16.アストンのごはん
街全体がどことなく寝坊をする、祭りの翌朝。
アストラ・ポラリス二階、午前六時半。アストンもベッドの上で、窓からさす朝の光を眺めていた。
ここのところ、長らく心を張り詰めさせていた――祭りが終われば、ひょっとするとティアはどこかへ行くのでは、という懸念が消えて、安堵に気が抜けたようだった。
定住すると決まったわけではないが、ひとまず、急にいなくなることはない。それだけで十分に、のしかかっていた荷が消えたような心地だった。
小鳥の、ぴい、とさえずる声が窓の外に響く。
日は昇ってしまったのだから、いつまでも自堕落に寝ていてはいけない。
祭りのお陰で、昨日は小物や大きな鞄が売れたものだから――普段も別段貧困に喘いでいるわけではないが、懐に余裕ができるというのは有難いことだ。
しかし、これから雨の季節である。革の修理は増えるし、靴の買い替えも多い。まだまだやることはあると起き上がり、ひとまず、朝食を取ろうと思い立った。
パンはある。
が、ほかは何もない。チーズも卵も干し肉も、野菜もない。芋すらない。珈琲豆だけはある。
ひとまず火を起こし、手回しのミルで豆を挽きながら、どうしようかと考えた。商店が開くのを待ってもいいが、これだけ何もなければ、朝の市場でまとめて買うのがよいだろうか。
――夜まで、パンだけでいいか?
一瞬浮かんだ考えを打ち消す。昨夜、マルベリー宿で夕食を取った際に、散々食べろ食べろと口煩く言われたのだった。
人並みには食べる方だと思っていたが、隣に座るティアが健啖家だったからだろうか。
「食べないの? 大丈夫?」
そんなことを聞きながら、あの小さい――別段小柄ではないが、華奢な身体のどこに入るのかと思うほどよく食べる食べる。幸せそうに頬張るものだから、もう少し見ていたくてつい、手をつけていない自分の皿を勧めなどしてしまった。
すると逆に、四方八方から料理を足されること。参ってしまった。
市場に行くか、と気合を入れて珈琲を煽る。
思い切りが必要なのは、人混みもさながら、稀に困ったことになるからだった。
そう、例えば。
「あっ、アストン! 昨日、花持って歩いてなかったかい? 赤の!」
「赤の?! 渡す相手がいるんだね?!」
「シッ! まだ触れるんじゃないよ!」
肉を買いに来ただけなのに、どこからともなく集まってくる婦人などである。
赤い花。
ティアの雰囲気には、黄色や白の方が似合うと思った。けれど店先で用途を問われ、答えれば、それなら赤をと勧められたのだった。
――それなら赤を。
それならとは、何だったのだろう。今になって気に掛かったが、色によって、もしかすると用途が異なるのだろうか。
ティアは博識だからいずれ聞いてみよう、と考えて、ひとまず花は思考から追い遣る。
「それより、肉を……200……」
「何日分だい? 二日分? 400ぐらい食べな、上背ばっかり伸びてどうすんだい」
「そうだよ、肩にもっと肉つけな! シャツもぶかぶかじゃないのかい」
「これは……親父のを……洗濯が追いつかなく、」
「ロドリクとあんたじゃ目方が全然違うだろ、私が買ったげるから食べな!」
「じゃあ鶏の脚もまけとこうかね。多けりゃ、彼女でも誘って一緒に食べたらいいよ」
「こら、まだ余計なこと言うんじゃないよ! 料理が難しければ、塩とオイルをかけて、野菜と一緒にオーブンで焼くんだよ」
返事をひとつ考える間に、話が三歩先へ駆けてゆく。好意を無碍にするのも憚られ、有り難く受け取れば、二日分という肉は存外腕に重かった。
……しかし、幾分か、重すぎやしないだろうか。
さて、帰宅し、言われたままに切ってオーブンへ突っ込んでから、はたと気がついた。
スープは火にかけ続けたところで燃えないが、これは焦げるのではないか。
何分ほど焼けばよいのかもわからず、開け閉めを繰り返しては時計を見上げる。開店までに洗濯をしたかったが、これでは間に合わない。一旦火を消し、慌ただしく洗濯をして二階に干し、昨夜は合算をせずに寝てしまった帳簿を開く。算盤を弾いて記帳――焦ったせいか残金が合わない。やり直し。
二度目で揃い、次は窓ガラスを拭きにゆく。扉を開け放して、黒板を脇に立てかけ、等々。
開店早々に客が来て冷や汗をかいたのも束の間、靴の修理を急ぎでと頼まれる。結局、調理しかけのオーブンを思い出したのは午後二時、昼食代わりのパンを腹に詰め込み終わってからだった。
「あれっアストン、お店は? どうしたの?」
「夕食を……作りすぎたので……」
「えっ?!」
夕刻、店を早目に切り上げてマルベリー宿へ届けに行けば、台所で出迎えてくれたのはティアだった。手伝いの途中だったのか、格子模様のエプロン姿が眩しい。
「貰っちゃっていいの?」
「人に分けるようなものではないんだが……食べきれないので……」
「マルタさん、アストンの料理貰っちゃった」
軽やかに振り返った腰で、エプロンのリボンが長く揺れる。自分のその視線に罪悪感を覚え、台所のあちこちへ泳がせるうちに、花瓶に落ち着いた。昨夜、マルタの夫と、別の街に住む息子たちから届けられた花束の生けられた、大きな壺。
ふと、ティアは花をどうしたのだろうかと気になった。滞在している部屋に置いているのだろうが、花瓶のようなものは持っていたのだろうか。そこまで気が回らなかった。
「ティア」
「なに?」
「昨日あげた赤い花だが……」
がらん、とたらいの落ちる音が鳴る。
見遣ればマルタが呆気に取られたかのような顔をして、こちらを見ていた。目が合えばマルタは微笑み、何かの目配せをしながら頷く。
よくわからないが、頷き返しておいた。
「ちっ、違うの! マルタさん、そういうのじゃなくって! アストンも頷いてるけど絶対わかってないよね?!」
「別に、違わないのでは……」
「もう、後で話すから! あのね、マルタさん、」
「いいよ。こっちはやっとくから二人でゆっくり、上で話してきな」
「違うんだってば!」
ティアの頰が何故だか真っ赤になる。
その理由を教えられて――自分も同じ色に染まるのは、この、たった五分ほど後のことだった。
花屋でどう説明した結果、赤色が出力されたのか……。
春編はひと段落し、次回から初夏編になります。
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