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2.不器用な人

 まただ。

 森の闇の中、矢は弾かれ、獣の咆哮(ほうこう)(とどろ)く。炎に照らされ、前に出た級友の黄金の耳が輝く中、ティアの肩は強く押しとどめられた。

「耳なしは下がってろ!」

 怒鳴り声の端は震えていた。怪我をすればお前は終わりだ、と告げていたのだ。

 分かっている。走れば息が上がり、傷の治りも遅い。輝く耳もない。それは半分ヒトの血を持つからだと、幼いころから知っていた。けれど、大好きだった父を恨むことだけはしたくなかった。

 ――ああ、それでも。

 守られてばかりの自分は、いつだって、ただの足手まといなのだ。



 息継ぎをするように、は、と呼吸が零れ出た。額には冷たい汗。息が荒い。

 背に張り付く肌着が、夢見の悪さを思い出させた。それとも汗ではなく、雨に濡れたせいだろうか。

 ――雨。雨の中で倒れて、それから。

 ティアはベッドの上で、薄暗い周りを見渡した。狭いが、生活感のない部屋。ベッドのそばには小さな机、その上には油のきれたランプもある。クローゼットは取っ手に薄く(ほこり)がかかり、最後に開けた日からの年月を感じさせた。

 ベッドから足を下ろすと、ギシリと床の木が(きし)む。そこでようやく、ベッド脇に自分のブーツがきれいに揃えられていること、ケープが壁に掛けられていることに気が付いた。一体、誰が。胸の奥に、微かに戸惑いが走る。


 カーテンの隙間から(こぼ)れる光は、朝のやわらかなものだった。靴を履いて窓辺に寄り、外を覗く。

 二階であるらしい窓の外、石畳の道は昨夜の雨に洗われ、朝の光を受けて銀色に光っている。向かいに立ち並ぶ建物はどれも、これまでの旅で通過してきた街々と同じように、木の骨組みが漆喰(しっくい)の壁に規則正しく映えていた。けれどその色彩は、ひときわ鮮やかに見える。

 どうやら一階には小さな店や工房が並び、二階は住居になっているらしい。垣間見える洗濯物や花、窓から零れる人の気配が、街に息づく暮らしを感じさせた。

 記憶の限りでは、昨日最後にいたのは、確か路地裏だった。誰かが、自分を見つけてくれたのだろうか。


 そのとき、階段を上ってくる音が聞こえた。ティアは咄嗟(とっさ)にシャツの裾を整える。編んで結っていたはずの髪はぐちゃぐちゃだろう、気になったけれど間に合わない。羞恥を飲み込む間もなく、扉が小さくノックされた。

 返事をすると、キィ、と戸が開く。

 静かに顔を出したのは、黒髪の青年だった。年は自分とそう変わらないように見える。深い森を思わせるような瞳と、視線が合う。吸い込まれそうになり、言葉を返そうとしたが、舌が思うように動かない。

 端正な顔立ちはティアと目が合っても表情が動かず、心の内が窺えなかった。緑のエプロンには色とりどりの染みが点々と残り、腕まで(まく)られたシャツの袖口も同じように染まっている。染料か絵具か、彼の仕事を物語っているようだった。

「あの、」

 あなたが、と聞こうとするより先に、「怪我は」と短く問われた。冷たさはなかったが、それ以上の言葉が続くこともない。

 青年の一言でようやく、腕のことを思い出す。夢の中とは違い、触れてももう痛みは何もない。

「何ともないです。服は破けてるけど、怪我はないみたい」

 嘘ではない。不要なことを言って、半端な出自を知られたくはなかった。

 答えると、青年は一度視線を落としてティアの腕を確かめる。表情は変わらないままだけれど、瞳が一瞬、かすかに緩んだように見えた。まるで、染料がするりと水に溶けるように。一拍遅れて、そうか、とまた短く返事がある。彼の表情からは心の内が読み取りにくい。

「連れは? ……一人なのか」

 一人です、と首を横に振るとまた、「そうか」とだけ返る。

「なら、他所へ移れ」

 思わず、息が詰まった。居座るつもりなどなかったものの、胸の奥で微かに痛みが芽生える。けれどそれを打ち消して、すみません、とケープを抱えた。

 助けてもらった上に優しい言葉まで期待するとは、我ながら図々しい。

「いや……」

 逃げるように部屋を出ようとした背に、声がかかる。振り向けば、戸惑うような瞳があった。

「……埃っぽいんだ。長い間使っていないから、掃除をしていない」

 さわる、と続いた言葉が、身体に障る、という意味だと気がつくのに時間を要した。けれどその一言で、胸の奥の痛みが溶けていく。冷たくあしらわれたわけではない、と知って、心の中で小さな安堵が広がった。

「大丈夫です! あっ、でも、動けるので出ます。ありがとうございました」

 頭を下げる。するとこちらを見詰める視線がまだ何か言いたげであるように感じ、首を傾げた。迷うような間があってから、その手袋、と言葉が出る。

 ティアは自分の手を包む、革手袋を見た。森で襲われたときに食い破られたせいで、右手の片側が大きく千切れている。

「服の破れは役に立てないが、手袋は、うちででも売っている。……修理もしているから」

 必要であれば店に来るといい、と。告げてようやく、青年は少し満足をしたような顔をした。

「ありがとうございます。伺います、必ず」

 約束をし、長居はするまいと階段を下りる。青年は階段の上からまだこちらを、またあの無表情で見ていたので、もう一度頭を下げる。そうして、振り切るように扉を押し開けた。

 先ほど確かに見えた微笑みの名残が、胸の奥に残る。


 ――朝の光。

 外に出た途端に、やわらかく降る陽射しが優しすぎて目に染みる。その眩しさのせいで、目の前にいた女性に気が付かずにぶつかりかけた。弾みに、石鹸とスープの匂いが、ふわ、と鼻をくすぐる。思いがけず胸の奥に、遥か遠い日の台所の風景がよみがえった。

「すみません! 大丈夫ですか」

 自分は謝ってばかりだと思った。けれど、砂糖壺のように恰幅(かっぷく)のよい女性は、目が合うと朗らかに笑った。

「あんたかい、倒れてた女の子ってのは。もう身体はいいのかい?」

 目尻に刻まれた(しわ)が深くなる。雪を解かす陽光のような声はこちらの返事も待たず、明るく言葉を続けた。

「アストンから聞いてるかい? あたしがマルタだよ」

「アストン? この家の男の子のことですか?」

 ティアが問い返すとマルタは、まぁたあの子は!と呆れたように声を上げた。口数が足りないだけで悪い子じゃないんだよ、と言ってまた陽気に笑う。

「部屋を融通してやって欲しいって頼まれたんだよ。あたしは近所で宿屋をやっててね」

 あの人、そんなことまで。

 出たばかりの家を、弾かれたように振り返る。青みがかった灰色の屋根は、朝の穏やかな気配の中に沈んで見えた。

 ――助けてくれたのに、名前も聞かず、こちらも名乗らずに出てきてしまった。

 深緑の奥が微かに揺れた、あの瞳を思い出す。不愛想なようでいて、心配してくれていた人。店に行けば、今度は名乗れるだろうか。

 歩調の早いマルタに並んでついていく、その鼓動は、いつもより微かに駆け足に感じられた。



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