイバンという……少し油がかっていて、泥汚れに強いんだ」

「クレイバンって、毛が茶色くてごわごわのあれだよね? ずんぐりしてて切りにくそうだけど、靴に出来るんだ」

 故郷の森で見た姿がよみがえり、身を乗り出した瞬間、肩がアストンの腕に触れた。ほんのわずかな接触であるのに、体温にまで触れたようで、心臓が跳ねる。慌てて半歩身を引き、傘の内側で頬に熱が昇っていくのを誤魔化した。

「まあ、厚いから扱いにくくはあるな。……というか、実物を見たことがあるのか? 俺は、革の状態しか見たことがないが」

 まだイヌミー族ということは隠しているというのに、口が滑った。本で見たんだ、と咄嗟に言い訳をして、雨粒越しに揺れる街灯の下でアストンを見上げる。

「私も、雨の日用に新しい靴買おうかな」

「もし買うなら、ちゃんと測って作るから言ってくれ。……いや、女性ものなら靴屋の方が洒落たものもあっていいだろうから、もしうちで買うならの話で、」

「買う買う、アストンのところで買うよ!」

 変なところで弱気になる人の腕を、肘で軽く小突いてみる。けれど、ちゃんと測る、という言葉が、妙に胸に残ってしまった。椅子に腰かけたこちらの足元に屈みこみ、尺を当てるのだろうか。少し骨ばった手が自分の足に触れる、その仕草を想像してしまって、また頬が熱くなる。

 熱を冷まそうと密かに大きく息を吸えば、雨と土の匂いに混じり――ふと、ほのかに甘い香がする。記憶の中を探るうち、先日自分の買った、洗濯用の香水の匂いだと気が付いた。

 使ってくれているんだ、ということが胸をくすぐり、まだまだ心は浮いたままのようだった。



 それでも、宿の灯りはいずれ見えてきてしまう。石畳の反対側、雨に煙る中でも窓からの灯りがあたたかく零れ、食堂からは食器の音と笑い声が漏れ聞こえる。

 帰り着いたという安堵よりも、到着してしまったことへの名残惜しさが、先に胸へと広がった。足はほんの少し、止まりたがっている。

「……しまったな。どこかで渡っておけばよかった」

 不意に、隣でアストンが呟く。言われて石畳を見遣れば――馬車二台がすれ違えるほどの通りは、溜まった水で満たされている。振り返れば、歩いてきた端の方はそうでもなかったが、見える範囲は同じ様相である。靴が埋まるほどの深さではなさそうだけれど、普通に水溜まりへ入れば惨事にはなるだろう。

「あそことあそこを跳んでいったら、行けないかな」

 石畳の少し盛り上がった部分が、水の上に出ている。指をさしてみたけれど、アストンは――なのか、ヒトはなのか、夜目があまりきかないのだろうか。視線をさまよわせている。

「何、どこ……?」

「やってみようかな。傘持ってて」

「いや、傘は持って行ってくれ」

 じゃあすぐ来てね、と念を押し、傘を受け取る。すぐに大きくひとつ、ふたつと飛び移る。細かな水しぶきが裾にかかっても気にもせず、振り返って大きく手を振った。

「早く!」

 アストンが、一歩を踏み出す。

 次の瞬間、水飛沫が大きく弾け、思い切り石畳の水溜まりに沈んだ。

「ごめん、無理言っちゃった……!」

 慌てて声を上げる。けれどアストンは顔をしかめるどころか、そのまま水を蹴ってこちらへ駆けてきた。雨粒と一緒に水滴を散らし、裾まで泥水を被って色の変わった足を軽く振る。

「箸にも棒にも掛からなかった」

 そう言いながらも――珍しい、子どものような笑みが浮かんでいるのを見て、胸の奥がふっと弛んだ。固まっていた不安がほどけ、安堵と一緒に、くすぐったいような鼓動まで紛れ込んできてしまう。

 軒下で横顔を見上げていると、もう少し、引き止めたいような心地もした。

 けれどアストンはひとりなのだから、まだ夜にはやることも、きっと沢山あるだろう。店の片付けも、家事も。送ってもらったぶん、既に遅くなってしまっている。

「送ってくれてありがとう。……おやすみ」

 傘を差しだすと、アストンもふっと表情をゆるめてくれる。そうして、おやすみ、と言って傘を取って行った――先ほどまでと反対の腕が視界に入った瞬間、あっと声を上げそうになった。


 アストンの片袖は濡れそぼり、腕に張り付いていた。

 呼び止めるより先に、黒い大きな傘は雨の中をどんどんと遠ざかっていく。二軒ぶんほど離れたところで一度振り返り、大きく手をふってくれた。けれど、胸の奥は熱を帯びている。


 ――大丈夫? 濡れてない?

 ――ああ。


 そう交わしたというのに。

 ワンピースの裾すら濡れていない自分を見下ろし、扉にもたれかかる。厚い木にこつんと額を預け、あの後ろ姿を見遣った。

「……うそつき」

 自分でも驚くほど甘い呟きは、雨に溶けた。


 背の向こうからは、灯りに満ちた宿の喧騒がかすかに聞こえている。

 けれど、今はまだ、小さくなっていく傘をいつまでも見詰めながら――夜雨の涼しさに、頬の熱をそっと冷ましていたかった。


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