19.ベネディクト
夕方、いつものカウンター。惣菜の包みを受け取ったアストンが、袋の口を覗き込んだ途端――くう、と正直すぎる音が腹から零れた。
「すまない。……昼食が早過ぎたから、腹が減っていて」
耳まで赤く染めて弁解するその姿に、こちらこそ悪いことをした気がして、ティアは思わず腰を浮かせた。けれどアストンは首を振り、包みから視線を逸らす。
「いや、どうせまだ閉められないから……引き取りの客を、待っていて」
思いがけず袖を引き留められたようで、頬にかすかな熱が広がった。座り直せば、アストンも自分の発した言葉の意味に気が付いたのか、気恥ずかしそうに視線をさまよわせてしまう。
それにしても、いつもなら時間が来れば、きっちり閉めてしまうのに。珍しい様子に、誰を待っているのだろうかと疑問が浮かんだ。今夜街を発つ旅の人か、それとも。
想像を巡らせては答えの出ないまま、ふと気づけばアストンは空腹を誤魔化すように無意識に腹を撫でていた。
あれが欲しい、あれをしたいなどと欲求を口にすることなど滅多にない人が、物欲しげに包みを見つめている。その姿が不思議と胸を温めて、ティアは心の奥でそっと笑みを噛み殺した。
カラン、と扉の鐘が鳴る。
振り返ると、布鞄を抱えた初老の男性が立っていた。白髪を混じらせた頭に、背筋のまっすぐ伸びた小柄な体。
「先生……」
アストンが小さく呟いた。「学校の?」と小声で問うと、「お医者様だ」と短く返される。
ティアは改めて、白衣姿の男性を見遣る。ヒトの医者を見るのは、初めてのことだった。
「申し訳ありません、閉店の時間を過ぎてしまったでしょう」
穏やかな声が寄るにつれて、天井のライトが眼鏡に小さな煌めきを映す。そのたびに瞳に灯る光が揺れ、星々のように瞬いた。
「いえ、先生も遅くまで……何か、流行っているんですか」
アストンは大きな革の鞄を両手で抱え、そっとカウンターへ乗せる。
「いいえ。助手の方が別の街で医者をすることになりましてね」
医者は静かに言葉を継いだ。
「喜ばしいですが、薬の調合を任せていたものですから、ひとりではどうにも慌ただしくて」
早く代わりの方を見つけなくてはならないですね、と困ったように微笑む。その声は柔らかで、非難の影など微塵もない。
けれど、ティアの胸は、どきんと大きく脈打った。
――薬草学。
学舎の窓辺で、夜の寮で、擦り切れたノートを埋め尽くすように図版を写した日々がよみがえる。苦手な実技に空いた欠落を埋めるように、せめてもと覚え込んだ。
得意と呼べるものがひとつあったとしたら、あの頃の自分にとっては、それだけだった。
今は、何者でもない。宿に身を寄せ、日雇いを転々とするだけ。だからこそ、この機会を逃せば二度と掴めない気がした。
舌が張りつき、喉が渇く。それでも、言わずにはいられなかった。
「……あの」
自分の声が、自分のものではないように掠れる。
「助手に、していただけませんか。代わりの方が見つかるまでで、構わないので」
言い切った瞬間、耳の奥で血の音が鳴り、心臓が破れそうなほど跳ねていた。
「……勤めた経験がおありで?」
返された声は穏やかではあったが、刃のように鋭く胸を刺した。
全身が一瞬で冷え、次いで、顔が燃えるように熱くなる。自分がどれほど馬鹿なこと口にしたのかと気が付いた。
――けれど、それでも。
「ないです。でも、フリードリヒ・クラウスの『師弟のための薬理綱要』なら、ほぼ暗記しています」
同じ諦めるならせめて、今の自分が持っているものはすべて差し出してからにしたかった。
医者の瞳が細められ、柔らかな光の奥に、測るような色が宿る。
「……ジキタリスの主な効用は?」
「鼓動を強めて……脈を整えます。ただし、過剰摂取は毒になります」
「銀草軟膏はどのような症状に?」
「皮膚の症状……梅毒とかに使います。ヒトは毒を分解できないので、使い続けると、使う人……患者を衰弱させます」
胸の奥で心臓が痛むほど打ち鳴らされる。
その音を聞いているかのように、医者はひと呼吸置いてから、布鞄を探り、金属製の筒を取り出した。
「では、これは?」
蓋を外すと、仄かに甘い香りが立ちのぼる。赤みを帯びた、黒い葉片のようなもの。
煎じた葉のように見えるが、それだけでは絞りきれない。香りも、何の手がかりにもならなかった。
本でいくら繰り返し覚えても、いざ目の前にすると心許ない。書かれた知識と、実際の匂いや重みの隔たりを、痛いほど思い知らされた。
覚えていると言い切った手前――それもアストンの前で、わからないと告げるのはひどく恥ずかしかった。いくつもの候補が頭を駆け巡る。当てずっぽうで答えれば、恥をかかずに済むかもしれないともよぎった。
――けれど、今たまたま当てて拾われたところで、きっとこの人の役には立てない。
虚栄をぐっと飲み込む。
唇を噛み、しばし迷い、そして深く息を吐いた。
「……申し訳ありません、わかりません。何の薬ですか」
缶から顔を上げられずにいても、返事はない。代わりに肩が微かに揺れ――息が零される。
溜め息ではない。笑い声、だった。
それもただ朗らかなわけではない、僅かながら、揺るぎない知性の滲む声だった。
「紅茶です。先ほどの往診でいただきました」
さっさと缶を閉めて布袋に仕舞う姿を、呆気に取られて見詰める。体良くあしらわれてしまったのかと思うと恥ずかしさが込み上げ、また頬が熱くなった。
「お名前は? ……そう、ティアさん」
医者は名を尋ねてからふと表情を改めると、穏やかな声で問いを続けた。
「ティアさんは、初めて取り組む仕事で大切なことは何だと思いますか?」
不意を突かれ、胸がどきりと跳ねる。
脳裏に浮かんだのは、この街に来た初めの日。マルタのもとで、魚を捌いたときのことだった。
「教えられたことを、確実に覚えることでしょうか」
「それも大切ですが」
ベネディクトの瞳がわずかに細められ、深く測るように光を宿す。
「私は、無知を隠さないことだと思っています」
は、と顔を上げる。凪いだ海のように深く、包むような瞳が、ティアを見詰めていた。
その眼差しがゆるむのに合わせ、目尻の皺が深くなる。
「わからないことや自信のないことがあれば、隠さず、臆せず、何度でも聞いてください。――今のように」
言葉が落ちた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。血が駆け巡り、鼓動が耳の奥で荒々しく響く。
――今のように。自分の答えを、この人は受け入れてくれたのだ。
喉が渇き、息を吸うのさえもぎこちなくなる。
医者は革鞄をカウンターから引き上げると、もう一つの布鞄を抱え直した。
「明日、朝七時に診療所へ来てください。場所はマーケット小路、広場から市場へ向かって歩けばすぐ、帽子屋の二軒隣です」
そう言い残し、颯爽と扉へ向かう。その背中に迷いはなく、もう返事を待つ必要さえないという風に見えた。けれど手を掛けたところで振り返り、穏やかな声は静かに名を紡ぐ。
「私は、ベネディクトといいます。――ではティアさん、また明日」
告げられた名が、胸の奥で余韻のように響く。閉まった扉を見詰めたまま、鼓動だけが、遅れてついてくるように打ち続けていた。
「凄いじゃないか。……先生が認めたんだ、性根も、知識も」
振り向けば、緑色の瞳と目が合う。アストンはふっと表情を緩め、目尻にやわらかな笑みを浮かべた。
その声に胸の奥がじんと温かくなる。努力が報われたのだと気づくと同時に、誰よりも近くでそれを喜んでくれる人がいる――そのことが、なによりも心を揺さぶった。
外では夜の帳が下りはじめ、窓の外に灯る街灯が、石畳を淡く照らしている。静かな店内に響くのは、自分の心臓の音だけ。
それは明日への期待だろうか、それとも、別の。
判別のつかない鼓動を抱いたまま、ティアは熱い頬を隠すようにうつむき、こくりと小さく頷いた。




