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15.花咲くあなたと

 年を経るごとに、確かに抱えていたはずの家族の記憶が、零れ落ちてゆく。

 母が、魔獣から街を守り、命を落とした日。

 父が、竜の災害に生を断ち切られた日。

 兄が、告げもせずに故郷から消えた日。

 どう愛されていたのかを思い出そうとしても、幼い頃の日々は、もう両手で掬えるほども見つからない。

 寄宿舎の窓辺でひとり、街を見下ろすたび、胸の奥ではずっと泣き声が聞こえていた。

 ――誰かの、何かになりたい。

 汚れたノートをいくら積み上げても、擦り切れた靴をどれだけ替えても、自分の憧れる煌めきは彼方にある。



 錯綜する記憶を掻き集めるうち、見下ろす先にあるのは故郷の草ではなく、夕暮れの石畳だと気が付いた。

 祝祭の音楽の音はいつしか方々に散り、人の波もまばらになっていた。

 祭りの夜は家族で過ごす風習でもあるのだろうか。華やかな飾りを掛けていた店々も、いつもより早く片付けを始めている。

 マルタから、今日ばかりはアストンを宿の夕飯に誘うようにと、言いつかっていた。言伝を頼まれたときは心躍ったのだ。アストンと食事を共にするのは初めてであったし、マルタの夫と話すのも楽しみであった。本物の家庭ではないにせよ、誰かと食卓を囲むということに、胸が弾んでいた。

「……食べないで、寝ちゃおうかなぁ」

 呟きが、冷えた夕風に溶ける。口に出してみれば、よい案のように思えた。

 一晩寝て起きれば、大丈夫。また元の自分になっていて、次の仕事も探して、宿の手伝いも元気にして。

 ずっとそうやって生きてきた。だからきっと、大丈夫。


 捨てた心のぶんだけ少し身体が軽くなり、西陽に染まる家々の間を抜ける。

 帰路に着く人たちが花を抱えているのを見ても、もう歩みは止まらずにいられた。

 祭りの残り香は、広場から離れるにつれて薄まっていく。見慣れた通りを真っ直ぐにゆくと、まばらになった人影の中――遠くからでも見つけられた。少し屈んで店の前を掃く、エプロン姿を。

「ティア。……祭りはどうだった」

「楽しかったよ! 出店がたくさんあったの。あのね、マルタさんが、今日は晩ご飯食べにおいでって」

「そうか。少し、待っていてくれるか」

 アストンが店内に姿を消してから、そっと、長く息を吐く。いつもと変わりなく、うまく話せただろう。

 ――やっぱり、晩ご飯、一緒に食べようかなぁ。

 考え直せば、この機会を逃すのも勿体ないような気がする。折角、アストンも着替えてきてくれているのだ。

 そこまで考えたところでふと、扉の前に置かれたままの箒と塵取りが視界に入った。集められた落ち葉はまだ、石畳の上に小さな山を作っている。

 片付けて宿へ行くのではないのか、と疑問が浮かんだところで、扉の鐘が音を立てた。

 石畳に影が落ち、深緑色のエプロンの裾が視界の端に入る。


 上げた顔のそばに差し出されたのは――

 西陽に染まる、花、だった。


 息が詰まる。幾重にも重なる花弁がやわらかく重なり、陽に濡れて淡く煌めく。

 憧れて止まなかった、ラナの花束。


「……親しい人に渡すんじゃ、なかったか」

 不安そうな声に、はっと顔を上げる。震える手で受け取れば、しっとりとした重みが手にかかった。

 頰を寄せ、仄かに甘い香を吸い込む。瑞々しい匂いが肺に満ち、静かに吐き出せば、目頭に熱が溜まった。


 何かの弾みに、思い出してもらえる誰かになりたかった。

 何かの相手になる、誰かになりたかった。


 アストンは昨日、花のことを知ってから、どうして私を浮かべてくれたのだろう。

 今朝も客は途切れていなかったのに、いつ買いに行ってくれたのだろう。

 瞳から溢れた熱を拭うように、つめたい花弁が頰に触れる。夕陽に染まるその花が眩しいほどの赤だと、そのとき気がついた。

 アストンのことだから、きっと、何も知らなかったのだろう。けれど今は指摘をしたくないと思った。ただ胸に満ちる熱さを、茶化したり、濁したりしたくなかった。


「ありがとう、」

 声の端が震える。

 路地裏でうずくまっていた間、すでに渡してしまった白い花束を悔いた。そして、花屋の店先でもうひとつ買うか迷った花束を、買わずにいてよかったと思っていた。

 けれど。

 零れた雫を指先で拭い、顔を上げる。

「……来年は、私も贈っていいかな」

 アストンの瞳がゆっくりと、二度瞬く。映り込む夕陽がその緑色に煌めき、揺れる。

 淡い風が頰を撫でるほどの微かな間を置いて、ふっと、アストンの表情が緩んだ。


「――そうか。来年も、いてくれるんだな」

 花がほころぶような、笑みだった。


 胸が引き絞られるように震える。

 それでも、まだこの気持ちを、恋にしたくなかった。

 だって自分はまだどこかで、誰でもいいから誰かに愛されたいと思っている。この人に向き合うときだけは、自分も誠実でいたかった。

 この愚かさをやめられるまでは、まだ。

 この愚かさをやめられれば、きっと。


 夕暮れのやわらかな風が、赤い花の香をひとひら運んでゆく。

 祝祭の終わりを告げるような笛の音が、遠くで一度鳴り、途切れた。石畳に二つ伸びる影は、また日常に戻ってゆく。


 それでもティアの腕の中には確かに、幸いのかたまりが咲き誇っていた。

 


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