20.診療所に、一歩
朝霧がまだ石畳に薄く残る街を、ティアは小走りに抜けていった。
両脇に並ぶ木組みの家々の窓からは、焼き立てのパンの香りや、洗濯桶の水音が漂ってくる。見慣れたはずの通りが、今日はいつもより広く、胸の奥で鳴る鼓動を反射しているように思えた。
角を曲がれば、白壁に蔦の絡まる建物が現れる。木の看板には「診療所」と、控えめな文字が刻まれている。
その扉の前に立った途端、無意識に足がすくんだ。喉の奥が乾き、拳を握る指先が冷たくなる。それでも意を決して扉を叩くと、ほどなく内側から足音が近づいた。
扉が開き、現れたのは白髪混じりの小柄な男性――ベネディクトだった。眼鏡の奥の瞳は柔らかく、口元には微笑が浮かんでいる。
「おはようございます、ティアさん。待っていましたよ」
穏やかな声に迎えられただけで、胸の張り詰めた糸が少し、ほどける心地がした。
「さあ、どうぞ。まずは薬草の仕分けをお願いできますか。煎じ薬の準備もしましょう」
ベネディクトは慣れた手つきで扉を押さえ、招き入れてくれる。診療所の中は、木の棚一面に瓶や乾燥した薬草が並び、ほのかに青い香りが漂っていた。
足を一歩、踏み入れる。緊張と期待がないまぜになった鼓動が、再び速まっていく。
ベネディクトは、奥の調剤室へティアを案内した。
古い木棚には葉や根が所狭しと並んでいる。陶器の壺には手書きのラベルが貼られており、刻まれた薬草が詰められているようだった。
「まずは簡単なところから。こちらのタイムを煎じてみましょう。計量は匙で二杯、水は薬鍋の半分。火は弱く、沸き立たせてはいけません」
深く頷き、指示通りに薬草を量り取った。
真鍮の薬鍋に水を張り、火鉢の炭の上に置く。ほどなく、淡い香りが立ちのぼった。緊張で胸が早鐘を打つ中、湯気の向こうで葉が揺れる。
――大丈夫、大丈夫。焦らずに。
けれども鍋底に小さな泡が立ち始めた瞬間、不安に駆られて火を強めすぎてしまった。
しゅう、と湯気が勢いを増し、かすかに焦げた匂いが混じる。
「あっ……!」
慌てて火を遠ざけたときには、液はすでに濃く黒ずみ、ほのかに香ばしい匂いを漂わせていた。
恐る恐る振り返る。ベネディクトは一瞥を送り、それからふっと目尻を緩めた。
「……香ばしいですね。ですが、効き目はほとんど失われています」
「ご、ごめんなさい……!」
深く頭を下げる。けれど顔を上げれば、医師は首を振っていた。
「初めてなら誰でもやることです。大事なのは失敗の味を覚えること。薬も人も、焦げ臭いときほど学びやすいものですから」
柔らかな笑みに胸の緊張が解ける。頬だけがまだ熱いのを冷まそうとするように、小さく、息を吐いた。
日が高くなるころ、玄関の扉に吊された札を裏返し、診療所が開かれた。
石畳の道から差し込む光が床を斜めに照らし、しんとした空気が一変して人の気配で満ちてゆく。
最初に入ってきたのは、手に布を巻いた少年と、その母親だった。布の隙間から覗くのは、擦り傷にしては深そうな赤。母親は不安そうに唇を噛んでいた。
「手を机の上にどうぞ。……転んだのでしょうか。裂けただけですね」
医師らしく手際よく布を外し、消毒液を染ませた布で血を拭っていく。その間、ティアは指示通り薬瓶を用意し、包帯を解いて広げた。
「う……」
消毒の痛みに、小さな声が上がる。まだ薄い肩が捩られるのを目にした途端、胸に痛みが走る。考えることもなく、反射的に身を乗り出してしまっていた。
「大丈夫、すぐ治りますよ」
母親の顔に一瞬、安堵が浮かんだ。
――けれど。
「……ティア。根拠は?」
背後から届いた声に、手が止まる。振り返れば、医師の眼鏡の奥が静かに光っていた。
「え……その……」
「すぐ治ると、どうして言えるのです?」
問われ、言葉が気管に詰まる。何かを送り出そうとする喉だけが、ひくりと動く。
母子は不安げに、自分と医者を見比べていた。ベネディクトは母親へ穏やかに微笑み、落ち着いた声で言い直す。
「心配はいりません。消毒をすれば化膿もしないでしょう。数日で塞がります」
そうしてから、視線をこちらへ戻す。
「患者は言葉に縋ります。見通しを示すときは、必ず理由を持ちなさい。無根拠な安心は、時に害になります」
その声音に叱責の響きはなく、ただ――その職に従事する者としての、厳格さがあった。
俯き、手の中の包帯を強く握りしめる。
「……はい」
静けさが戻った診療所で、少年の包帯が巻き留められる音だけが、細く響いていた。
夕刻。窓の外に茜の色が差し込み、診療所の一日はようやく終わりを告げていた。
薬瓶を棚に戻し、使った器具を湯で洗いながら、胸の奥に残る緊張をほどこうとしていた。
「……ティアさん」
片付けに区切りをつけたベネディクトから、不意に声をかけられる。
「ひとつ確かめましょう。ラムダナウの効能は?」
問われた瞬間、反射のように言葉がこぼれる。
「激しい痛みや咳を抑えます。……ただ、依存性が強くて、長く使うと危険です」
先生の頷きは静かだが、確かだった。
「では、柳の樹皮から得られる成分は?」
「発熱や頭痛の軽減に。けれど胃を荒らすこともあるので、体質に注意が必要です」
続くいくつかの問いにも、舌は滑らかに答えを繰り返した。記憶が途切れることはない。
書き写した夜、擦り切れるほど頁をめくった夜。あの積み重ねが、ようやくここで形になったのだと思う。
「……よく学んでいますね」
最後の答えを受け、眼鏡の奥の目が細められた。
「知識は確かです。あとは、経験を重ねること。机の上ではなく、この場で。……それができれば、十分に力になるでしょう」
静かに紡がれたその言葉に、胸の奥が温かく膨らむ。昼間の失敗に沈んでいた気持ちが、不思議とやわらかく解けていくようだった。
薬草棚の戸を閉めながらも、胸の奥では、まだ熱の残る高鳴りが続いている。それを鎮めるように息を整えてから、意を決して口を開いた。
「……あの、先生。もし初歩的な薬学書がありましたら、貸していただけませんか」
言いながら、両手の指が自然に絡み合う。
「復習をしたくて。今日も、色々と失敗をしたので……」
ベネディクトは一瞬だけ目を瞬かせ、すぐに静かな笑みを浮かべた。
「熱心なのは結構ですが――夜更かしをして、時間に遅れてはなりませんよ」
机の引き出しを開けると、薄い綴じ本を一冊取り出した。革の表紙は擦り切れ、手に馴染んだ跡がある。
「基礎をまとめたものです。まずはこれから。……そして、」
本を手渡しながら、やわらかな声が添えられる。
「明日も、待っていますよ」
両腕で本を大切に抱え、診療所の扉を後にする。外に出ると、夕陽はすでに西の屋根に沈みかけ、石畳を茜色に染めていた。家々の窓には、灯りがひとつ、またひとつとともりはじめている。空には、気の早い一番星が輝きを放っていた。
胸の奥で鼓動がまだ収まらない。今日一日の失敗も叱責も、振り返れば赤面することばかりだ。けれど――そのすべてを抱えたままでも、明日もと告げられた。そのことが、心の隅々までを温かく満たしていた。
ふと吹き抜けた風が髪を揺らす。鼻先を掠めたのは、市場通りから漂うハーブの香りだった。――頑張ろう。まだまだ、私は進める。
夕風に背を押され、足取りはさらに軽くなる。
暮れなずむ街路を歩きながら、ティアは手に抱えた本の表紙をそっと撫でた。
その重みはただの紙束ではなく、まるで、明日へ続く扉の鍵のように思えた。




