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21.アストンとせんたく

 アストラ・ポラリスの閉店時間を、僅かに遅らせることにした。

 というのも、ティアが正式に仕事を始めたことで――そう、仕事だ。つまり、当分はこの街にいるだろうという確信が強くなり、また安堵した。

 ともあれ、それに伴い、ひとつだけ心の痛むことがあった。習慣になっていた、夕刻の使いである。


 花屋でのリース編みと違い、診療所の仕事は夕陽が傾くまで続く。さらに診療所とアストラ・ポラリスは逆の方向であるから――わざわざ仕事終わりに訪ねてもらうというのは、気が引けて仕方がないのだった。

 けれど自分から宿へ訪ねるのは、余り物はないかと無心に行くようで卑しい。そもそもティアが街に来るまでは、余り物を貰うことは週に一度あるかないかであったのに、今では隔日、もしくは連日届けてもらっている。いくら余りと言っても食材には費用もかかるだろうに、金を渡そうとしてもマルタには受け取ってもらえない。

 そういうわけで、大変だろうから届けなくてもよい、というようなことを断腸の思いでティアに伝えた。

 すると何と答えられたか。

「……来ちゃ、駄目かなぁ」

 駄目なわけがない。


 そういうわけで閉店時間を延ばしたものの、宵の口の道を帰すのは忍びない。季節柄、日が伸びつつあるのが救いだったが、それでも暗くなる前に帰そうと思えば自然と、顔を合わせる時間は貴重なものになっていた。


 ここまでが前提である。

 だからティアが店に顔を出したとき、もうそんな時刻か、と弾かれたように立ち上がった。しかし時計は15時半を指している。そもそも、まだ窓の外は昼の光に溢れていた。

「どうして……」

「先生がね、よその街でお医者様の集まりがあるんだって。早く終わっちゃった」

 花が綻ぶようなはにかみに、鼓動が速くなる。その表情も、紡ぎ出される声も、まだずっと胸の中へ密かに溜めていたかった。

 けれど、憎らしいことに今日は、今日ばかりは。

「さっき慌ててたけど、どうしたの?」

「ああ、もう夕方かと思って……」

 夕方までに急ぎの修理が一件、これが終われば明日までの修理がもう一件。後者は最悪夜にやればよいが、問題は、近頃日用品の買い物を後回しにしていたことだった。買い物リストは伸びる一方で、いよいよ追い詰められてきている。商店が閉まる前に行かねば、炊事も洗濯も立ち行かなくなるのだ。


 そういったこと――要するに今日は忙しくて話を半分も聞けないということを、誤解を与えないよう、なるべく心を砕いて説明をした。残念がられるだろうか、と一瞬でも浮かべた己の自意識の高さを、木槌で叩いて責めながら。

「そっか……」

 だというのに、誤解のしようのないほどしゅんと落胆され、言いようのない感情が胸に渦巻いた。跳ねかけた心を、嬉しくなってはならない、今傷つけたのだぞと、理性で踏み押さえる。

「じゃあ、代わりにお買い物行ってこようか? そしたら、少しだけ……時間空いたりとか……えっと、空かなくっても行くよ!」

 悪しき心がまた頭を擡げるのを抑え、小さく息を吐く。

「使い走るのは申し訳ないが……正直、助かる」

「よかった! 何を買えばいいかな?」

 ティアは椅子からひょいと降りる。作業机に留めていたメモを取り、そのまま渡そうとしてから、走り書きの汚い字であることが気になった。けれど躊躇する間に、細い手が取っていってしまう。

「蝋燭……シャ……サ……?」

「どれ。……石鹸だ、汚くてすまない」

「マッチ、玉ねぎ、布巾、香水……香水?!」

 突然上がった大きな声に、思わず裁ち(ばさみ)を取り落としかける。ティアの目は丸くなり、こちらとメモを交互に見比べていた。

「何に使うの……?」

「何って……普通に、洗濯に……」

 洗濯の最後、(すす)ぐ際に数滴入れるものだ。ティアの住んでいた街――どこなのかは知らないが、そこでは習慣がないのだろうか。それにしても、宿ではマルタの洗濯の手伝いをしていると言うのだから、見たことくらいはあるだろう。説明をすれば、ティアは合点がいったように頷いた。

「あれのことなんだね、びっくりした……」

 他に何かあるのかと疑問が湧いたが、呑気に雑談をしている場合でもない。それぞれの売っている店と、個数などを書き足してゆく。

「香水だが、店には色々あると思うが、適当でいい」

「いつもはどんなのにしてるの?」

「なんか……茶色い瓶の……だが、もうない」

 特に理由はなく、一度買ったものを繰り返し買っていただけだが、ある日突然廃盤になってしまった。代わりに売り場がやたらと広くなり、選択肢が増えたものだから、その中から決めるのが億劫で、つい後回しにしてしまっていたよだ。選ぶのは苦手だ。だから、決めてきてくれるというのなら、願ってもいない話だった。

「色々と頼んですまない……買える分だけで、構わない」

「わかった。じゃあ、行ってくるね」

 眩しい笑顔を見せて、ティアは小さく手を振り駆けてゆく。その通る後に細かな光が舞うように見え、瞬いてからもう一度目を遣れば、ただ窓から差す陽に塵が輝いているだけだった。



 一つ目の納品が無事に終わり、二つ目も修理の見通しが立った頃、気が付けば陽は暮れかけていた。

 指先を止め、時計を見上げる。まだ戻らない。道に迷ったのか、それとも何かあったのか。些細な想像が、胸にさざなみを立てる。

 ――使いを、頼んでしまった。

 不意にその事実に行き当たり、閉じていた記憶の蓋がずれ、血の気が引いた。喉が詰まり、心臓の拍が乱れる。痛む胸元を掴み、探しに行こうと立ち上がりかけた、そのときだった。

 カラン、と鐘が鳴る。

「ただいま、遅くなっちゃった」

 軽やかな声が舞い込む。駆けてきたのか少し頰を上気させて、買い物袋を掲げた――ティアだった。安堵に、長く息が吐き出る。

「すっごく迷っちゃった」

「ああ……すまない、場所がわかりにくかっただろう。一箇所にも纏まっていなくて……」

「あっ違うの、お店じゃなくてね。香水、沢山あったから、どれがアストンのイメージに合いそうか悩んじゃって」

 少しずつ、鼓動が平素の歩みに戻る。ティアが、悩んだ、と語る割には機嫌の良いのが不思議だった。自分が訪ねた際にも、棚の前で婦人たちがあれやこれやと笑い合って選んでいるのを目にしたから、女性とはそういうものなのだろうか。

 それにしても、本当にどんなものでも良かったというのに、せっかくの空いた時間をそんなことに浪費させてしまったのが申し訳なくもあった。

「ありがとう、助かった。……いいものは、あったか」

 口にしてから、妙な言葉選びになってしまったと悔いた。ティア自身のものに尋ねるならともかく、自分へと買ってきてくれたものに、良いも何もあるまい。

 けれどティアは、あったよ、と声を弾ませ、その質問を待っていたとばかりに小瓶を開けた。


「あのね、柑橘系の爽やかなのと迷ったんだけど、こっちは少しだけ甘さがあってやさしい感じでね、でも華やかじゃなくて落ち着いてて……なんていうか、安心できる……感じで……」


 言葉の途中で何かに気がついたのか、ティアの声が次第に止まる。盗み見れば口元を押さえ、頰を真っ赤に染めていた。

 ――既に、自分の鼓動もうるさい。

 まるで自分のことを言われたようで、いや、違う、ティアの言葉はそういう意味ではない、自惚れるなと、頭の中で何度も言い聞かせる。

 けれど、理性が否定を重ねるほど、顔の奥に熱が滲んでいく。鼓動までもが裏切るように速くなり、どう取り繕えばよいのかわからない。せめて表情だけは崩すまいと口を結ぶが、指先まで火照るのを抑えきれなかった。


 それでも香りは確かに残り、この小瓶が手元にあるかぎり、洗濯のたびに思い出すのだろう。

 ティアの言葉も、頰にのぼった熱も。


 ――たいそう、先が思いやられる話だった。

 


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