18.いつか似合う煌めき
仕立て屋を出るころには、空はすっかり茜に溶けていた。
今日の総菜は、アストンが直接宿へ取りに寄るという。石畳の上には二つの影が長く伸び、かすかに触れそうで触れない距離を保つ。足音を並べるうち、あっという間に宿の明かりがもう目の前に見えた。
窓の向こうからは、今夜の宿泊客たちの笑い声と、皿の触れ合う音がこぼれてくる。
手伝うことはあるだろうかと扉を押し開ければ、手前の階段の脇に、リネンの入った籠が積まれているのが目に入った。
「マルタさん、お洗濯ものは二階?」
「ああ、ありがとう! 持って行ってくれると助かるよ」
食堂の方へ叫べば、よく通る声だけが返ってくる。いつものように洗濯籠を二つ重ねて、上にボタンたちの入った紙袋を乗せる。そうして、まとめて持ち上げようとしたときだった。
不意に、視界が開ける。見上げれば上の籠は、すでにアストンの腕の中にあった。
「二階でいいんだな?」
――胸の奥に、種火のような熱さがくすぶる。その正体が、小さな腹立たしさであったのが、自分の救えない部分であると思った。
記憶がよみがえる。故郷の、いつかの学舎。
後ろの席で、級友たちはペンを回しながら談笑をしていた。
「ね、言ってたノウミの男の子、どうだったの?」
ノウミ、とはイヌミー族の中で、獣耳のない者たちの俗称だった。ティアのように混血であっても、完全なヒトであっても、すべてまとめてノウミ。純血以外を弾く総称。
「可愛かった! やっぱり恋人にするならノウミがいいな。入ったカフェでジャムの瓶が出たんだけどね、『開けられないから開けて』って! 守ってあげたーい!」
「あざとくない? それってわざとやってない?」
「わかってるって、でも可愛いと思われたがってるのが可愛いでしょ」
――ありがとう、助かっちゃった。力持ちだね。
そんなことを言えればきっと、可愛いのだろう。けれど、嚙んだ唇を解いて出てくるのは、違う言葉だけ。
「私、持てるよ」
弱くないのだ、劣っていないのだと魂が叫ぶ。階段を昇りかけていた足が止まり、こちらを振り返る気配がした。強い言葉で断言しておきながら顔を見られない自分は、半端な臆病者だった。
――けれど。
「……俺だって、パンぐらい、自分で買える」
繋がらない会話に、顔を上げる。呆れているか、もしくは不愉快になっているだろうと思った顔は、困惑の色を乗せていた。
「パンぐらい買えるが、買って来てくれただろう。昼間……。これも運べるだろうが、」
そこまで口にしてから、続きとしてふさわしい言葉を探すかのように押し黙ってしまった。
けれど、十分だった。胸の奥に、仄かな熱が広がる。
いつだって、差し伸べられた手に抗うたび、胸の奥では風が逆立っていた。その手は自分を弱者の側に押しやるものであり、役立たずの印を刻むものだと、思い込んで。
けれど思い出す。昼間、二人のためにパンを買いに歩いた道中の足取りを。あのとき吹いた風は、むしろやわらかく胸を満たしたのではなかったか。
そうだ。差し伸べられる手は、弱さを示す印ではなく、ただ誰かの温もりが触れているだけのものだった。
ならば、この手もきっと。拒む理由など、どこにもない。
そう気付いた瞬間、胸の奥に長く絡まっていた糸が、静かに解けていくのを感じた。
「うん。……ありがとう、嬉しい」
作り笑いではない。自然と、顔がほころんでいた。
「いや……そこまで言われるほどのことはしていないが……」
アストンは恥ずかしそうに、もごもごと口にする。少なくとも今瞬間の自分にとっては、あの言葉は、そこまで言うほどのことだったのだけれど。
それはまだ胸の中に仕舞って、いつか、言えるときが来ればよいと思った。
夜。寝る前に、仕立て屋から持ち帰った袋を開けてみた。繊細なレースやリボンと一緒に、ボタンが机の上に転がり、踊るように小さく揺れる。
そのうちのいくつかを、花暦祭で買った革袋に入れようとして――ずっと中に仕舞っていた髪飾りを、ふと、外の世界に触れさせる気になった。
まだ十歳にもならない頃、校外学習で故郷の郊外へ出たときに出店で買った、髪飾り。
鮮やかに染まる革が重なって花弁を作り、中には磨かれた何かの角が、小さく蜜のように煌めいている。店の女性の手は仕事のせいか荒れていたけれど、細く花の茎のようだった。
この飾りはきっと、ああした人にこそ似つかわしいのだと決めつけていた。だから、欲しくて手に入れながらも、胸の奥で恥じるように隠してきたのだ。
けれど、脳裏に浮かぶ。針で破れてしまいそうな布をすくい、ひと針ごとに命を吹き込んでいたハーゲンの姿が。その営みも、生み出すものたちも、間違いなくまばゆいものだろう。
儚さは弱さとは限らない。守られるものは時に、光そのものになる。
その輝きに手を伸ばすことを臆する必要はきっと、どこにもなかったのだろう。
鏡の前。買ったきり、一度もつけたことのない髪飾りを、耳のない頭にそっと当ててみる。
留めるのはまだ気恥ずかしくて、けれどただ手の中で眺めていた七年ほどの間よりも、ずっとあたたかな気分だった。




